六
先ほどの出来事は夢だったのか現実だったのか――。
部屋に戻った私は、しばらく文机の前に座り、掌に硝子猫の冷たさと小さな重みを感じていた。
指先でその小さな身体を転がすたび、青い光が淡く滲み、冷たさの奥にじんわりと温もりが広がっていく。
それは、朝の庭で出会った少女――かつての自分、あるいは母の面影と重なり合う、静かな余韻だった。
あの一瞬が幻であったとしても、もはや抗うことのできない何かが、確かな重みとなって心の奥底に沈みはじめている。
思い出は、形を変えながら、私という存在そのものの一部になっていくのだと思った。
ふいに立ち上がり、草履の音が板の間に吸い込まれていく。
外の空気に肌を撫でられながら、帳場を抜けて談話室へ向かう。
障子越しの朝の光がやわらかく射し込む中、籐椅子のひとつに、先日の男性が腰かけていた。
控えめなグレーのシャツ、深い色のスラックス、艶やかな革靴――どれも時の流れに溶け込むような、穏やかな佇まいだった。
彼は湯呑を両手で包み、目を細めて庭の白藤の影を見つめている。
私に気づくと、ゆっくり顔を上げ、口元に小さな微笑みを浮かべ、軽く会釈をした。
「おはようございます」
「……おはようございます」
短い挨拶のあと、私は隣の椅子に腰を下ろす。
春の湿りを帯びた光が、二人の間に淡く差し込み、そっと空間を満たしていく。
外では白藤の花がそよ風に揺れ、石畳には昨日の雨の名残が水たまりとなって残っている。
その湿度が室内にも沁み渡り、どこか懐かしい土の香りが、深いところまで穏やかに広がっていく気がした。
しばらく、言葉のない時間が流れる。
だが、その沈黙は互いを隔てるものではなく、むしろ言葉にしきれぬ何かをそっと待つための、柔らかな通路のように感じられた。
椅子のきしむ音や、湯呑を置くわずかな響きさえ、朝の空気にやわらかく溶けていく。
ふと足元に感じる畳の冷たさや、湯呑から立つわずかな湯気の温度が、今この場と遠い過去をつなぐ細い糸のように思えた。
やがて彼は湯呑にそっと口をつけ、ひと息ついてから、ぽつりと語り始める。
「不思議なものですね……この宿に来ると、随分と前のことを思い出してしまうんです」
「……そう、ですね」
私も小さくうなずいた。声に含まれる湿り気が、空気の層をわずかに震わせる。
「昨日、この棚にあるアルバムを見つけて。開いてみたんです。誰のものかは分からないけれど……ふと、見覚えのある写真があって」
その言葉に、意識の底で小さく何かが波立った。私は黙って続きを待つ。
「昔、家族と来たことがあったんです。ずっと忘れていたはずなのに……そのときの、庭先で撮った一枚が、そこに挟まれていたんですよ」
彼は遠くを見るように目を細め、かすかに微笑んだ。
「……それで思ったんです。人の記憶って、どこかに置き去りにしていても、こうしてまた、戻ってくる場所があるんじゃないかって」
私は目を伏せ、本棚の一角をそっと見つめる。
昨日、手を伸ばせなかった古びたアルバム。
背表紙のないその一冊が、まるで長いあいだ開かれるのを待っていたかのように、棚の隅でじっと息をひそめている。
その存在感が、静かに私を呼んでいる気がした。
男性は湯呑を置き、ゆっくり立ち上がる。
「良い旅を。……忘れていた何かに、出会えたのなら、それは幸せなことです」
その言葉を残して、彼は談話室をあとにした。
私はその背中をしばらく見送り、呼吸をひとつ置いてから立ち上がる。
本棚へと歩み、アルバムを手に取る。
擦り切れた布地の表紙をゆっくりなぞると、指先に古びた繊維のざらつきが絡み、小さな傷ひとつひとつが遠い日々の名残を呼び起こす。
ページをめくると、色褪せた写真が何枚か、無言のまま並んでいる。
その中の一枚に視線が吸い寄せられ、思わず息を呑む。
