side奏
丘から駆け下りていく鶴見さんの姿を見ながら、僕は握りこぶしをつくった。
今まで携帯を持たなかったことに不満なんてなかったけれど、鶴見さんが夏休みに入ると同時に東京に戻ってしまうのだと聞かされた時、僕は生まれて初めて欲しいものができた。家に帰ってから母親に携帯を買って欲しいと頼んだけれど、僕の要求を耳にするなりこちらを睨みつけて「あいつの血が混じったお前にどうしてそんなものを買わないといけないの」と吐き捨てられた。もちろん、あいつというのは父親のことだった。不甲斐ない僕は、それ以上母親に踏み入る勇気がなかった。
鶴見さんは東京に戻ったら、手紙を出すと言ってくれた。その手紙にはきっと、母親と会えたかどうかについても書かれてあるだろう。僕は鶴見さんが再び母親と会えることを願った。
「元気でね」
そう呟いてから丘を下りた。
学校帰りにいつも鶴見さんと一緒に歩いた帰路に就きながら、僕はたった四ヶ月ほどの思い出を振り返っていた。たまたま通りがかった隣の教室で補習課題に悪戦苦闘していた鶴見さんの姿が昨日のことのように思い出された。東京からの転校生だということは知っていて、もしかすると頼る友達がいないのかと思ってなんとなく声を掛けた。鶴見さんが僕の顔を見るなり救われたような顔をしていたのが可笑しかった。東京から来たっていうだけで鶴見さんに穿った人というレッテルを貼り付けてしまっていたけれど、話していくうちにこの田舎にいるどの同級生よりも良い子だと思った。そして、もっと話をしたいと思わせてくれる子だった。
鶴見さんといつもさよならをしていた三叉路に差し掛かった。僕は思わず歩みをとめた。鶴見さんが向かう方の分かれ道をぼーっと眺めた。鶴見さんがこの町に来るまでは見向きもしなかった道路だったのに、見ていたら無性に愛おしさと切なさが押し寄せてきた。いつも鶴見さんをここで見送った後、家に帰るのが嫌で公園に立ち寄って一人でブランコを漕いでいたことが思い出された。
「あれ……」
三叉路の鶴見さんの家がある方の道に見覚えのない建物があった。よく見ると、「べーかりー」という看板があった。ショーウインドー越しにパンが並んでいた。どうやらパン屋さんらしい。普段通らない道だけれど、あんなところにパン屋さんなんてあったっけ? と首を傾げていると、そんな違和感なんて吹き飛ぶような光景が目に飛び込んできた。
パン屋さんよりもさらに向こうの方から、誰かが全速力でこちらの方に走ってくるのが見えた。よく目を凝らしてみると、それが誰であるのかはっきりと分かった。
「……どうして」
僕は一瞬、都合の良い夢でも見てるんじゃないかと思った。
鶴見さんが、泣きながらこちらに手を振って走ってきていた。僕は思わず叫んだ。
「鶴見さん!」
僕の声が届いたらしく、鶴見さんも僕の名前を呼び返した。
「奏くん!」
鶴見さんは目の前まで来ると、僕に抱き着いてきた。突然のことにバランスを崩してしまったけれど、後方に足を出してなんとか踏みとどまった。鶴見さんは何故か号泣しながら僕の胸元に顔を埋めてきた。何が何だか分からなかったけれど、僕は一先ず鶴見さんの頭を撫でた。それから、鶴見さんに訊ねた。
「鶴見さん、家族と東京に戻るんじゃなかったの?」
鶴見さんは僕からの質問に嗚咽を混じらせながら答えた。
「か、奏くんと、い、一緒に行きたいっ」
「……僕と?」
「おかあ、さんがちゃんと生き返ってくれるか、すごく、不安なの」
「……そっか。でも、お父さんと柚乃さんが一緒だよ」
「二人はもう東京に向かった」
「……え?」
「奏くんと一緒に東京に行く!」
「……えっと」
「電車で一緒に行く!」
「……それって、ここからローカル線で新幹線の主要駅に行って、そこから東京駅に向かうってこと?」
