三
目が覚めると、部屋の空気が昨日とほんの少しだけ違っていた。
夜明けの気配が、障子越しに淡く部屋へ広がり、光は輪郭をなくして奥まで滲んでいく。
畳の匂いと遠くから届く朝の気配が、呼吸とともに静かに重なり合った。
まるで時間そのものがひととき緩やかに止まっているような、春の朝――そんな感覚に包まれる。
布団の縁に腰を下ろすと、背中を冷たい空気がすり抜けていく。
眠りの浅い香りがまだ体の深くに残り、夢か現実か曖昧な余波が心身の隅に微かに漂っている。
まぶたを閉じても、夢の影は遠ざかりながら、ほのかな気配だけがじんわりと体に沁みてきた。
私は布団をたたみ、荷物を整える。
まだこの宿に身を置いているはずなのに、目覚めた瞬間から、昨日までの自分とどこかが変わっている気がした。
ここで過ごすうちに、初めのころ感じていた緊張や隔たりは、自然にほどけていったようだ。
襖や畳、差し込む光の粒に、自分の呼吸や温度がそっと溶け込み始めているのを感じる。
廊下に出ると、宿はまだ浅い眠りの中にいるようだった。
帳場の奥、湯呑の残り香が空気の隅にうっすらと漂い、女将の気配だけが静かに残っている。
草履を履き、外へ出ると、通りには朝の霧が薄くただよい、舗道には露が光り、植え込みの葉に夜の雨粒が名残をとどめていた。
石畳の冷たさが足裏から伝わり、歩くごとに体に目覚めの感触が広がる。風が頬を撫で、空気の湿り気が呼吸の奥までしみ込んでいく。
深く息を吸い込めば、湿った土と水の香りが体の内側へゆっくりと染みわたり、春の新しい空気が肺をやさしく満たしていく。
通りの先には、古びたバス停が静かにたたずんでいる。
木製のベンチ、色褪せた時刻表、誰もいない停留所。看板だけが、微かに風に揺れている。
どこかで夢に見たことがあるような、懐かしい佇まいがそこにあった。
通りを一本外れ、緩やかな坂道を下りはじめる。
朝の湿り気が足元にじんわりと染み、歩くたび、靴裏がわずかに滑るような感触を残す。
空気には、昨晩の雨の名残がゆっくりと溶けていて、坂道を下るたび、肌にまとわりつくような緑の香りと、土の匂いがわずかに強くなっていく。
体の内側に新しい空気が流れ込み、昨日までの自分と、どこか目に見えない境界をまたいでいくような、不思議な浮遊感があった。
坂を下りきると、低い瓦屋根の商店街が現れる。
扉の多くは固く閉ざされ、看板の文字は長い年月のなかでかすれてしまっている。
その一角、風に揺れる木の札に「古道具」と書かれた店が、朝の光の中で静かにこちらを見守るように佇んでいた。
その札の文字に、まるで呼ばれたかのように、私は自然と足を踏み入れていた。
店のなかへ足を踏み入れると、ひんやりした空気が肌をなぞり、奥から古紙と錆の匂いが漂ってくる。
棚には器や時計、鍵や人形、絵葉書が無造作に並び、どれもが言葉少なに時を抱え込んでいるようだった。
私は音を立てぬよう指先で棚をなぞる。
器の縁の小さな欠け、錆びついた鍵の重み、紙のざらつき――掌に触れるものごとに、過ぎてきた日々の名残がひっそりと息づいている。
ふと、棚の奥、春の光が射しこむ隅に硝子細工の猫がぽつんと置かれている。
乳白色の硝子に淡い青がゆらめき、瞳のないその顔が、どこかこちらに気配を向けているようだった。
値札の付いた小さな紙片を指で確かめ、私はそっと手に取る。硝子の冷たさが掌に広がり、指先にかすかな重みがしみてくる。
――見覚えがあるような、けれど思い出せない、不思議な既視感。遠い昔と今が重なり、意識の水面に淡い波紋を残した。
「こちら、いただけますか?」
