表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

目が覚めると、部屋の空気が昨日とほんの少しだけ違っていた。

夜明けの気配が、障子越しに淡く部屋へ広がり、光は輪郭をなくして奥まで滲んでいく。

畳の匂いと遠くから届く朝の気配が、呼吸とともに静かに重なり合った。

まるで時間そのものがひととき緩やかに止まっているような、春の朝――そんな感覚に包まれる。

布団の縁に腰を下ろすと、背中を冷たい空気がすり抜けていく。

眠りの浅い香りがまだ体の深くに残り、夢か現実か曖昧な余波が心身の隅に微かに漂っている。

まぶたを閉じても、夢の影は遠ざかりながら、ほのかな気配だけがじんわりと体に沁みてきた。

 私は布団をたたみ、荷物を整える。

まだこの宿に身を置いているはずなのに、目覚めた瞬間から、昨日までの自分とどこかが変わっている気がした。

ここで過ごすうちに、初めのころ感じていた緊張や隔たりは、自然にほどけていったようだ。

襖や畳、差し込む光の粒に、自分の呼吸や温度がそっと溶け込み始めているのを感じる。


廊下に出ると、宿はまだ浅い眠りの中にいるようだった。

帳場の奥、湯呑の残り香が空気の隅にうっすらと漂い、女将の気配だけが静かに残っている。

草履を履き、外へ出ると、通りには朝の霧が薄くただよい、舗道には露が光り、植え込みの葉に夜の雨粒が名残をとどめていた。

石畳の冷たさが足裏から伝わり、歩くごとに体に目覚めの感触が広がる。風が頬を撫で、空気の湿り気が呼吸の奥までしみ込んでいく。

深く息を吸い込めば、湿った土と水の香りが体の内側へゆっくりと染みわたり、春の新しい空気が肺をやさしく満たしていく。

通りの先には、古びたバス停が静かにたたずんでいる。

木製のベンチ、色褪せた時刻表、誰もいない停留所。看板だけが、微かに風に揺れている。

どこかで夢に見たことがあるような、懐かしい佇まいがそこにあった。


通りを一本外れ、緩やかな坂道を下りはじめる。

朝の湿り気が足元にじんわりと染み、歩くたび、靴裏がわずかに滑るような感触を残す。

空気には、昨晩の雨の名残がゆっくりと溶けていて、坂道を下るたび、肌にまとわりつくような緑の香りと、土の匂いがわずかに強くなっていく。

体の内側に新しい空気が流れ込み、昨日までの自分と、どこか目に見えない境界をまたいでいくような、不思議な浮遊感があった。

坂を下りきると、低い瓦屋根の商店街が現れる。

扉の多くは固く閉ざされ、看板の文字は長い年月のなかでかすれてしまっている。

その一角、風に揺れる木の札に「古道具」と書かれた店が、朝の光の中で静かにこちらを見守るように佇んでいた。

その札の文字に、まるで呼ばれたかのように、私は自然と足を踏み入れていた。


店のなかへ足を踏み入れると、ひんやりした空気が肌をなぞり、奥から古紙と錆の匂いが漂ってくる。

棚には器や時計、鍵や人形、絵葉書が無造作に並び、どれもが言葉少なに時を抱え込んでいるようだった。

私は音を立てぬよう指先で棚をなぞる。

器の縁の小さな欠け、錆びついた鍵の重み、紙のざらつき――掌に触れるものごとに、過ぎてきた日々の名残がひっそりと息づいている。

ふと、棚の奥、春の光が射しこむ隅に硝子細工の猫がぽつんと置かれている。

乳白色の硝子に淡い青がゆらめき、瞳のないその顔が、どこかこちらに気配を向けているようだった。

値札の付いた小さな紙片を指で確かめ、私はそっと手に取る。硝子の冷たさが掌に広がり、指先にかすかな重みがしみてくる。

――見覚えがあるような、けれど思い出せない、不思議な既視感。遠い昔と今が重なり、意識の水面に淡い波紋を残した。