「うん」
「……でも、僕お金持ってないよ」
「私が出す」
「……いや、それは流石に申し訳ないよ」
「お父さんからお金をもらった。ちゃんと許可もらったから」
鶴見さんは僕の胸から顔を上げて、赤くなった目で真っ直ぐに僕のことを見つめた。僕の服の胸元をくしゃっと握りながら、鶴見さんは言った。
「お願い」
鶴見さんの切実な表情に、僕は心が揺れ動いてしまった。
「……分かった。一緒に行くよ」
「ほ、本当に? ありがとう!」
鶴見さんは嬉しそうに笑った。
「でも、お母さんに許可をもらいに行かないと」
僕が言うと、鶴見さんの表情が途端に陰りを帯びた。
「次に来る電車に乗らないと今日中に帰れないの。明日がお母さんの命日だから、間に合わなくなっちゃう」
「え……」
「お願い! 私が全部悪いって後で奏くんのお母さんにちゃんと説明するから! 今は一緒に来て!」
鶴見さんはそう言うと、僕の手を掴んだ。それから、さっき走ってきたばかりなのに、鶴見さんはとてつもない速さで駆け出した。その時点で僕は、後で母親に何を言われようがどうでもいいと思っていた。こうやって、もう二度と話すこともできないだろうと思っていた鶴見さんと一緒に、鶴見さんの故郷に行くことができるのだから。
「会えるといいね。お母さんに」
髪を振り乱しながら走る鶴見さんの背中にそう言うと、鶴見さんは驚いたように目を丸くしながら振り返った。僕が首を傾げると、鶴見さんは可笑しがるような呆れるような笑みを浮かべて言った。
「こんなに振り回してるのに、そんなこと言ってくれるんだね」
鶴見さんは再び目を赤くすると、それを隠すように前を向いた。それから、鼻をずずっと啜ると「ありがと」と小さく呟いた。
ローカル線の無人駅で切符を買って、誰も乗っていない早朝の電車に二人で乗った。しばらくローカル電車に揺られた後、JRのある駅で乗り換えた。鶴見さんが携帯の乗り換えアプリで事前に時間と電車を調べてくれていたらしく、スムーズに乗り換えができた。そこから新幹線が通る駅まで向かい、駅弁を買って東京駅まで新幹線に揺られた。どうやって今回の小旅行に使うお金を鶴見さんに返金するか考えていると、昨日から一睡もしていないからか鶴見さんが僕の肩に頭を乗せて寝息を立て始めた。僕も鶴見さんと同じく昨日から一睡もしていないはずだけれど、不思議と眠気がなかった。目まぐるしく地元を飛び出して興奮状態にあるのかもしれない。
東京駅に到着して、僕は圧倒された。初めて見る東京の街並みが僕が住む町とは規格外で、こんなに人がいるところを初めてみた。人の流れという言葉の意味が初めて分かった気がした。鶴見さんの先導のおかげで駅構内の複雑さに頭を悩ませることなく電車を乗り換えることができた。すでに夜だというのに異常に密度の高い車内で何度も人にぶつかって頭を下げていると、鶴見さんにクスクスと笑われてしまった。バツが悪くなって頭を掻いて誤魔化した。気まずさを紛らわせるために車内の広告に目を向けた。8月2日(金)に河川敷で夏祭りがあると書かれてあった。そういえば、僕の地元では夏祭りは開催されていないなと思った。
鶴見さんの実家の最寄り駅に到着してから、綺麗な円形の月に照らされながら鶴見さんと肩を並べて歩いた。もう二度と鶴見さんとは隣り合って歩くことはできないと諦めていた僕は、感慨深い気持ちになった。鶴見さんは父方の祖父母とはよく交流があること、母方の祖父は亡くなっていて祖母は北海道の地元で母方の伯母と暮らしているのだという話をしてくれた。鶴見さんの身の上話を聞きながら、鶴見さんが過ごしてきた街を歩くことに新鮮さを感じた。鶴見さんは道中で自分がこれまで通ってきた、そして夏休みが明けたら再び通い出す中学校を指さした。当然田舎町の僕が通う中学校よりも随分と立派で、鶴見さんがどこか遠い存在に思えた。
