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その日は、朝から眠たげな春の空が町の上に広がっていた。

昼を過ぎても空は低く、厚い雲の奥に、太陽の所在だけがぼんやりと透けている。

壁伝いに差し込む光はゆるやかに部屋の奥まで滲み、畳の上には輪郭のあいまいな影がたゆたう。

しっとりと重たい空気が薄い膜のように肌にまとわりつき、私は畳に座ったまま、いつしか自分の輪郭がこの部屋の湿った空気に溶けてゆくような感覚に包まれていた。

静かに呼吸を繰り返していると、どこかで外の気配がふと胸をよぎる。その余韻に導かれるように、気づけば自然と立ち上がり、無意識のうちにゆっくりと廊下へ歩み出していた。


廊下の木目は、長い年月を吸い込んだ湿り気でどこか重たく、歩くたびに足裏へ波紋のような感触を残す。

軋む音が靴下越しに骨へと伝わり、じわじわと体の奥にまで染み込んでくる。

人の気配が途絶えた空間には、昨夜の話し声や笑い声の残響が、ごく薄い膜となって漂っていた。

壁際の花瓶に活けられた白い野の花が、かすかな香りを添え、湯気や空調の気配と溶け合いながら、空間全体に微かな重みをもたらしている。

こうした空気そのものが、透明な記憶の膜になって肌をそっと覆い、歩を進めるごとに足元や腕にかすかな違和感が浮かんだ。


帳場の奥、談話室には誰の姿もなかった。

窓辺から射し込む光が籐椅子の背をやわらかくなぞり、埃の粒が陽にきらめきながら部屋の隅を漂っていた。

昨日見かけた古びたアルバムが本棚の一角に静かに置かれている。布地の背表紙をそっとなぞれば、指先に細かな埃がまとわりつき、閉じられたページが誰かの秘密を密やかに守っているように思えた。

