二
翌朝、まだ薄明かりの残る時間に目を覚ます。
夢の名残が、まぶたの裏に残っていた。
布団や毛布に触れると、身体の奥に昨日の気配が残っているのを感じる。
障子の隙間から朝の光が差し込み、部屋の空気が入れ替わっていく。
静けさに包まれたまま、しばらく身じろぎもせずにいた。
夜と朝のあわいのなか、どこか現実が遠い気がした。
耳を澄ますと、畳に沁みた静けさのなか、遠い木々のざわめきや小鳥の声が、波のように重なり合って届いてくる。
私は目を閉じ、湿り気や畳の匂い、布団の柔らかい重みをゆっくりと味わった。
昨夜の余韻が呼び戻され、身体の奥で小さな熱となって灯る。
それが夢なのか、記憶の奥底の断片なのか――自分でも区別できない。ただ、朝の気配に身をゆだねていた。
身体を起こし、指先で寝具の質感を確かめる。
天井に走る木目が朝の光に浮かび上がり、ここがまだ自分にとって新しい場所であることを思い出す。
わずかな心細さがよぎるが、深く呼吸すると、溜まっていた澱のようなものが静かに吐息とともに消えていく。
眠っているあいだ、こわばっていた身体の輪郭が、この部屋の空気のなかに、ゆっくりと溶け出してしまったかのようだった。
畳の目や障子を透かす光の粒――その一つ一つが、昨日よりもいっそう確かに手元に伝わってくる。
着替えを済ませて廊下へ出る。
帳場の奥に女将が湯呑を手に立っている。
視線が合い、控えめな会釈が返ってきた。
その何気ない仕草に、昨日までのこわばりがさらに和らぐ。
縁側に出て、籐椅子に腰かける。
朝露を纏った苔石が春の光を浴びてきらめき、もし裸足なら足裏にその冷たさが伝わっただろう。
植え込みの白椿が濡れた葉陰でふくらみ、白藤の棚はまだ花芽を秘め、芽吹く直前の張りつめた空気が漂っていた。
そこには、季節の始まりを告げる静かな息づかいがあった。
心の片隅でも、何かがほぐれていく気配があった。
普段は時間に追われていたが、いまはこうして座っているだけで、心がほどけていく。
遠く、枝を揺らす風の音が聞こえる。
背後で障子が開く音がした。
振り返ると、女将が湯呑を手にしている。
「よろしければ、どうぞ」
湯呑を受け取ると、焼き物のざらりとした感触が指先に残り、立ちのぼる湯気が頬をかすめた。
煎茶の香りが鼻を抜け、口に含むと温かさが身体に広がる。
両手で湯呑を包むと、焼き物の熱が指の腹から掌の中心へと満ちてくる。
思わず息をつく。
その静けさのなか、ようやく自分がここにいると実感できた。
「ありがとうございます」
自然に口をついて出たその言葉が、お茶の余韻とともに静かに口の中に残った。
「この時期の朝は、気持ちがいいですね。空気が澄んでいて」
声をかけると、女将は穏やかにうなずいた。
「ええ、もうすぐ白藤が咲きます。咲き始めると、空気に甘い香りが混じるんですよ。少しだけ懐かしい匂いがします」
女将の言葉が残響のように部屋にとどまり、春の光が庭の石畳や草花の上をそっと移動していく。
女将は短く微笑み、部屋を出ていく。
私は湯呑を包み直し、もう一度だけ庭を眺めた。
日が昇るにつれ苔の露が消え、草花も光に誘われてゆっくり開き始める。
部屋へ戻ると、机の上には昨日と同じ黒い手帳が、変わらぬ場所で待っている。
表紙に手を伸ばし、革の冷たさを指先で確かめる。
いま開いてしまえば、何かがほどけてしまいそうな淡い予感に、私はそっと手を引いた。
しばらくその重みと質感だけを確かめ、指を引く。
言葉にならない感触が、心の隅に静かに残る。
私は手帳に背を向け、部屋を出た。
階段の手すりは朝の光を受けて温かく、指先に細かな木目が伝わってくる。
歩きながら、今の自分の心が、少しずつほどけていくのを感じた。現実の輪郭さえ、昨日までとはどこか違って見える。
帳場の脇にある小さな談話室には、籐椅子が二つと背の低い本棚が並んでいる。
窓際には湯飲み茶碗がひとつ置かれ、湯気はもう消えていたが、陶器の縁にはまだ温もりが残っていた。
昨夜の余韻が、部屋の空気の底に沈んでいるように感じる。
埃の匂いと、昨日ここを通った誰かの気配が、ほのかに漂っていた。