鶴見さんの実家はマンションで、七階の角にある一室だった。僕が住んでいる町ではまず七階建ての建物なんて存在しない。鶴見さんは鍵を取り出すとドアノブにそれを挿した。それからドアを開けると「ただいまー」と電気の点いた玄関に入った。
僕がドアの前で立ち往生していると、鶴見さんが振り返った。
「何してるの? 入っていいよ」
「え、あ、じゃあ、お邪魔します」
鶴見さんに促されて恐縮したまま玄関に入ると、見たことのある子が現れた。
「お姉ちゃん、お帰り!」
一度、学校帰りに遭遇した鶴見さんの妹だった。確か、名前は……。
「柚乃、ただいま。お父さんは?」
「奥の部屋にいるよ」
柚乃さんの言葉を聞いて、鶴見さんは奥の部屋にすたすたと歩いて行ってしまった。
残された僕は、じっとこちらを見る柚乃さんに苦笑したままでいるしかなかった。頭を掻いていると、僕は違和感を覚えた。
「あれ、背が伸びたね」
僕が言うと、柚乃さんは「そうかな」と頭頂部に手を乗せた。前に会ったのが7月の上旬だった記憶があるけれど、ここ二週間ほどで髪の毛だけでなく背も目に見えるほど伸びていた。育ち盛りだと女の子でも背が急速に伸びることもあるらしい。5cmほどは伸びたんじゃないだろうか。一方、鶴見さんはある程度背が伸び終えたのか、それとも僕が毎日見ていたからか、特に変化はない。もしかすると、柚乃さんは小学生のうちに背が伸びきるタイプなのかもしれない。
「ねぇねぇ」
柚乃さんが囁くように僕に呼びかけた。
「お姉ちゃんと仲良くしてくれてありがとう」
「……いや、仲良くしてもらってるのは僕の方だよ」
僕が言うと、柚乃さんはにこっと笑って言った。
「お姉ちゃん、あっちの学校で友達ができなくて不安そうだったけど、ある時からお兄ちゃんの話ばかりするようになったの。お姉ちゃんが毎日楽しそうで、私安心したんだ。だから、ありがとうございます」
柚乃さんは深々と僕にお辞儀をしてきた。あまりに恭しくされたものだから、僕も慌てて頭を下げた。すると、突然奥から笑い声がした。思わず振り返ると、鶴見さんがお腹を抱えながらこっちを見て笑っていた。
「何してるの」
鶴見さんの隣に男性が立っていた。おそらく、鶴見さんの父親だろう。目が合ったため思わず頭を下げると、鶴見さんの父親も微笑みながら会釈してくれた。すると、鶴見さんが僕の隣に並んだ。
「お父さん、この人が奏くん」
鶴見さんの紹介に、僕は反射的にまた頭を下げた。すると、鶴見さんのお父さんが笑った。
「日代から話を聞いていた通り、優しい子そうだな」
「いえ、そんな」
「お腹が空いただろう。ほら、こっちにカレーを並べてある」
「ちょっと、作ったのは私でしょ。お父さんは火を点けただけじゃん」
鶴見さんが呆れたように言うと、僕の後ろから柚乃さんが言った。
「火を点けたのは私だよ。お父さんはなんにもしてないよ」
「あ、こら。それは言わない約束だろ?」
「もう、お父さんったら」
およそ自分の記憶にはない家族間の会話に、僕はとてつもないギャップを感じた。そして、子どもが二人して父親に優勢な態度を取る姿に何か温かい印象を抱いた。
「あははは」
三人が同時にこちらを振り返った。特に鶴見さんは、驚いたように口を開けて僕のことを見ていた。
「奏くんが、声を上げて笑ってる……」
「いや、だって、三人のやり取りが面白くて」
僕がそう言うと、鶴見さんの父親が照れ臭そうに頭を掻いた。そして、鶴見さんは何故か目を赤くして目尻を指で拭っていた。
