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朝の光は、薄い春の靄を透かしながら障子を淡く白ませていた。

微細な光の粒が部屋の奥へと滲み、壁や畳の影を幾重にも重ねていく。

その重なりは、私の肌と呼吸の輪郭さえ、やわらかく塗り替えていくようだった。

目覚めても、身体の奥に夢の余韻がほのかに揺れている。

私はしばらく布団の中でじっとしていた。

天井の木目を指先でなぞりながら、時おり瞼を閉じては、遠ざかる夢の手触りを確かめていた。

沈黙が静かに降り積もる部屋の中、息を吸うごとに、音のない重さが胸の奥へとゆっくり沈んでいく。

柱時計が時を告げるたび、その音もまた、厚みのある時間の層に包まれて静かに消えていった。

本当に私は、今ここにいるのだろうか。

ふと不安に駆られて、手のひらを畳の上へ滑らせる。

微かな湿り気と凹凸が、夜の終わりと朝の訪れを、静かに指先へ伝えてくれた。


――夢を見ていた。

目覚めの奥に沈んだ感触は、夢なのか、過去の現実の残像なのか、判然としない。

まぶたを開けば、そのすべては春の光に溶けて、指の隙間から零れ落ちていく。

覚えているのは、ふいに鼻先をかすめた藤の香り。

そして、揺れる光の中に立つ誰かの影――ごく淡い、けれど消えない印象だけだった。

その人が誰だったのかは思い出せない。

それでも、「懐かしさ」だけが、不思議に鮮やかに心の奥に沈んでいる。

まるで昨日も、その人に会っていたかのような、遠く淡く、それでいて温かな残像が、胸の奥にやわらかな痕跡となって漂っていた。


身を起こし、毛布の重みを両手で受け止め、その温度を確かめるように静かに窓辺へ向かった。

障子をわずかに開けると、眠りの余韻を帯びた朝の光が畳に層を作り、肌にひそやかな温度を落としていく。

同じはずの景色が、今朝はなぜか繊細に感じられる。

石畳の艶や、植え込みの影の揺らぎ――その輪郭の奥にある静けさが、ほんのわずかに深く、密やかに変わっていた。

夜のあいだに世界の境界だけが、少し書き換えられたような、不思議な感覚が胸に残る。

光の粒が障子と畳の間をそっと行き交い、淡い層となって空気を包み込む。

眠っていた感覚がそっと目覚めはじめ、指先や喉、胸の奥に新しい空気が静かに流れ込んでいく。


私はしばらく、ただその光景に見入っていた。

変わったのは景色そのものではなく、自分自身の内側なのかもしれない――そんな予感がかすかに胸に広がっていた。

文机の上には、昨日と同じ場所に黒い手帳が静かに置かれている。

その存在は部屋の空気の奥でじっと重みだけを残していた。

手を伸ばしかけて、ふと動きを止める。

今日はまだ触れるべきではない、そんな気がした。

胸の奥に芽吹いた何かを、急いで言葉にせず、そのまま抱えていたかった。

予感の輪郭を壊さぬよう、浅く息を潜める。

自分の鼓動だけが、静かな部屋に溶けていく。


着替えを済ませて廊下へ出ると、木の床の冷たさが足裏に伝わる。

歩みのたび、軋みが低く響き、体の芯へゆっくりと沁み込んでいく。

帳場には誰もおらず、談話室の戸が半ば開き、椅子の背に膝掛けが折りたたまれ、湯呑がひとつ、窓辺の光の中に置かれている。

昨夜の気配が、空間をそっと満たしていた。

私は縁側を抜け、朝露に濡れた草の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、庭へ出た。

雨上がりの空気はしっとりと肌を包み、足元の石が歩くたびに冷たく、少しだけ滑りやすい。

靴裏が石を踏むたび、夜の余韻が足元から染み込み、反響する冷たさとともに消えていく。

藤棚の下、光の粒子が浮遊し、朝の空気をたゆたわせる。

そこにだけ時間の層が積もり、音も匂いも重なり合って、静謐な気配をまとっていた。


ふと、藤の房が幾重にも影を落とす奥、その一角に“異質な静けさ”が立ち上がる。

風が止まり、鳥の声も遠ざかる。

光が一瞬きつく滲み、そこに輪郭を与えるようにして――白いワンピースの少女が、まるで朝の靄から抜け出したように、ゆっくりと姿を現した。

細い肩に春の風の名残をまとい、黒髪が光と影のあわいでほのかに揺れている。

裸足の足先は夜露に濡れた石にそっと触れ、花房から滴る雫がその足首を冷やす。

