七
駅のホームに立つ。
山あいを渡る朝の風が、頬から首筋を抜け、襟元にかすかな冷たさを残していく。
薄曇りの空の下、遠くで雲雀がひと声鳴き、その響きは山の稜線の彼方に吸い込まれていった。
足元には昨夜の雨の名残が細い筋を描き、屋根の陰で陽射しが淡く縞模様を作っている。
旅の終わりにしては、あまりに静かな朝。
夢の余韻が、目覚めのあとも現実の空気に薄く残り、私はベンチの硬さと手元の荷物の重みを指先に感じていた。
朝の湿った匂いが、呼吸の奥までひそやかに沁みていく。
ホームの端に植えられた若い欅が、細い枝に小さな水滴を光らせながら揺れている。
時刻表の数字は静かに時間を示し、時計の針のゆるやかな動きさえ、別れの静けさを惜しむようだった。
次の列車までの間、私は取っ手に指を添え、線路の先にぼんやりと目をやる。
霞んだ山並みが、朝の靄の奥で輪郭を曖昧にしながら横たわっている。
出発の朝、宿を後にしたときの光景が、ゆっくりと胸の内に蘇る。
帳場の奥で、女将は最後まで多くを語らなかった。
けれど、私が草履を揃えて玄関に向かったとき、静かにひと言だけ残してくれた。
「また、いつかお越しくださいね」
旅館の定型の挨拶かもしれない。だが、その声には、ごくわずかに、別れの名残が滲んでいた。
私はその言葉に、小さくうなずいた。
全身に、ほのかな温もりがふっと灯る。
「……ありがとうございました」
――それは、かつて母に伝え損ねた感謝の思いを、ようやく誰かに手渡せたような、静かな安堵だった。
その声が届いたかどうかは分からない。
けれど語られた言葉の温度が、余韻となって胸に残り続けている。
振り返ると、もう女将の姿は見えなかった。
その一瞬のすれ違いさえ、今はなぜか愛おしい。
別れとは、きっといつも、こうして訪れるのだろう。
この数日間を、うまく言葉にすることはできない。
夢だったのかもしれない。
けれど、映写室の光も、朝の白藤も、あの少女の静かな視線も、今はただ懐かしい温度として胸に残っている。
過去と今。母と私。忘れていた自分と、これから歩き出す私――それらが、そっと、ひとつの場所で交わった気がしている。
母と過ごした最後の日々は、決して穏やかなものではなかった。
言葉が交わらず、気持ちは空回りし、胸の奥にわだかまりだけが積もっていった。
きちんと伝えたかったはずの感謝も、いくつもの小さな後悔も、ついに声にはならず、私はただ遠ざかる背中を見送ることしかできなかった。
あの日から、心のどこかで思い出すことを自分に禁じてきたのかもしれない。
けれど、それは「忘れる」ということではなかった。
思い出すことは、何かを失うことではない。
静かに――けれど確かに、そこから新しく繋ぎ直していくことができる。今なら、そう思える。
黒革の手帳――今朝、宿を発つ前に開いた最後のページは、白い余白だけが広がっていた。
だが、その余白の奥に、たしかにあったはずの一文を思い出す。
あの藤棚の下で初めて目にしたとき、それは「影が過去と交差する」という、どこか張り詰めた予感の言葉だった。
けれど、旅の終わりに見つめたその痕跡は、光の中で静かに意味を変えていた気がする。
いや、言葉が変わったのではない。
私が、ようやく本当の意味を受け取れるようになったのだ。
指先でなぞれば消えてしまいそうな淡い痕を辿りながら、胸の奥でその言葉を繰り返す。
「四月十五日。白藤の下。ふたつの影が、光に溶けて重なる。」
手帳はもう何も語らなかった。
だがその沈黙は、記憶がただの記録ではなく、いまこの瞬間、私自身が受け取る光そのものであることを、何よりも雄弁に伝えていた。
目の奥に、白藤の棚の影が、やわらかく浮かんで消えた。
記憶は、過去へ戻るためのものではない。
未来へ歩き出すための、静かな灯火なのだ。
人は変わる。時間も、景色も、巡っていく。
けれど、手渡されたもの――母から、少女から、女将から、いまの自分に託されたものは、確かにここに息づいている。
胸元のポケットに手をやる。
指先に伝わるわずかな重み――その存在だけで、身体の芯からじんわりと温かさが広がっていく。
春の風がそっと指の間をすり抜ける。
掌の内側に、まだ新しい季節の息吹が微かに脈打つのを感じる。
あの日、母の手のひらから受け取ったもの――それは言葉よりも深い贈り物だった。
思い出は、手のひらの温もりのように、いまをそっと満たしていく。
やわらかな風が吹いてきた。
肩に落ちた白藤の花びらが、ひとときだけそこにとどまり、私の指先にそっと溶けた。
私はそれを指先にそっと留め、しばし見つめる。
陽に透ける小さなかたちは、言葉の代わりに、静かにそこに在る。ただ、それだけで充分だと語りかけてくるように感じた。
掌の上の花びらが、春の光を集めて、わずかに震える。
列車が、ゆっくりとホームに滑り込む。
私は立ち上がり、深く息を吸い込む。
車内へ足を踏み入れ、窓際の席に腰を下ろす。
手すりに手を添え、ふと外を眺めると、かすんだ景色のなか、宿の庭の白藤がまだ風に揺れている気がした。
その下に、少女が立っているような――否、確かに、そこに「いた」のだ。その気配は、もう外ではなく、自分のなかに宿っている。
私はまぶたを閉じ、そして目を開ける。
「ありがとう」
誰にも聞こえないほどの声で、そう呟く。
列車が音もなく動き出す。
景色が流れ、山の稜線が、少しずつ、遠ざかっていった。