見ず知らずの僕が食卓に加わったというのに、鶴見さんの父親は気さくに僕に話しかけてくれた。学校での鶴見さんの様子や僕たちの馴れ初めなどを興味津々といった様子で訊いてきた。僕が素直に話すと、鶴見さんは「やめてー!」と顔を赤くしていた。そして、馴れ初め話をした時に、僕と鶴見さんが接点を持つきっかけとなったのが補習であることを知ると、鶴見さんの父親は「補習に呼ばれるほど試験結果が悪かったのか!」とお説教を始めた。鶴見さんは顔を青くしながらこちらを恨めしそうに睨んでいた。僕はその様子が可笑しくてまた笑い声を上げてしまった。一日の間にこんなにも笑ったのは、生まれて初めてなんじゃないだろうか。それに、鶴見さんにとっては親に叱られることが厄介なことかもしれないけれど、無関心でいられるよりもよっぽど心地が良いと僕は思う。正直、羨ましいなと思った。
一方で柚乃さんは学習面において優秀らしく、鶴見さんが父親に怒られているのを「またかー」と呆れたように唇を尖らせた。しばらく二人が自分の会話相手にならないということを悟ったのか、柚乃さんが僕に話しかけてきた。「吉野くんは足が速くて女の子たちからモテモテだけど、きっと浮気性だよ」とか「川小見さんは内気な子だけど、本当は面白い子なの。話の引き出しが多くて一緒にいて楽しい」だとか、ほとんどが自分の学校の友達に関する話だった。
「そういえば東京に戻って来てびっくりしたんだけど、雪ちゃんっていう同じ東京の同級生だった子が、このマンションの八階に引っ越してきてたんだ。さっきお姉ちゃんたちが帰ってくる前までお喋りしてたんだけど、すごく頭が良い子なの。さっきクイズを出されたんだけど、明日答え合わせすることになってて。でも、全然分からないんだ。正解してびっくりさせたいんだけど」
「クイズ?」
「うん。あのね、雪ちゃんのおばあちゃんが今年で17歳になるらしいんだ。どうしてでしょうっていうクイズだったんだけど、その答えが全然分からないの。だって、おばあちゃんなのに高校生と同じ年齢って変だもん」
「あー、なるほどね」
「もしかして、お兄ちゃんは答えが分かったの?」
「うん、まあね」
「え! 本当に? 教えて教えて!」
「うん。多分だけど、雪ちゃんのおばあちゃんは閏年生まれなんじゃないかな」
「閏年? あ! 聞いたことある! 2月29日のことだよね?」
「そう。2月29日は四年に一度しか訪れないから、おばあちゃんでも17歳っていうことはありえるね」
「なるほどね! お兄ちゃんも雪ちゃんみたいに頭良いね!」
「そんなことないよ」
そんな話をしている内にお説教が終わったらしく、鶴見さんはしょんぼりした様子だった。少し悪いことをしたかなと思った。
夕食が終わってからお風呂に入り、みんな揃ってリビングで映画を観た。家族で一緒の時間を過ごすことなんて自分とは縁がないと思っていただけに、僕は不思議な気持ちでテレビの画面を眺めていた。
……いや、母親と一緒に映画を観た記憶が微かにある気がした。
そうだ。父親がいなくなって憔悴した母親に、幼かった僕は一緒に映画を観ようと抱き着いた。そのDVDは何度も観たことがあるもので、きっと母親はうんざりしていただろうと思う。それでも、疲弊しきった顔に笑顔を貼り付けて、僕と一緒に映画を観てくれた。
すっかり忘れていた。母親から罵声を浴びさせられる日々が続いていたことで、僕は無意識のうちに母親が関係する出来事を思い出さないようにしていたのか。
映画を観終わった後、僕は放心状態にあった。僕から母親を求めたかつての記憶が蘇ったことで、僕は生まれてからずっと孤独だったと思い込んでいたのかもしれないと思ったからだ。
寝室は二つあった。そのうち一つは鶴見さんの父親と柚乃さんが使い、もう一つは僕と鶴見さんが使うことになった。布団を並べて電気を消して、横になった。カーテンの隙間から月明かりが差し込んできた。
「ねぇ、奏くん」
