第55話
「口答えするな!生意気な!」
怒りに肩を震わせながらディレクが叫ぶ。セシルは一瞬、何が起こったか分からなかった。耳の届いたパァァンという乾いた音、頬を走る痛み、そして、口の中に広がる鉄の味に自分が兄から叩かれたのだと思い至る。
「何事ですか!・・・セシル様!」
物音を聞きつけてニコラが部屋に掛け込む。ニコラが目にしたのは口から血を流し、頬を押さえて涙ぐむセシルの姿だった。
「コンラート殿、セシル様をお部屋へ!アルトゥル殿は御医者様を」
ニコラの呼びかけに二人は迅速に動いた。
「セシル様、こちらへ!・・・ニコラ殿は?」
セシルを連れて部屋を出ようとしていたコンラートが問いかける。
「・・・私は旦那様方に御話がございます」
苦しげにそう言うニコラにコンラートは心配になりながらもその場を後にした。
「とんでもないことをして下さいましたね。ディレク様」
ニコラがディレクを睨みつけながらそう言った。その態度にディレクは腹を立てた。
「黙れ!侍女風情が偉そうに!」
「黙るのはお前だ!ニコラの言っていることは正しい!」
アロイスの怒鳴り声にディレクは訳が分からないという顔をした。
「兄が妹を叩いたくらいでどうしてそんなに慌てるんだよ?」
ディレクの言葉にアロイスは信じられないという風に言った。
「本気でそんなことを言ってるのか?セシルは今やただのお前の妹では無い!」
「え?」
「・・・セシルは王妃になるのよ・・・」
エディタが小さな声で呟いた。
「・・・王妃?」
いまだ、事態を把握できていない様子のディレクにアロイスは心底呆れた。
「あの状況でそれが分からんとはな!お前は自分を完璧だと思っているようだが、私からすればお前の方が愚図だ!」
「何だと!?」
愚図と言われてディレクはアロイスに掴みかかろうした。だが、それをかわされ逆にアロイスに後ろ手に捻り上げられた。
「甘やかされて育ったお前は鍛錬を怠っていたからな。この老いぼれ一人殴れまい」
「あなた!よして!」
堪らずエディタが叫ぶがアロイスは手を離さない。
「この件はお前にも責任がある。ディレクをこんな風に育てたのはお前だからな」
アロイスの辛辣な言葉にエディタは唇を噛み締めた。
「分からないなら分かるように教えてやる。セシルが今宵、壇上に陛下に伴われて現れたのはセシルが王妃に内定したことの証だ。単に寵室というだけではあの席に着くことは出来ない」
アロイスの紡ぐ言葉にディレクは顔色を無くしていく。
「如何に兄といえど王妃に手をあげることなど赦されない。お前は不敬罪に問われるだろうな」
不敬罪という言葉にディレクは全身に震えが走るのを感じた。
「でも!俺が不敬罪に問われるなら家だってただじゃすまないんじゃ・・・」
「セシル様が王妃になるためには爵位は必要不可欠。ブルックナー家そのものに爵位や領地の剥奪が行われるとは思えません」
ディレクが縋るように発した言葉を言い終わる前にニコラが否定した。
「刑罰が下るのはディレク様お一人でしょうね。御覚悟なさいませ」
ニコラはそう言い放った。ディレクは力なく項垂れた。
「・・・奥様、ディレク様」
ニコラの呼びかけにエディタが怪訝な顔をする。
「陛下はお二人のセシル様へのなさりようを全てご存知です。そして、大変お心を痛めておいでのご様子でした。」
発せられた言葉の内容にエディタは血の気が引いて行くのを感じていた。
「今回の件、穏便に済むなど努努お思いになられませんように」
ニコラはそう言い残して部屋を出て行った。後に残された三人はこれからのことに戦々恐々としながら逃げるように王宮を後にしたのだ。