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雨がちょうど上がったばかりだった。

雲間からこぼれる春の光が、濡れた石畳をやわらかくなぞり、表面に微かなきらめきを刻む。

足元には、雨の余韻を引く細い水の筋が複雑に走り、歩くたび、ひやりとした感触が皮膚から体へと染み込んでいく。

石畳の隙間には小さな水滴が残り、虹色の光をそっと跳ね返している。

風が頬をかすめ、土と雨の新しい匂いが、身体の奥へと静かに入り込んでくる。


私は傘を閉じて、見知らぬ町の駅前通りに立っていた。

見慣れない標識や色褪せた看板。

軒先の瓦は春の光を重く映し返し、雨粒がまだ縁を伝っている。

歩道を行き交う人影はまばらで、誰もが自分だけの時間をまとい、足早に遠ざかっていく。

その背中に流れる時間は、私のものとは決して交わらない――そんな孤独な断絶を、私はひそかに感じていた。

耳に届くのは自分の靴音と、遠くの自転車のベルの余韻だけ。

町全体が、雨上がりの余白に身を沈めているようだった。

自分の呼吸と足音だけが妙に大きく響き、身体の奥に残る張りつめた緊張が、まだ完全にはほどけていない。

新鮮な空気が、背中から肩先にかけてゆっくりと広がっていくにつれ、まとわりついていたざわめきが、わずかずつ薄れていくのを感じた。

遠くで小さな風鈴の音が、雨上がりの空気に透明な響きを落とす。

その音に重なるように、空高く鳥のさえずりがこだまする。


町は、柔らかな光の膜に包まれ、色とりどりの残り香を漂わせていた。

私は思わず空を仰ぐ。

雲の切れ間からこぼれる光が、全身にそっと触れ、眠っていた感覚を静かに揺り起こす。

鳥の声が空の彼方へ消えていくとき、どこかで小さな波がさざめき、言葉にならない気配がまだ、心の片隅にとどまっている。

その正体を確かめるように、私は歩き出した。

行き先は決まっていない。

いくつか電車を乗り継ぎ、流れる車窓の風景に身を委ねているうち、思いがけない衝動に押されるまま、この町のホームへと降り立っていた。

それは自分の意志というよりも、どこか別の力がそっと導いてくれるような心地だった。

気づけば、薄く漂う霧と光の先に足が向かう。

どこへ向かうのかも定かでないまま、私は、足元の小さな水音に背中を押されて、新しい何かへと歩き始めていた。


駅前通りを抜け、なだらかな坂道を曲がると、古びた商店の軒先が現れる。

瓦屋根は雨を受けてほのかに光をまとい、木の柱には雨粒が残した縞模様が浮かぶ。

その下を弱い風がすり抜け、どこかの作業場から響いた金属を磨くような音が、ふいに途切れた。

町の奥底からひっそりと気配が立ち上り、時の流れが一瞬、足元にたゆたう。

舗道の端では、白い猫が歩みを進めている。

濡れた毛並みに朝の光が溶け込み、猫は一度だけこちらに視線を送り、すぐに細い路地へと消えていった。

そのまま歩き始めると、歩調に合わせて、体に残っていた微かな熱が、次第に息づかいに溶け込んでいく。


坂道をひとつ越えると、町の外れへ続く細い道。

苔むした石畳には、昨夜の雨の冷気がまだひっそりと残っていた。

足元の湿り気がじんわりと体の奥まで伝わり、吸い込む空気にうっすらと冷たさが広がる。

道の両側には低い垣根と、雨粒を弾いた白い漆喰の壁が連なり、その壁のかすかな凹凸の上を春の光がそっと指先でなぞるように滑っていく。

まるで過去の断片が、時間の表面をかすかに撫でていくかのようだった。


ふと、道の先に古びた木造の建物が姿を現す。

「時雨庵」――墨文字の看板は、かすれた輪郭に歳月を宿していた。

軒先では、雨に濡れた草花が揺れ、葉先を伝う雫が土の上で儚く光る。

窓越しの淡い光の中、誰かの手で磨かれたばかりの硝子が、外の景色をやわらかく歪ませている。

近づくごとに、足音が軒下で確かに響き、吸い込む空気がさきほどよりも一段冷たく感じられる。

理由はわからない。ただ、この場所に自然と引き寄せられていた。

一歩ずつ進むたび、足裏に伝わる地面のやわらかさとともに、微かな揺らぎが体全体を包み込む。

現実と記憶の境界が、足元からゆるやかにほどけていく。

どこから来てどこへ向かうのかも定かでない。

ただ、「ここに招かれた」という確かな予感だけが、全身を満たしていく。


 格子戸をくぐると、石の冷たさが足元を伝い、体に沁み入る。

遠い昔、誰かに手を引かれて訪れた家の記憶が、肌の奥深くでふと目を覚ます。

玄関には、磨き込まれた下駄箱と、色とりどりの草履がきちんと並んでいた。

浅く息を吸うと、薄く開いた障子の奥から、煎茶の香りがふわりと流れ込む。

壁際には、竹籠にいけられた季節の白い花が、わずかに揺れていた。


「お泊りですか?」

 帳場の奥から、澄んだ声が響く。年齢のわからない女将。

 背筋が伸び、控えめな微笑みを浮かべている。

 その声には、どこか遠い記憶を思わせる響きがあった。

私はわずかな間をおいて「はい」と答える。

自分の声が思った以上に小さく頼りなく聞こえた。

女将はそれ以上何も尋ねず、そっと宿帳を差し出す。

墨のかすかな香りが袖に移り、指先が緊張で少し強張る。

木の鍵を受け取ると、手のひらにやさしい温もりが残った。

「お部屋は二階でございます。階段を上がって右手の突き当たりです。お風呂はいつでもご利用いただけます。お夕食は七時半にお持ちしますね」