静かな鶴見さんの声が聞こえてきた。
「なに?」
「奏くんの中で、家族のイメージ変わった?」
鶴見さんは確認するように僕に訊いた。
「……うん、変わった。あと、少しだけ、思い出した」
「思い出した?」
「うん。さっきみんなで映画を観てたら、自分も昔、お母さんに一緒に観てもらってたなって」
「……そっか」
「鶴見さんのカレーが美味しかったな、とか」
「……関係なくない?」
鶴見さんは噴き出しながら言った。
「昔、お母さんにカレーを作ってもらったことを思い出したんだ。しばらく食べてなかったから味は覚えてないけど、美味しかったことはちゃんと思い出せた」
「……そっか。良かった」
鶴見さんの声が震えた。涙声になっているようだった。
「ありがとう。鶴見さん」
「私は何もしてないよ」
「東京に連れ出してくれたのは、僕に家族の良さを伝えるためだったんじゃないのかな」
「…………」
「明日、鶴見さんのお母さんが現れてくれるといいね」
「……うんっ」
鶴見さんは鼻を啜りながら頷いた。
お互い表情は見えていなかった。二人とも、天井を眺めていた。けれど、僕には鶴見さんの表情が想像できた。きっと、鶴見さんも今の僕の表情が分かっているだろう。僕は鶴見さんに報われてほしかった。
けれど、鶴見さんはきっともう、母親と会うことはできないだろう。それも、僕のせいで。
「ごめんね」
鶴見さんに聞こえないくらいの声で、僕は呟いた。涙がとめどなく溢れるのがバレないように、僕は声を出さずに泣いた。
翌朝、僕は「チーン」と金属同士がぶつかる音で目が覚めた。
リビングに向かったけれど、誰もいなかった。しばらくするとまた「チーン」という音が鳴った。振り返ると、昨日は閉まっていた畳敷きの部屋のドアが開いていた。その中に、鶴見さんの姿があった。女性の遺影が飾られた仏壇に向かって手を合わせていた。おそらく、遺影に写る女性は鶴見さんの母親だった。
僕はその部屋に入って鶴見さんの隣に座り、手を合わせた。目を閉じながら手を合わせ続けていると、鶴見さんが口を開いた。
「お母さん、来なかった」
鶴見さんを振り返ると、目から一筋の涙が頬をつたって流れていた。リビングに掛けられた時計を見ると、すでに午前八時を回っていた。鶴見さんが母親と最後に顔を合わせたのは確か午前七時頃だったはずだ。
「鶴見さん……」
「大丈夫。あくまでジンクスだって分かってたから」
鶴見さんがそう言い終わると同時に、僕は鶴見さんの背中を摩った。すると、鶴見さんは大粒の涙を流し始めた。
「ごめんね。泣いてもいい?」
「うん、いいよ」
僕が答えると、鶴見さんは幼い子がそうするみたいに大きな声を上げながら泣いた。
「おかあさん、寂しいよぉ」
鶴見さんは額を畳にこすりつけながら肩を揺らした。僕は鶴見さんの背中を摩り続けるしかなかった。
記憶の片隅に、幼かった僕が泣きじゃくる光景が浮かんできた。父親がいなくなったことで心の均衡が保てなくなった母親が、窪んだ目で家から出て行こうとしている光景だった。幼いながらに、このまま母親が自分を捨ててどこかに行ってしまうのだと悟っていた。子どもの力では留めきれなくて、母親は僕の手を振り解いて外に行ってしまった。僕と母親の間を塞いだドアの前で「帰って来てよ」と泣きじゃくった。そんな光景が、一気にフラッシュバックしてきた。
鶴見さんの肩を両手で掴んだ。鶴見さんが肩を揺らしながら、真っ赤になった目で僕のことを見た。僕は鶴見さんのことを抱きしめた。すると、鶴見さんは僕のことを抱きしめ返してさらに声を上げた。
「ありがとう、鶴見さん。ごめんね」
僕は鶴見さんの頭を撫でながら、涙を流した。
僕と鶴見さんはしばらく、お互いに抱き合ったままでいた。