目の前の世界がふわりと歪み、鼓動だけがやけに強く響く。

そのたび藤の房が微かに揺れ、舞い上がった花びらが私の頬をやさしく撫でていく。

花房には、冷たさの奥から昇る蜜の香り、草と土の湿った匂いが指先に残る。

その少女は、こちらを見ているのか、どこか遠くを見ているのか――光と影が地面に淡く波紋を描き、少女の輪郭が現と幻の継ぎ目で揺れていた。

鳥の囀りが空に戻り、花房の音が風とともに耳にかすめていく。

花の淡い香り、草の湿り、頬に残る冷たい余韻――それらすべてが、時間をまたいで身体の内側で重なり合う。

それは記憶の再生ではなく、この場所、この瞬間だけに流れる静謐な異界の感覚だった。


少女は、空気さえも揺らさず、静かに歩み寄ってくる。

白藤の花びらが風に舞い上がり、その一片が私の肩に、そっと舞い降りた。

かすかな花の香りが、呼吸とともに胸の奥深くまで染み込んでくる。

その瞬間、身体の底に眠っていた何かが、音もなくほどけ始めるのを感じた。

少女は立ち止まり、まっすぐに私を見つめる。

湖の底を思わせる静けさと深さを湛えた瞳が、私の心の奥底に沈んでいた記憶を、やさしく掬い上げていく。

見つめ返すたび、温もりと、消えそうな哀しみが、胸の奥を満たしていく。

世界が、花びらの舞う朝の中で、いまひときわ濃く息づいていた。

――そのひとときだけ、心の澱が微かに震え、音もなく、しかし確かに、何かが解き放たれていくのがわかった。

ふいに、白藤の房が枝先からふわりと落ちる。

その花房が頬をかすめた瞬間、世界の温度が一段低くなり、冷たい水気と花弁の重みが、肌の奥へ深く沁み渡っていく。

花びらが地面に触れる小さな音が、胸の内側で静かに反響する。

すべての光と音がいったん凪いで――次の瞬間、“閃き”のように五感のすべてが解き放たれる。

胸の奥に絡まっていた見えない糸が、一気にほぐれていく。

藤の香りが脈の中を駆け抜け、過去と現在の境界が一瞬で溶け合う。

その残り香が、遠い日の手触りを鮮やかに呼び覚まし、記憶の奥で静かに波紋を広げていった。


縁側で母と肩を並べた、あの夏の日――。

ぬるい麦茶の甘さが喉を潤し、白い花びらが陽だまりに舞い落ちる音が、耳の奥に柔らかく響く。

母の指が氷をつまみ、私の掌へとそっと渡す。

その瞬間の、ひんやりとした感触と、人肌のぬくもり。

汗ばんだ腕がふれて、二人の笑い声が重なる。

石畳の土の香り、芽吹いたばかりの青い匂い、午後の光の粒。古道具屋の片隅で見上げた、あの硝子猫。

母が猫を手に取り、私の手のひらへ重ねてくれる。

ガラス越しの冷たさ、その奥からじんわり伝わってくる温度――。

記憶はとどまることなく、胸の奥から泉のようにあふれ出す。

白藤の香りとともに、ひとつひとつの情景が次々と連なり、沈んでいた過去と今が、いまこの瞬間にすべて重なり合っていく。

景色も感触も、声も匂いも、どこまでも鮮やかで、溢れ出した思い出が、身体のすみずみにまで染み渡っていった。


少女は、もう私のすぐ目の前にいる。

声も出せず、逃げることもできない。

ただ、胸の奥に広がる波立ちを、そのまま受けとめるしかなかった。

不思議と、少しも恐れはない。

それどころか、これまで心の奥に閉じ込めてきたものが、静かに光のなかへと浮かび上がりはじめる。

少女がやわらかく微笑む。

その表情を見た瞬間、世界と自分を隔てていた薄い硝子が、音もなく砕け散った気がした。

理由も分からないまま、ひとすじの涙が頬をつたい落ちる。

その微笑みには、遠い日、母が向けてくれた懐かしい眼差しが重なる。

古道具屋の前で私を見つめていたときの、あの優しい笑顔。

長いあいだ沈黙していた風景が、少女の面差しと重なり合い、静かに輪郭を取り戻していく。

それは、忘却ではなく、まだ言葉にならない感情として、沈黙の底に留まり続けていたものだった。


私は自然と膝を折り、その場に静かに座り込む。

身体の芯に残っていた緊張が、少しずつ地面に溶けていく。

少女は何も言わず、ただすぐそばに立ち尽くしている。

その沈黙が、どんな言葉よりも深く、私の魂の奥にまで沁み渡っていく。

涙が頬を伝い、手の甲にひとしずく、静かに落ちる。