店主にそう声をかけると、無言のまま丁寧にそれを薄紙で包み、小さな包みを私に手渡してくれる。
代金を受け取った店主の手つきは穏やかで、会釈とともに静かなやりとりが交わされる。
外に出ると、春の光がまぶしく、手のひらの包みは驚くほど軽かった。
だが、両手で包み込むと、その軽さとは裏腹に、確かな手応えが身体の芯にまで届くようだった。
それは物の重さではなく、これから記憶として沈んでいく予兆のようだった。
宿に戻り、部屋に入る。
文机の上には黒い手帳が変わらず置かれているが、私はまだ触れようとは思わない。
そのかわり、今日持ち帰った小さな包みに手を伸ばす。
薄紙をそっとめくると、指先に細やかな繊維の感触が残った。
現れた硝子細工の猫は、昼下がりのやわらかな光を浴びて、乳白色の体のなかに淡い青をわずかに揺らしている。
掌にのせると、最初の冷たさはゆっくりと和らぎ、体温がすこしずつ伝わる。
丸みを帯びた小さな体を指でなぞると、肌に硝子特有の滑らかな感触が残る。
部屋の空気の静けさと、柔らかな光が、自然とその猫に馴染んでいく気がした。
窓辺から射す光が硝子の内側に小さな影を落とし、そのまま静かに部屋の空気へ溶けていく。
さっきまで店先でただの「物」だったそれが、いまはもう自分の手の中にしっかりと収まっている。
猫を見つめていると、不思議な充足感が全身をじんわりと包んでいく。
陽が傾きはじめると、硝子猫の小さな身体が春の光を受けて、部屋の壁に淡い影を映し出した。
その反射が、机の上や畳の上を、そっと移ろっていく。
掌に感じる冷たさが、しだいに自分の体温と溶け合う。
いつまでもこうしていられるような充足感と、けれど、この時間は永遠ではないのだという、理由のない物悲しさが、体のどこかでゆっくりと膨らんでいく。
障子を少し開けてみると、遠く白藤の棚の下を、ひとすじの風が抜けていった。
庭の緑の湿り気が、微かに頬を撫でる。
そのとき、階下から控えめな足音。
やがて女将が、夕食の膳を静かに運んできた。
「今夜も少し涼しいですね。お味噌汁は、温かいうちにどうぞ」
そう言って微笑みを見せる彼女の目は、どこか遠くを見つめていた。
膳を置く指先のやわらかな間合いに、言葉では伝えきれない温度と気配が宿る。
湯気が湯呑や椀からゆっくりと立ちのぼり、味噌汁の香り、里芋のほのかな甘み、焼き魚の焦げた香ばしさが、部屋の空気に静かに混ざっていく。
箸を取ると、木の温もりとわずかなざらつきが指先に伝わった。
一口ごとに、出汁の奥行きや里芋のほどける柔らかさが、昨日の曖昧な記憶と今日の現実とを、そっと結びつけていく。
張りつめていたものが静かにほどけ、気づかぬうちに心がやわらいでいく。
湯気の向こう、文机の上の手帳が視界の端に映る。
箸を置き、手帳を手に取る。
革表紙のひんやりとした手触りが、まだ自分のものではないような感覚を指先に残す。
ページをめくると、昨日とは違う短い記述が目に入る。
「四月十四日。夜。映写室。映像の中に、少女の姿はなかった。」
その短い記述を追いながら、意識のスクリーンに昨夜の映像の残像が淡く広がる。
誰かを探していたような、夢のなかで立ち尽くしたときの、不確かな温度。
だが、はっきりとした情景や記憶がよみがえるわけではない。
ただ、“思い出そうとしても届かないもの”が、存在の根を静かに揺さぶる――そんな感触だけが残った。
私は手帳を閉じ、膝の上で手を重ねる。
理由のない余韻だけが、体の深いところにほのかに残っていた。
手帳を懐に滑り込ませて襖を引き、板の間に出る。