「こちら、いただけますか?」

店主にそう声をかけると、無言のまま丁寧にそれを薄紙で包み、小さな包みを私に手渡してくれる。

代金を受け取った店主の手つきは穏やかで、会釈とともに静かなやりとりが交わされる。

外に出ると、春の光がまぶしく、手のひらの包みは驚くほど軽かった。

だが、両手で包み込むと、その軽さとは裏腹に、確かな手応えが身体の芯にまで届くようだった。

それは物の重さではなく、これから記憶として沈んでいく予兆のようだった。


宿に戻り、部屋に入る。

文机の上には黒い手帳が変わらず置かれているが、私はまだ触れようとは思わない。

そのかわり、今日持ち帰った小さな包みに手を伸ばす。

薄紙をそっとめくると、指先に細やかな繊維の感触が残った。

現れた硝子細工の猫は、昼下がりのやわらかな光を浴びて、乳白色の体のなかに淡い青をわずかに揺らしている。

掌にのせると、最初の冷たさはゆっくりと和らぎ、体温がすこしずつ伝わる。

丸みを帯びた小さな体を指でなぞると、肌に硝子特有の滑らかな感触が残る。

部屋の空気の静けさと、柔らかな光が、自然とその猫に馴染んでいく気がした。

窓辺から射す光が硝子の内側に小さな影を落とし、そのまま静かに部屋の空気へ溶けていく。

さっきまで店先でただの「物」だったそれが、いまはもう自分の手の中にしっかりと収まっている。

猫を見つめていると、不思議な充足感が全身をじんわりと包んでいく。


陽が傾きはじめると、硝子猫の小さな身体が春の光を受けて、部屋の壁に淡い影を映し出した。

その反射が、机の上や畳の上を、そっと移ろっていく。

掌に感じる冷たさが、しだいに自分の体温と溶け合う。

いつまでもこうしていられるような充足感と、けれど、この時間は永遠ではないのだという、理由のない物悲しさが、体のどこかでゆっくりと膨らんでいく。

障子を少し開けてみると、遠く白藤の棚の下を、ひとすじの風が抜けていった。

庭の緑の湿り気が、微かに頬を撫でる。

そのとき、階下から控えめな足音。

やがて女将が、夕食の膳を静かに運んできた。

「今夜も少し涼しいですね。お味噌汁は、温かいうちにどうぞ」

そう言って微笑みを見せる彼女の目は、どこか遠くを見つめていた。

膳を置く指先のやわらかな間合いに、言葉では伝えきれない温度と気配が宿る。

湯気が湯呑や椀からゆっくりと立ちのぼり、味噌汁の香り、里芋のほのかな甘み、焼き魚の焦げた香ばしさが、部屋の空気に静かに混ざっていく。


箸を取ると、木の温もりとわずかなざらつきが指先に伝わった。

一口ごとに、出汁の奥行きや里芋のほどける柔らかさが、昨日の曖昧な記憶と今日の現実とを、そっと結びつけていく。

張りつめていたものが静かにほどけ、気づかぬうちに心がやわらいでいく。

湯気の向こう、文机の上の手帳が視界の端に映る。

箸を置き、手帳を手に取る。

革表紙のひんやりとした手触りが、まだ自分のものではないような感覚を指先に残す。

ページをめくると、昨日とは違う短い記述が目に入る。

「四月十四日。夜。映写室。映像の中に、少女の姿はなかった。」

その短い記述を追いながら、意識のスクリーンに昨夜の映像の残像が淡く広がる。

誰かを探していたような、夢のなかで立ち尽くしたときの、不確かな温度。

だが、はっきりとした情景や記憶がよみがえるわけではない。

ただ、“思い出そうとしても届かないもの”が、存在の根を静かに揺さぶる――そんな感触だけが残った。

私は手帳を閉じ、膝の上で手を重ねる。

理由のない余韻だけが、体の深いところにほのかに残っていた。


手帳を懐に滑り込ませて襖を引き、板の間に出る。