その温度と重さを、初めて自分のものとして抱きしめることができたような、そんな心持ちになる。

ようやく喉の奥から、掠れるような声がこぼれた。

「……ごめんね」

それが誰に向けた言葉なのか、自分でもはっきりしない。

けれど、その一言が胸の奥の深い場所を、ゆっくりと解きほぐしていく。

少女の手が、そっと差し出される。

私はためらいながらも、自分の指先をその小さな手に重ねる。

冷たさも、熱さも感じない。

それでも、その手はたしかに、私の存在をやわらかく受けとめていた。

「思い出してくれて、ありがとう」

耳の奥に降りてきたその声は、春の風が若葉を揺らすときのように、優しく静かな響きだった。

どこか、自分自身の声にも似ている。

けれど、それだけではない。もっと奥深く、遠い日の母の声が、記憶の底から微かに重なって聞こえてくる。

懐かしさと嬉しさ、そして言葉にならない思いが、あふれる涙となって次々と頬を流れる。

少女の微笑みと母の面影が重なり合い、私は自分自身と、そして母と、ようやく静かに結び直されていくのを感じていた。


母の姿を思い出すたび、胸の奥にひっかかっていた拭いきれない後悔がある。

最後に言葉を交わすこともなく、ただ背中を見送るしかなかった日々。

成長するにつれ、母と私は少しずつ距離を置くようになった。

忙しさを理由に、日々のささいなすれ違いを深く気に留めることもなく、けれどその小さな溝は、思いがけないほど簡単に深くなっていった。

母が病の床に伏していたことさえ、私は知らずにいた。

いくつもの連絡を見逃し、やっとその事実を知ったときには、もう間に合わなかった。

あのとき、もっと素直に声をかけていれば、ほんの一言でも、何か伝えられていたなら――。

そんな思いが、喪失の重みとなって、今も静かに胸の底に沈んでいる。

葬儀のあと、残されたものを片付けながら、私は母との日々を思い出そうとした。

けれど、なぜか思い出すのは、最近のぎこちない会話や、曖昧な影を落とす部屋の空気ばかりだった。

母がどんな声で私の名を呼んだのか、最後に笑い合ったのがいつだったのかさえ、記憶の奥で霞んでしまっていた。


このままでは、本当に母を失ったまま、自分自身まで見失ってしまうのではないか。

そんな漠然とした不安と、どうしようもない喪失感に耐えかねて、私は無意識のうちに、幼いころ母と訪れたこの宿に足を運んでいたのだと思う。

母の面影を探すように、あるいはもう一度、自分自身を見つけるために。

宿で過ごす日々の中で、忘れかけていた記憶の断片が、光や風や香りとともに、少しずつ胸の奥でほどけていった。

あの日、母はたしかに私に手を伸ばしていた。

それなのに、私はその手を取ることもできず、ただ遠ざかる背中を見送るしかなかった。

そんな悔いや悲しみが、いま静かに「形」となり、記憶の奥で眠っていた想いが、やわらかく息を吹き返していく。

見ないふりをしていた記憶たちが、今はもう抵抗なく、胸のなかに流れ込んでくる。

幼い日の自分と、母の面影。伝えられなかった想いと、沈黙の奥に残されたぬくもり――そのすべてが、春の光とともに、静かに輪郭を取り戻していた。


気づくと、少女の姿はもう淡く遠ざかっていた。

けれど、その存在は消え去ったのではない。

気配は私の呼吸や体温、涙のしずくの奥にまで、静かに沁み込んでいく。

藤の花が風に乗って音もなく肩先に舞い落ちる。

掌で受けとめれば、花弁の湿り気と朝露のひんやりとした重みが、静かに皮膚に馴染む。

目を閉じると、空気の重さや涙の温もり、花のかすかな香りが、まだ肌のどこかに残されている。

遠くで戸を閉める微かな音が響き、この場所にだけ流れる静謐が、胸の奥に層をなして広がっていく。

私はそっと立ち上がり、朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。

春の新しい風が、涙の痕に触れるたび、体の奥深くに淡い熱が残り、世界が昨日よりも少しだけ柔らかな輪郭で感じられる気がした。

まぶたの裏には、微かな気配と脈動が波紋のように染み渡り、言葉では届かない何かが、今静かに息づき始めているのを確かに感じていた。

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