月明かりが床を淡く照らしていた。階下の帳場は薄闇に沈み、女将の姿は見えない。
映写室へ続く廊下を歩いていくと、昨夜と同じ扉の金属札が、今夜は迷いなく視界に飛び込んでくる。
取手に手をかけた瞬間、湿った冷たさが掌にしみ込み、思わず息を整えた。
扉を押し開けると、微かな空気の渦が頬をかすめ、足元には地下へ誘われるようなひやりとした気配が広がる。
思い切って一歩を踏み出すと、昨夜と変わらない薄暗がりと冷気が身体を包み込む。
奥の白いスクリーンには淡い光が浮かび、床にはかすかな反射が靄のように広がっている。
その光景に、胸の奥がわずかにざわつくのを感じながら、映写機の前の椅子に腰を下ろした。背に触れる椅子の冷たさは、昨夜よりも深く骨に染みるようだ。
息を吸い込むと、古い機械油と埃の香りがゆっくりと胸に満ち、記憶と現実のあわいに身を預けているような、不思議な心地になる。
ふと、空気の奥底で何かが軋むような、ほとんど聞き取れない音がした。
その感触には、妙な既視感があった――昨夜と同じ、誰の手も触れていないはずの映写機が、また、音もなく目を覚まし始めている。
金属の歯車がゆっくり噛み合い、部屋の奥にわずかな振動が広がっていく。
なぜか、時間の流れが前日と重なっていくような、不思議な感覚があった。
スクリーンの向こう側から、またあの沈黙と、わずかな光の揺らぎが、じわじわとこちらに迫ってくる。
映像が浮かぶ。
だが、昨夜と同じ坂道、濡れた路面には少女の姿だけがぽっかりと抜け落ちている。
風が画面の奥で葉を揺らし、ときおり光がかすかに歪み、消えていく。
そこには、本来あるべきものが欠けたまま、場面全体の温度が静かに下がっていった。
行き場のない視線を持て余しながら、体の奥に細い風がすり抜けていく。
声にならない余韻が、部屋の空気と一体となって鼓動を刻んでいる気がした。
記憶は、ただ過去の光景をなぞるだけではないのかもしれない。
何も映らないスクリーンの白い光が、そこにいないはずの少女の輪郭を、かえって鮮やかに縁取っている。
“不在”そのものが、ひとつの形を持って、じっとこちらを見つめ返してくる。
――そんな思いが、胸のどこかで浮かんだ。
手帳を開くと、さっきはなかった新しい一文がそこに刻まれている。
「――欠けたままの映像。なぜ、不在の気配だけが、これほど確かなのか。」
その行を読み終えると、思考の底に名付けようのない熱が小さく灯った。
やがて映写機の音が消え、スクリーンにはもう何も映っていない。
けれど、“何も映っていない”こと自体が、逆光のように記憶の形を際立たせる。その余白が、昨夜よりも深く部屋に広がる。
私は席を立ち、扉へ向かう。
取手に手をかけたとき、夜の空気が頬を撫でていく。
廊下は静まり返り、時計の音さえ遠くなる。
階段を上がると、上階にも月明かりがそっと射し込み、曇り障子の向こうに、庭の白藤の棚がうっすらと浮かんでいた。
部屋に戻ると、薄い月明かりが障子越しに差し込んでいる。
私は懐からそっと手帳を取り出し、文机の上、硝子猫の隣に置いた。
二つの小さな存在が、並ぶように影を落としている。
しばらく、その光景に黙って見入る。それだけで、体のどこかに小さな温もりが灯った。
布団に身を沈めて目を閉じると、夜の深まりとともに、言葉にならないざわめきだけが残った。
目を閉じても、すぐには眠りが訪れなかった。
けれど、心の奥でなにかが静かに形を変え、少しずつ輪郭を持ち始めていくのがわかった。
それは、まだ名前のない感覚――ただ、いまはその変化の気配に身を委ねるだけだった。