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駅のホームに立つ。

山あいを渡る朝の風が、頬から首筋を抜け、襟元にかすかな冷たさを残していく。

薄曇りの空の下、遠くで雲雀がひと声鳴き、その響きは山の稜線の彼方に吸い込まれていった。

足元には昨夜の雨の名残が細い筋を描き、屋根の陰で陽射しが淡く縞模様を作っている。

旅の終わりにしては、あまりに静かな朝。

夢の余韻が、目覚めのあとも現実の空気に薄く残り、私はベンチの硬さと手元の荷物の重みを指先に感じていた。

朝の湿った匂いが、呼吸の奥までひそやかに沁みていく。

ホームの端に植えられた若い欅が、細い枝に小さな水滴を光らせながら揺れている。

時刻表の数字は静かに時間を示し、時計の針のゆるやかな動きさえ、別れの静けさを惜しむようだった。

次の列車までの間、私は取っ手に指を添え、線路の先にぼんやりと目をやる。

霞んだ山並みが、朝の靄の奥で輪郭を曖昧にしながら横たわっている。


出発の朝、宿を後にしたときの光景が、ゆっくりと胸の内に蘇る。

帳場の奥で、女将は最後まで多くを語らなかった。

けれど、私が草履を揃えて玄関に向かったとき、静かにひと言だけ残してくれた。

「また、いつかお越しくださいね」

旅館の定型の挨拶かもしれない。だが、その声には、ごくわずかに、別れの名残が滲んでいた。

私はその言葉に、小さくうなずいた。

全身に、ほのかな温もりがふっと灯る。

「……ありがとうございました」

――それは、かつて母に伝え損ねた感謝の思いを、ようやく誰かに手渡せたような、静かな安堵だった。

その声が届いたかどうかは分からない。

けれど語られた言葉の温度が、余韻となって胸に残り続けている。

振り返ると、もう女将の姿は見えなかった。

その一瞬のすれ違いさえ、今はなぜか愛おしい。

別れとは、きっといつも、こうして訪れるのだろう。


この数日間を、うまく言葉にすることはできない。

夢だったのかもしれない。

けれど、映写室の光も、朝の白藤も、あの少女の静かな視線も、今はただ懐かしい温度として胸に残っている。

過去と今。母と私。忘れていた自分と、これから歩き出す私――それらが、そっと、ひとつの場所で交わった気がしている。


母と過ごした最後の日々は、決して穏やかなものではなかった。

言葉が交わらず、気持ちは空回りし、胸の奥にわだかまりだけが積もっていった。

きちんと伝えたかったはずの感謝も、いくつもの小さな後悔も、ついに声にはならず、私はただ遠ざかる背中を見送ることしかできなかった。

あの日から、心のどこかで思い出すことを自分に禁じてきたのかもしれない。

けれど、それは「忘れる」ということではなかった。

思い出すことは、何かを失うことではない。

静かに――けれど確かに、そこから新しく繋ぎ直していくことができる。今なら、そう思える。


黒革の手帳――今朝、宿を発つ前に開いた最後のページは、白い余白だけが広がっていた。

だが、その余白の奥に、たしかにあったはずの一文を思い出す。

あの藤棚の下で初めて目にしたとき、それは「影が過去と交差する」という、どこか張り詰めた予感の言葉だった。

けれど、旅の終わりに見つめたその痕跡は、光の中で静かに意味を変えていた気がする。

いや、言葉が変わったのではない。

私が、ようやく本当の意味を受け取れるようになったのだ。

指先でなぞれば消えてしまいそうな淡い痕を辿りながら、胸の奥でその言葉を繰り返す。

「四月十五日。白藤の下。ふたつの影が、光に溶けて重なる。」

手帳はもう何も語らなかった。

だがその沈黙は、記憶がただの記録ではなく、いまこの瞬間、私自身が受け取る光そのものであることを、何よりも雄弁に伝えていた。

目の奥に、白藤の棚の影が、やわらかく浮かんで消えた。

記憶は、過去へ戻るためのものではない。

未来へ歩き出すための、静かな灯火なのだ。

人は変わる。時間も、景色も、巡っていく。

けれど、手渡されたもの――母から、少女から、女将から、いまの自分に託されたものは、確かにここに息づいている。


胸元のポケットに手をやる。

指先に伝わるわずかな重み――その存在だけで、身体の芯からじんわりと温かさが広がっていく。

春の風がそっと指の間をすり抜ける。

掌の内側に、まだ新しい季節の息吹が微かに脈打つのを感じる。

あの日、母の手のひらから受け取ったもの――それは言葉よりも深い贈り物だった。

思い出は、手のひらの温もりのように、いまをそっと満たしていく。

やわらかな風が吹いてきた。

肩に落ちた白藤の花びらが、ひとときだけそこにとどまり、私の指先にそっと溶けた。

私はそれを指先にそっと留め、しばし見つめる。

陽に透ける小さなかたちは、言葉の代わりに、静かにそこに在る。ただ、それだけで充分だと語りかけてくるように感じた。


掌の上の花びらが、春の光を集めて、わずかに震える。

列車が、ゆっくりとホームに滑り込む。

私は立ち上がり、深く息を吸い込む。

車内へ足を踏み入れ、窓際の席に腰を下ろす。

手すりに手を添え、ふと外を眺めると、かすんだ景色のなか、宿の庭の白藤がまだ風に揺れている気がした。

その下に、少女が立っているような――否、確かに、そこに「いた」のだ。その気配は、もう外ではなく、自分のなかに宿っている。

私はまぶたを閉じ、そして目を開ける。

「ありがとう」

誰にも聞こえないほどの声で、そう呟く。

列車が音もなく動き出す。

景色が流れ、山の稜線が、少しずつ、遠ざかっていった。

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