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先ほどの出来事は夢だったのか現実だったのか――。

部屋に戻った私は、しばらく文机の前に座り、掌に硝子猫の冷たさと小さな重みを感じていた。

指先でその小さな身体を転がすたび、青い光が淡く滲み、冷たさの奥にじんわりと温もりが広がっていく。

それは、朝の庭で出会った少女――かつての自分、あるいは母の面影と重なり合う、静かな余韻だった。

あの一瞬が幻であったとしても、もはや抗うことのできない何かが、確かな重みとなって心の奥底に沈みはじめている。

思い出は、形を変えながら、私という存在そのものの一部になっていくのだと思った。


ふいに立ち上がり、草履の音が板の間に吸い込まれていく。

外の空気に肌を撫でられながら、帳場を抜けて談話室へ向かう。

障子越しの朝の光がやわらかく射し込む中、籐椅子のひとつに、先日の男性が腰かけていた。

控えめなグレーのシャツ、深い色のスラックス、艶やかな革靴――どれも時の流れに溶け込むような、穏やかな佇まいだった。

彼は湯呑を両手で包み、目を細めて庭の白藤の影を見つめている。

私に気づくと、ゆっくり顔を上げ、口元に小さな微笑みを浮かべ、軽く会釈をした。

「おはようございます」

「……おはようございます」

 短い挨拶のあと、私は隣の椅子に腰を下ろす。

 春の湿りを帯びた光が、二人の間に淡く差し込み、そっと空間を満たしていく。

 外では白藤の花がそよ風に揺れ、石畳には昨日の雨の名残が水たまりとなって残っている。

 その湿度が室内にも沁み渡り、どこか懐かしい土の香りが、深いところまで穏やかに広がっていく気がした。


しばらく、言葉のない時間が流れる。

だが、その沈黙は互いを隔てるものではなく、むしろ言葉にしきれぬ何かをそっと待つための、柔らかな通路のように感じられた。

椅子のきしむ音や、湯呑を置くわずかな響きさえ、朝の空気にやわらかく溶けていく。

ふと足元に感じる畳の冷たさや、湯呑から立つわずかな湯気の温度が、今この場と遠い過去をつなぐ細い糸のように思えた。

やがて彼は湯呑にそっと口をつけ、ひと息ついてから、ぽつりと語り始める。

「不思議なものですね……この宿に来ると、随分と前のことを思い出してしまうんです」

「……そう、ですね」

私も小さくうなずいた。声に含まれる湿り気が、空気の層をわずかに震わせる。

「昨日、この棚にあるアルバムを見つけて。開いてみたんです。誰のものかは分からないけれど……ふと、見覚えのある写真があって」

その言葉に、意識の底で小さく何かが波立った。私は黙って続きを待つ。

「昔、家族と来たことがあったんです。ずっと忘れていたはずなのに……そのときの、庭先で撮った一枚が、そこに挟まれていたんですよ」

彼は遠くを見るように目を細め、かすかに微笑んだ。

「……それで思ったんです。人の記憶って、どこかに置き去りにしていても、こうしてまた、戻ってくる場所があるんじゃないかって」

私は目を伏せ、本棚の一角をそっと見つめる。

昨日、手を伸ばせなかった古びたアルバム。

背表紙のないその一冊が、まるで長いあいだ開かれるのを待っていたかのように、棚の隅でじっと息をひそめている。

その存在感が、静かに私を呼んでいる気がした。

男性は湯呑を置き、ゆっくり立ち上がる。

「良い旅を。……忘れていた何かに、出会えたのなら、それは幸せなことです」

その言葉を残して、彼は談話室をあとにした。


私はその背中をしばらく見送り、呼吸をひとつ置いてから立ち上がる。

本棚へと歩み、アルバムを手に取る。

擦り切れた布地の表紙をゆっくりなぞると、指先に古びた繊維のざらつきが絡み、小さな傷ひとつひとつが遠い日々の名残を呼び起こす。

ページをめくると、色褪せた写真が何枚か、無言のまま並んでいる。

その中の一枚に視線が吸い寄せられ、思わず息を呑む。