宿泊客らしい年配の男性が、グレーのシャツの袖口を指で押し下げ、膝の上で両手を重ねている。
彼は私に気づくと、ゆっくりと顔を上げ、小さく会釈を返した。
窓の外の光が頬に射し、眼鏡の縁をかすかに照らす。
「おはようございます」
「……おはようございます」
それだけの短い挨拶だったが、言葉が空気に溶けていくと、二人の間にやわらかな静けさが残った。
庭の木立が風に揺れ、朝の光が窓越しにちらちらと差し込む。
そのたびに籐椅子がわずかにきしみ、座面が沈む。
目に映るものも、耳に届く音も、控えめに呼吸し、わずかに動いていた。
どこか遠くへ来てしまったような、不思議な安堵を覚える。
ここでは時間の流れさえ、ゆるやかに変わるようだった。
私は本棚に近づき、背表紙を指先でなぞる。紙のざらつきやインクの香りが指に残る。
手を止めたところに背表紙のない古いアルバムがあった。
なぜか触れてはいけない気がして、そのまま棚に戻す。
その瞬間、埃の粒が朝の光のなかで舞い上がり、空中できらめいた。
午前のひとときが、体のまわりにやわらかく満ちていく。
私は庭へ出て、苔の深い緑に靴裏を沈める。
石畳には、朝露がまだ水滴となって点在し、歩みのたびに小さな飛沫が光を弾く。
その冷たさが、靴底から皮膚、骨の奥へ沁みてくる。
苔の表面は夜の間に水分を含み、靴底を受けて沈む。
息を吸い込むと、濃密な土と草の匂いが、鼻から喉、肺の奥へ染みわたった。
歩みを進めるたび、春の湿り気が衣服の裾や皮膚にまとわりつく。草花の新芽が、冷たい空気の中で息づいている。
小石を踏みかけ、体がぐらりと揺れた。
その不意の動きに、自分が現実に立っていることを、改めて指先や足裏で確かめるような心持ちになる。 今ここにいる、という実感が、しずかに身体に積み重なっていく。
ただ歩くだけで、身体の内側に静かな温もりが満ちていく。
庭の奥、白藤の棚の下に立つと、見上げた枝のすきまから春の光がまだらに落ち、葉の影が足元に揺れる。
その波紋のような光に導かれ、遠い日に見た風景がまぶたの奥で揺らめく。
けれど、その情景はすぐに淡く遠ざかり、曖昧な輪郭だけが、懐かしさの残り香となって意識の底へ静かに沈んでいく。
昼下がり、縁側に腰を下ろす。
庭の空気に身を溶かし、陽射しの傾きに合わせて苔や飛び石の色合いがゆっくり変わっていく。
午後の気配が庭全体に降り積もり、ときおり吹き抜ける風に、藤棚の緑がそっと揺れる。
私はただそこに座りながら、光や音、移ろう空気を肌の奥で受けとめていた。
やがて日が傾き、縁側に立つ影が長く伸びはじめる。
少し肌寒さを感じて部屋へ戻ると、障子越しの明るさも徐々にやわらぎ、夕暮れが部屋の隅々まで広がっていく。
身じたくを整えていると、女将が足音も立てずに夕食を運んでくる。
湯気や香りがほのかに漂い、私は膳を前に箸をとる。
簡単な挨拶と言葉を交わし、女将が去ると、部屋にはひとりだけの時間が戻る。
食事を終え、茶をひと口含んで息をつくと、身体の奥にまで夜の気配が降りてきた。
顔を上げれば、障子の外の青がいよいよ深くなり、畳や梁に濃い影が積もりはじめる。
昼間とは違う、どこか密やかな空気が部屋の隅に漂っていた。
畳の香りが深まり、私は窓辺を歩いたり、文机に手を置いたりと、落ち着かぬまま時を過ごす。
机の上の手帳が視界の端に映るたび、空気の中に緊張が混じるのを感じる。
手帳が何かを語りかけてくるような気がした。
私はそっと手帳を手に取り、革表紙の冷たさを指先に感じる。
昨夜の続きから、ためらいがちに一枚だけページをめくる。革と紙が擦れる音が、和室の空気に微かに溶けた。
「四月十三日。映写室。白布の向こうに記憶が灯る。私ではない記憶。だが、そこに私がいる。」
インクの滲みを目でなぞりながら、私は息を詰める。
“映写室”――どこかで聞いたことのある響き。
それがこの宿のどこかに在ることを、なぜか知っているような気がした。
知らないはずのものが、体の奥に静かに馴染んでいく。
不意に思い出しそうで、しかし手が届かない。その狭間で、記憶の棘が小さく疼いた。
手帳を胸元にしまい、障子を開ける。