その言葉のあいだには、自然な間合いと余白が漂い、そのリズムが宿の空気を穏やかにしていくようだった。

女将は私の顔を見て、一瞬何かを言いかけそうになりながら、そっと視線を外し帳場へと戻った。

その控えめな仕草が、水面に広がるさざ波のように、意識の片隅にしばらく残った。


階段を上がる。

手すりの滑らかな木肌が指先にしっとりと馴染み、一歩ごとに踏み板がやさしい音を響かせる。

その響きは、からだの内側で小さく反射し、どこか遠い記憶の底を震わせていた。

案内された部屋の前で、襖に浮かぶ水紋の染みに思わず足が止まる。

その輪郭を指でなぞりたい衝動にかられ、ためらいがちに襖へ手を伸ばした。

ひんやりとした和紙の感触が、置き忘れていた感覚の層をそっと撫でた。

襖を開けると、新しい畳の青い匂いと雨上がりの湿気が、呼吸とともに満ちていく。

床の間に掛けられた、季節外れの朝顔。そのちぐはぐさが、まるでこの場所に迷い込んだ自分自身のようだと思えた。


手荷物を脇に置き、畳に腰を下ろす。

背中に伝わる冷たさが、張り詰めていた心の表面をゆっくりと溶かしていくのを感じる。

天井の木目を仰ぐうちに、外から届く風の音や鳥の声さえもが、遠い世界の出来事のように聞こえ始めた。

まぶたが、ゆるやかにその重さを増していく。

眠るつもりなどなかった。

けれど、この部屋の深い静けさに、心も身体も、いつしか全てを委ねていた。

畳へと吸い込まれるように、現実の輪郭がゆっくりと薄れていった。


どれほど眠っていたのだろう。

目を覚ますと、部屋の空気がうっすらと夕暮れ色に染まっている。

障子越しの光が、畳の上に淡い影を描く。

寝返りを打つと、背中に残っていた畳の冷ややかさが体に溶けていき、かわりに澄んだ土や青葉の香りが満ちてくる。

窓辺に立ち、庭を見下ろす。

石畳の上にはまだ水の痕跡が残り、苔の緑が夕陽を受けてかすかに輝いていた。

眠る前と今とでは、景色の輪郭がどこか違って見える。

まぶたの裏に残る夢の湿り気か、この部屋に流れる静けさが、自分の内側まで何かを変えてしまったのか。


部屋を歩いて窓際に腰を下ろすと、冷たい風が頬を撫で、光の粒が掛け軸や畳の目に降り積もる。

その光に導かれるように、文机の引き出しを開いた。

中には、封筒や便箋にまぎれて、一冊の手帳が置かれていた。

黒革の表紙はうっすらと埃をまとい、光を吸い込んで、周囲からわずかに浮き上がって見える。

それは、そこに在るべくして在る、というような、抗いがたい存在感を放っていた。

指先で持ち上げると、革のひんやりとした感触が掌に沈みこむ。

思っていたより軽い。

だが、その軽さがかえって、言葉にならない重みを伝えてくる。


ページを開く指先が、微かに震えた。

 「四月十二日。少女が姿を現す。白いワンピース。素足。あのときと同じ瞳で、こちらを見ていた――」

その文字を追っているあいだ、小さな震えが心の片隅をかすめる。

自分が書いたわけではない。けれど、まるで前から知っていたような感覚が、静かに身体の奥へ染み込んでいく。

手帳を見つめているうち、障子の向こうはさらに深い青をたたえる。

館内のどこかで、湯沸かしの音がほのかに響く。

それだけが、この部屋の外とつながる確かな現実だった。

その音に導かれ、手帳を机の隅に戻す。

部屋は音も光もすべてを包み込むような静けさに満たされていた。


しばらくして、襖の向こうから小さな足音が近づき、女将が膳を運んでくる気配がした。

扉がそっと開き、湯気をまとった料理の香りがふわりと広がる。

「お待たせしました。お口に合えば良いのですが」

 女将は膳をひとつひとつ、確かめるように指先で並べていく。

陶器と木の器が触れ合う淡い音。

焼き魚の皮が少しだけ反り、根菜の煮物からは煮汁の甘い香りが立ち上る。

 箸を手に取ると、木の重みが掌に馴染んだ。

煮物をひと口運ぶと、やさしい旨味が舌に広がり、のど元から体全体へ温かさがしみわたる。

味わうごとに、内側の冷えがその熱でほどけていく気がした。

それは何かの料理を思い出すのではなく、ただ、忘れていた身体の感覚が、味とともに呼び覚まされるような懐かしさだった。

 女将は多くを語らず、小さな微笑みだけを残して部屋を出ていく。

その背を見送りながら、私は古い挿絵で見た宿場町の夜をふと思い出していた。

ここでは、外とは異なる時間が、ゆったりと流れている。


食事の合間に窓外に目をやれば、夜の気配が庭や石畳、苔の緑をそっと包み始めていた。

 箸を置く。

 その仕草さえ、どこか遠い場所で誰かが行っているように、現実と薄い膜を隔てて感じられる。

立ち上がって文机に向かうと、外には淡い月明かりが浮かんでいる。

机の上では、手帳が静かに存在を主張している。

けれど、そのページをめくることが、この安らぎを壊してしまう気がして、そっと手を引いた。

今はただ、夜のやわらかな気配に身を沈めるように、息をひとつ吐くたび安堵が体に降りていく。

 障子を少し開け、外気を招き入れると、冷たい夜風が畳をなぞる。

 どこか遠くから響く小さな音に耳を澄ませながら、私は夜の始まりの中に身を置いていた。

――この部屋に流れる時間の輪郭だけが、たしかに、ここにあった。

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