春の庭、縁側――小さな私と母が並んで座る姿が、そこにあった。

白藤の花が、春の雨のようにやわらかく降りそそぎ、画面の隅に静かな光が差し込んでいる。

写真の中の私は、膝の上に硝子猫をのせ、どこか遠くを見つめている。

母は穏やかに微笑み、その手は私の肩にそっと添えられていた。

現実なのに、もし指先で触れたら崩れてしまいそうな、儚い透明感。

けれど、たしかに、あの日の私たちがここに息づいている。

映写室で見た像よりも、さらに奥深く、静かな広がりをもって、私の中の記憶の層に澄みわたっていく光景。

それは「思い出した」のではなく、ずっと深い場所で眠っていた感触が、春の光や空気の揺らぎにそって浮かび上がり、見えない波紋となって身体に沁み渡っていく――ひそやかだけれど確かな、“いま”へ解き放たれていく小さな奇跡だった。

私はアルバムを閉じ、元の場所に戻した。

廊下の窓辺に立つと、白い花びらがひとひら、風に舞い落ちていた。

その淡い揺れのなかに、幼い私の忘れかけていた記憶がそっと重なる。


あの春の日。

母と談話室の籐椅子に並んで座り、春雨のあとの濡れた庭を、ふたり静かに眺めていた。

母は何かを伝えようとした。

でも結局何も言わず、沈黙だけが私たちの間にそっと降りていた。

けれど今なら分かる。あの沈黙の奥には、言葉よりも深い想いが潜んでいたのだと。

伝えきれなかったものが、穏やかな空気の層となって、いまも私の心に微かに残っている。

その日の午後、ふたりで町へ出て、坂道を下る。

古道具屋の埃と光が入り交じる棚の奥、小さな猫の硝子細工を見つけて立ち止まった私に、母は静かに声をかける。

「この子、気に入ったの?」

「……うん」

震える手を差し出すと、母はその小さな猫をやさしく両手で包み、私の掌にそっと重ねてくれた。

その温もり、掌に残るかすかな重み――春の午後の光とともに、いまも体のどこかで、微かな振動として響いている。

それは物としての贈り物ではなく、母が私に残してくれた、一番静かで深い“記憶の居場所”だったのかもしれない。


談話室の窓辺で白い花びらが揺れるのをしばらく眺めてから、私は部屋へと戻る。

廊下を歩く足裏に畳の冷たさがじんわりと残り、扉を開けると春の光がまだ薄く漂っている。

文机の上には黒い手帳が、変わらずそこに置かれている。

椅子に腰を下ろし、しばらく何もせず、部屋の空気や遠くから伝わる台所の気配に身を委ねる。

やがて、手帳を手に取り、表紙を撫でる。

ページをめくると、昨日までの言葉のあとに新しい行はない。

けれど、ふと朝の光に透かしてみると、白紙のなかに微かに滲んだ文字の痕跡が浮かび上がる気がした。

それが本当に言葉だったのか、それとも光と影の戯れだったのかはわからない。読もうとすればするほど、その輪郭は淡く、遠のいていく。

ただ、余白の白さだけが、何よりも雄弁に語りかけてくる。

言葉を探すのをやめたとき、答えはすでにそこにあった。

――記憶とは、書き足すものではなく、静かに“受け入れる”ものなのだと。

私は深く息を吸い、椅子の背にもたれる。

部屋の奥に淡く射し込む光、帳場のほうからは茶葉をすくう音、湯の注がれる音、控えめな台所の響きが、幾重にも重なっていく。

その日常のひとつひとつに、母と過ごした時間の粒がゆっくりと溶け込んでいく気がした。

すべてが終わったわけではない。

むしろ、私はようやく“もう一度歩き出す場所”に立ったのだと感じている。

手のひらに硝子猫の微かな重みを残したまま、椅子を押して立ち上がる。

光と音と、掌の感触、遠くで風に舞う花びらの気配――そうしたすべてに背中を押されるように、私は再び歩き始める。

記憶の扉がゆっくりと開き、外の春の気配が新しい一日を迎え入れるように、意識の内側にやわらかな波となって広がっていった。

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