廊下の板張りには、月明かりが滲み、影が長く伸びている。
足を踏み出すたび、床の音が静けさを深めていく。
指先から床板の冷たさが伝わり、体ごと建物の奥へ静かに誘われていく感覚があった。
階段を下り、帳場の前を通り過ぎると、宿はまるで夜の底に沈んでいるかのようにひっそりとしている。 廊下の奥には幅広の木の扉があり、中央の金属札には「映写室」と彫られている。
月明かりがその文字を淡く照らしていた。
私は取手にそっと手をかける。
触れた瞬間、冷えた金属の感触が跳ね返るように脳裏をかすめ、胸の鼓動がひと拍遅れて耳に届いたとき、現実と夢の境界が静かに溶け出していくのを感じた。
扉を押し開けると、湿った空気が頬をなぞり、夢と現実のあわいを歩くような心地。
足を踏み入れると、埃と機械油の匂いが鼻先をくすぐり、ひんやりとした重みが体にまとわりつく。
部屋の奥には布張りのスクリーンがある。
照明は消えているのに、中央だけほのかに光がにじんでいた。
足元のカーペットにはしっとりとした重みがあり、歩を進めるたび埃が舞い、指先にはそのざらつきが伝わってくる。
スクリーンの淡い光に包まれながら、私はそっと椅子に身を預けた。
背もたれの冷たさに触れると、自然と背筋が正されていく。クッションには年月の澱が沈み、指でなぞれば、粉じんがふわりと立ち上がる。
その感触に、かすかな記憶が呼び覚まされそうになる。
椅子がきしむ音が静かに部屋の奥へ波紋のように広がり、不安と期待が入り混じる。
その静けさの中、私は、何かが始まるのをただじっと待っていた。
そのとき、背後で「カタン」と乾いた音が響き、映写機の軸が回り出す。
機械油のぬるい匂いと低くうなる音が床下から這い上がる。
フィルムが装填された気配はないのに、スクリーンには淡い光が浮かび、始まる前の緊張が指先にじっと残った。
最初に現れたのは、水面に波紋が広がるような揺らぎだった。
やがて像は、雨に濡れた坂道の石畳へと変わる。
湿った石が光を跳ね返し、木々の葉先が風に細やかにふるえる。
遠くで雲雀が一声だけ鳴き、その余韻が耳に残ると、部屋の空気までもが記憶に引き寄せられていく。
どこかで見たことのある坂道。
しかし細部はにじみ、現実の手ざわりにはどうしても届かず、もどかしさが胸に残る。
やがて、スクリーンの中にひとりの少女が現れる。
白いワンピースの裾が濡れた石畳に映り、素足の足裏には水の冷たさが残る。
肩まで伸びた黒髪が春の風に揺れる。
その動きには昼間見た苔や白椿の記憶が重なった。
現実の重さをまといながらも、どこか遠ざかった気配が少女の輪郭を縁取る。
私はその姿から目を離せなくなる。記憶なのか夢なのか、次第に判別がつかなくなっていった。
部屋の音も温度も消え、いつしかスクリーンの中だけが私の世界になっていた。
やがて少女は立ち止まり、こちらを振り返る。
その瞬間、ひび割れるような冷たさが走る。
振り返る仕草や視線――何も語らないまなざし。
どこかで知っている気がしたが、思い出せなかった。
何か大切なものが今、失われそうになる不安が胸を満たす。
少女のまなざしが、スクリーンを越えて心の奥に触れる。
その瞳は、湖のような深い青さを湛えていた。
その青さに吸い込まれるように、沈んでいた記憶が、水面へ向かう泡のように浮かび上がってくる。
呼吸のたび、心の奥底に隠れていたものが揺れていた。
次の瞬間、像はふっと消え、白いスクリーンだけが部屋の奥で存在している。
私は我に返り、手帳を開いた。
「──見つめられていたのは、私だった。」
インクのにじみや紙の香りまでが、まだ現実と夢の間に残っている気がする。
ページの白さと、手に残る温もりが、現実へと引き戻してくる。
席を立ち、扉を開ければ、夜風が頬を撫でる。
どこからか、白藤の香りがはっきりと漂ってくる。
それはもう記録でも再生でもない。遠い記憶が、時を越えて、いま私の肩を静かに叩いている。
その確かな感触だけが、そこにあった。
そう感じたとき、身体の芯から静かな震えがひろがり、見えない何かが心の奥で目を覚ましていくのを感じた。