春の庭、縁側――小さな私と母が並んで座る姿が、そこにあった。
白藤の花が、春の雨のようにやわらかく降りそそぎ、画面の隅に静かな光が差し込んでいる。
写真の中の私は、膝の上に硝子猫をのせ、どこか遠くを見つめている。
母は穏やかに微笑み、その手は私の肩にそっと添えられていた。
現実なのに、もし指先で触れたら崩れてしまいそうな、儚い透明感。
けれど、たしかに、あの日の私たちがここに息づいている。
映写室で見た像よりも、さらに奥深く、静かな広がりをもって、私の中の記憶の層に澄みわたっていく光景。
それは「思い出した」のではなく、ずっと深い場所で眠っていた感触が、春の光や空気の揺らぎにそって浮かび上がり、見えない波紋となって身体に沁み渡っていく――ひそやかだけれど確かな、“いま”へ解き放たれていく小さな奇跡だった。
私はアルバムを閉じ、元の場所に戻した。
廊下の窓辺に立つと、白い花びらがひとひら、風に舞い落ちていた。
その淡い揺れのなかに、幼い私の忘れかけていた記憶がそっと重なる。
あの春の日。
母と談話室の籐椅子に並んで座り、春雨のあとの濡れた庭を、ふたり静かに眺めていた。
母は何かを伝えようとした。
でも結局何も言わず、沈黙だけが私たちの間にそっと降りていた。
けれど今なら分かる。あの沈黙の奥には、言葉よりも深い想いが潜んでいたのだと。
伝えきれなかったものが、穏やかな空気の層となって、いまも私の心に微かに残っている。
その日の午後、ふたりで町へ出て、坂道を下る。
古道具屋の埃と光が入り交じる棚の奥、小さな猫の硝子細工を見つけて立ち止まった私に、母は静かに声をかける。
「この子、気に入ったの?」
「……うん」
震える手を差し出すと、母はその小さな猫をやさしく両手で包み、私の掌にそっと重ねてくれた。
その温もり、掌に残るかすかな重み――春の午後の光とともに、いまも体のどこかで、微かな振動として響いている。
それは物としての贈り物ではなく、母が私に残してくれた、一番静かで深い“記憶の居場所”だったのかもしれない。
談話室の窓辺で白い花びらが揺れるのをしばらく眺めてから、私は部屋へと戻る。
廊下を歩く足裏に畳の冷たさがじんわりと残り、扉を開けると春の光がまだ薄く漂っている。
文机の上には黒い手帳が、変わらずそこに置かれている。
椅子に腰を下ろし、しばらく何もせず、部屋の空気や遠くから伝わる台所の気配に身を委ねる。
やがて、手帳を手に取り、表紙を撫でる。
ページをめくると、昨日までの言葉のあとに新しい行はない。
けれど、ふと朝の光に透かしてみると、白紙のなかに微かに滲んだ文字の痕跡が浮かび上がる気がした。
それが本当に言葉だったのか、それとも光と影の戯れだったのかはわからない。読もうとすればするほど、その輪郭は淡く、遠のいていく。
ただ、余白の白さだけが、何よりも雄弁に語りかけてくる。
言葉を探すのをやめたとき、答えはすでにそこにあった。
――記憶とは、書き足すものではなく、静かに“受け入れる”ものなのだと。
私は深く息を吸い、椅子の背にもたれる。
部屋の奥に淡く射し込む光、帳場のほうからは茶葉をすくう音、湯の注がれる音、控えめな台所の響きが、幾重にも重なっていく。
その日常のひとつひとつに、母と過ごした時間の粒がゆっくりと溶け込んでいく気がした。
すべてが終わったわけではない。
むしろ、私はようやく“もう一度歩き出す場所”に立ったのだと感じている。
手のひらに硝子猫の微かな重みを残したまま、椅子を押して立ち上がる。
光と音と、掌の感触、遠くで風に舞う花びらの気配――そうしたすべてに背中を押されるように、私は再び歩き始める。
記憶の扉がゆっくりと開き、外の春の気配が新しい一日を迎え入れるように、意識の内側にやわらかな波となって広がっていった。