私は、その重みから目をそらすようにして隣の文庫本を手に取る。

カバーの角は擦り切れ、ページの間には前の誰かの指の湿りがひそやかに残っている。

活字をゆっくり辿っていくと、作者の旅の断片が、いつしか自分のこの滞在の感覚と重なり合ってくる。

紙とインクの匂いが午後の気配とまじり、読むという行為自体が体の奥深くに新しい質感を刻みつけていくのを感じていた。


廊下を進むと、女将の姿があった。

ふと視線が合い、彼女は穏やかな微笑みで足を止める。

「お部屋、ご不便はございませんか?」

その声は驚くほどやわらかく、どこか懐かしい余韻を帯びていた。

「はい、おかげさまで、心地よく過ごしています」

自然に出た言葉なのに、舌先にほんのりと重さが残った。

女将のまなざしが言葉の奥深くまで静かに届く気がして、私は思わず視線を落とす。

その表情には、遠い日の誰かを思わせる淡い影が浮かび、何かを問いかける気配だけが通り過ぎた。

彼女はゆっくりと目をそらし、静かな沈黙をその場に残して立ち去る。

見送る後ろ姿を眺めていると、心のどこかに小さな波が立った。

足元に落ちる光の輪郭が、不意に呼吸をしているように揺らいで見えた。

その間合いのなかに、説明のできない既視感が淡くにじむ。

けれど、誰との記憶なのかは思い出せない。

言葉の代わりに、残響だけが体の内側で静かに沁みわたっていった。


中庭では、風が枝を揺らし、その先から落ちる光と影が縁側の足元で何層にも重なり合っていた。

縁側の木肌の感触を手に伝え、畳の冷えを足裏で確かめながら、花の房の揺れと翳りが光の層となって足元に降り積もるのを見つめる。

息を吸い、まぶたを閉じると、空気の中から微かな音や気配が波立ち、記憶の層がわずかに滲み出すのを待つ。

花の揺らぎは風にまかせて細やかに揺れ、薄曇りの光とともに、時間の傾きだけが部屋の中に静かにしのび込んでくる。

遠く、山の稜線が徐々にその色を濃くし、頬をなでる風が、午後と夜との境界をそっと告げていた。


部屋に戻ると、女将が夕食の膳を静かに運んできた。

ことさら言葉を交わすことなく、私の前に膳を置き、軽く会釈して部屋を後にする。

その後ろ姿が、襖の向こうでしばらく静かに揺れていた。

置かれた器から立ちのぼる湯気が、空気に温かな輪郭を描き出す。

吸い込むたび、出汁や煮物の香りがほんのり鼻先に留まり、いくつもの気配がゆっくりと部屋の隅に沈んでいく。

箸を手に取ると、木のぬくもりとわずかなざらつきが指先に触れた。

一口ごとに、素材の柔らかさや滋味が、昨日までの曖昧な感覚と今日の現実とを、静かに結びつけていく。


食事を終えると、湯を沸かし直して手を洗い、窓の外に目をやる。

景色はゆるやかに色を失い、灯りが畳の上に淡く落ちるころ、部屋はしっとりと夜の気配に包まれていく。

静かな光に照らされた机の上では、猫の硝子細工が窓辺で淡く光を返していた。

その小さな身体に春の夜の残光が宿るとき、部屋の奥には澄んだ静寂だけが積もっていく。

音という音がすべて吸い込まれ、鼓動だけが耳の奥で遠く響いている。

それでも心の奥底には、昨夜の映写室で感じた、あの“欠けたもの”の余韻が静かに残っていた。

スクリーンに現れなかった少女の姿。その不在が、現実よりもはっきりと、今も自分の中で輪郭を持ち続けている気がする。

ふいに胸の奥がそっと波立ち、私は手帳を手に取った。

革表紙の冷たさが掌に残り、脈のひとつひとつに微かな緊張が混じる。

まだ見ぬ答えを探すように、気づけば再び映写室へ向かう自分がいた。


深く息を吐き、廊下に出る。

月明かりが磨かれた板の間をやわらかく照らし、足元に薄い影を落とす。

障子の向こう、夜の庭では花房が静かに風に揺れ、ぼんやりとした香りが空気に混ざっていく。

階下からは、一定の間隔で柱時計の音が聞こえる。

そのリズムに合わせて呼吸を整えながら、私は帳場を抜けて建物の奥へと向かった。

昨日と同じ金属の取手に指をかけると、今夜はわずかに湿り気が帯びて感じられた。

静けさが張り詰めた廊下を抜け、私はゆっくりと扉を押し開ける。

足元には夜の気配が深く沈み、奥の白いスクリーンだけが、闇のなかでほのかな光をたたえている。

椅子の背もたれに身体を預けると、微かな冷たさが背中に吸い込まれた。

手帳を膝に置き、呼吸を静かに整える。

衣擦れや椅子のきしみさえ、闇の奥に吸い込まれていく。


やがて、映写機が静かに動き始め、スクリーンに映像が浮かび上がる。

最初に現れたのは、月明かりに照らされた宿の庭だった。

石や苔の上に柔らかな光が落ち、木々の影が地面に淡い模様を描き出している。

その奥、白藤の下で、ひとりの少女がそっと佇んでいた。

白いワンピース、素足、肩までの黒髪――その姿に息をのむ。

つい最近、この場所で同じ姿を見た気がするのに、記憶は曖昧なまま揺れている。

ほんの少し前の出来事が、再び現実と静かに重なっていく。

再び現れたその姿は、夢なのか記憶なのか、自分の内側で静かに波紋を広げていた。


少女はゆっくりと顔を上げ、まっすぐこちらを見つめる。

その視線は、映像の枠を越えて、私という存在を探し出そうとするような深さを湛えていた。

だが、そのまなざしには前とどこか異なる、微かな温度が含まれているように感じられた。

スクリーンがふっと切り替わる。

縁側に座る少女が、静かに前を向いている。

障子越しのやわらかな光が、白いワンピースと黒髪の輪郭を包み込む。

その瞳と視線が合った、と思った瞬間、世界から音が消えた。

見つめられている。昨日までの、どこか遠くを見ているようだったまなざしではない。

確かに、今、この私が見つめられている。

思わず息が止まり、心の底までその視線が染み込んでくる。

私は手帳を開き、震える指で滲んだ文字をなぞる。

「四月十五日。夜。白布、揺れる。少女の眼が、水底に沈んだ石を照らす。」

文字を追う指先は微かに震えている。今まさに“こちらを見つめている”という感覚だけが、意識の深いところに強く刻まれていた。

誰を見つめ、何を伝えようとしていたのかは分からない。

ただ、そのまなざしが残した温もりだけが、静かに意識の底に沈んでいく。

映像が消えたあとの闇のなかで、白い布が一枚、静謐な光を集めてたゆたっている。

少女の気配が消えたあとも、余韻のような震えが体の内側で澄んでいった。


手帳を胸に抱き、廊下へ出る。

夜風が微かに香りを運んでくる。

昨夜はまだ硬いつぼみだった白藤の棚に、今夜はひとつ、またひとつと、淡く透き通る花房が咲き始めていた。

月明かりに照らされて、房ごとに揺れる白い光が、静かに地面に影を落とす。

足元には、落ちたばかりの花びらが夜露に濡れていた。

その香りは、夜の空気そのものを塗り替えてしまうように、やさしく、しかし確かに届く。

藤の房にそっと指を添えると、花びらの冷たさと湿り気、そして新しい季節の気配が、指先から体の奥深くに染み込んでいく。

――いま、この場所で、何かが静かに動き出そうとしている。

私は立ち止まり、手帳をそっと開く。

月光の下、ページをめくる指先に夜風の冷たさが沁み、「藤の花の下、影が過去と交差する」と、かすかな文字が浮かび上がる。

香りと影が意識に重みを落とし、これから何かが始まるという予感が静かに波立っていく。

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