月明かりが床を淡く照らしていた。階下の帳場は薄闇に沈み、女将の姿は見えない。

映写室へ続く廊下を歩いていくと、昨夜と同じ扉の金属札が、今夜は迷いなく視界に飛び込んでくる。

取手に手をかけた瞬間、湿った冷たさが掌にしみ込み、思わず息を整えた。

扉を押し開けると、微かな空気の渦が頬をかすめ、足元には地下へ誘われるようなひやりとした気配が広がる。

思い切って一歩を踏み出すと、昨夜と変わらない薄暗がりと冷気が身体を包み込む。

奥の白いスクリーンには淡い光が浮かび、床にはかすかな反射が靄のように広がっている。

その光景に、胸の奥がわずかにざわつくのを感じながら、映写機の前の椅子に腰を下ろした。背に触れる椅子の冷たさは、昨夜よりも深く骨に染みるようだ。

息を吸い込むと、古い機械油と埃の香りがゆっくりと胸に満ち、記憶と現実のあわいに身を預けているような、不思議な心地になる。

ふと、空気の奥底で何かが軋むような、ほとんど聞き取れない音がした。

その感触には、妙な既視感があった――昨夜と同じ、誰の手も触れていないはずの映写機が、また、音もなく目を覚まし始めている。

金属の歯車がゆっくり噛み合い、部屋の奥にわずかな振動が広がっていく。

なぜか、時間の流れが前日と重なっていくような、不思議な感覚があった。

スクリーンの向こう側から、またあの沈黙と、わずかな光の揺らぎが、じわじわとこちらに迫ってくる。


 映像が浮かぶ。

だが、昨夜と同じ坂道、濡れた路面には少女の姿だけがぽっかりと抜け落ちている。

風が画面の奥で葉を揺らし、ときおり光がかすかに歪み、消えていく。

そこには、本来あるべきものが欠けたまま、場面全体の温度が静かに下がっていった。

行き場のない視線を持て余しながら、体の奥に細い風がすり抜けていく。

声にならない余韻が、部屋の空気と一体となって鼓動を刻んでいる気がした。

記憶は、ただ過去の光景をなぞるだけではないのかもしれない。

何も映らないスクリーンの白い光が、そこにいないはずの少女の輪郭を、かえって鮮やかに縁取っている。

“不在”そのものが、ひとつの形を持って、じっとこちらを見つめ返してくる。

――そんな思いが、胸のどこかで浮かんだ。


手帳を開くと、さっきはなかった新しい一文がそこに刻まれている。

「――欠けたままの映像。なぜ、不在の気配だけが、これほど確かなのか。」

その行を読み終えると、思考の底に名付けようのない熱が小さく灯った。

やがて映写機の音が消え、スクリーンにはもう何も映っていない。

けれど、“何も映っていない”こと自体が、逆光のように記憶の形を際立たせる。その余白が、昨夜よりも深く部屋に広がる。

私は席を立ち、扉へ向かう。

取手に手をかけたとき、夜の空気が頬を撫でていく。

廊下は静まり返り、時計の音さえ遠くなる。

階段を上がると、上階にも月明かりがそっと射し込み、曇り障子の向こうに、庭の白藤の棚がうっすらと浮かんでいた。


部屋に戻ると、薄い月明かりが障子越しに差し込んでいる。

私は懐からそっと手帳を取り出し、文机の上、硝子猫の隣に置いた。

二つの小さな存在が、並ぶように影を落としている。

しばらく、その光景に黙って見入る。それだけで、体のどこかに小さな温もりが灯った。

布団に身を沈めて目を閉じると、夜の深まりとともに、言葉にならないざわめきだけが残った。

目を閉じても、すぐには眠りが訪れなかった。

けれど、心の奥でなにかが静かに形を変え、少しずつ輪郭を持ち始めていくのがわかった。

それは、まだ名前のない感覚――ただ、いまはその変化の気配に身を委ねるだけだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