鶴見さんが落ち着くと、朝食を作ってくれた。白米と味噌汁、焼き魚を用意してくれた。鶴見さんは相当料理上手らしく、どれも絶品だった。そして、朝食を食べながら、僕は気になっていたことを訊いた。
「鶴見さんのお父さんと柚乃さんは?」
「お父さんは仕事で、柚乃は友達と遊びに行ったよ」
「随分と朝早くから遊ぶんだね」
「うん、どうも一つ上の階に友達が引っ越して来たみたいで」
「昨日柚乃さんが言ってたね。そういえば、このマンションのこの部屋は、引っ越す前にも住んでいたの?」
「うん、そうだよ」
「でも、ここに戻るまでに誰かが入居したら、お母さんが蘇っても立ち会えなかった可能性があるよね」
「あー、それがね、実はこのマンションの管理人さんがお父さんの同級生らしくて。私たちが一時的に東京を離れるって知ったら、この部屋を確保してくれたんだって」
「なるほどね。鶴見さんの周りには温かい人脈があるみたいだね」
「えへへ」
鶴見さんが嬉しそうに笑った。その表情を見て、僕は箸を置いた。
意を決して、僕は鶴見さんに訊いた。
「僕ってさ、死んでるよね」
「…………え?」
「鶴見さんは月島神社で僕が生き返るように願ってくれたと思うんだけど、違うかな」
「…………ちょっと、何言ってるの、奏くん」
「昨日、いくつか違和感があったんだ」
僕がそう言うと、鶴見さんは神妙な面持ちになった。どうやら、僕の言葉に耳を傾ける意思を示しているようだった。
「まず、最初に違和感を持ったのが、丘で別れたはずの鶴見さんが三叉路のところに戻って来た時だった。鶴見さんの家に通ずる道に、見覚えのないパン屋さんがあったんだ。僕の記憶の限り、あんなところにパン屋さんはなかった。つまり、パン屋さんが建設される前に既に死んでいる僕は、パン屋さんが建設された未来に蘇ったと考えられる」
「それは、普段注意して見ていなかっただけで、私はいつもあそこで新しい建物が建てられている最中だったのは見てたよ」
「そうだね。もしかすると、これは僕の不注意だったのかもしれない。でも、他にも違和感はあった」
鶴見さんは緊張した様子で僕の言葉の続きを待っていた。
「新幹線に乗った時、徹夜明けだったにもかかわらず、僕は眠くならなかったんだ。つまり、鶴見さんが月島神社のジンクスを成功させて僕を蘇らせていた場合、故人は健康的な状態で蘇るという効能が働いているんじゃないかと思ったんだ」
「そんなの、私が奏くんを生き返らせた証拠にはならないよ!」
鶴見さんは前のめりになって言った。
「うん、今言った二つの違和感は、勘違いの可能性がある。でも、僕は他の決定的な証拠によって、この二つの違和感さえも、月島神社のジンクスが関係してるんじゃないかと思ったんだ」
「……他の、証拠」
「うん。まず、電車の中で夏祭りの広告があったんだ。8月2日(金)となってあった。僕たちは平成二十一年生まれで、今は中学二年生だから西暦は2023年のはず。だから、8月2日は水曜日じゃないとおかしいんだ。広告を見た時に違和感があって、計算してみたら8月2日が金曜日になるのは2024年だったんだ」
僕の言葉に、鶴見さんは難しい顔をしたまま黙っていた。
「このマンションに来る間も、おかしなことがあった。7月18日が新月になると鶴見さんが言っていたのを覚えてたんだ。でも、7月20日の昨日の時点で夜空にはほとんど満月の綺麗な月が浮かんでいた。たった二日で新月が満月に近づくなんてありえないことなんだ」
「…………」
「この部屋に来て、柚乃さんと会った時も驚いた。いくら成長が見込める小学生とはいえ、柚乃さんの身長が二週間ほどで随分と高くなってた。目で見て分かるくらいだから、きっと5cmは少なくとも伸びてるんじゃないかな。でも、これが一年経っているからだという理由を付ければ、何の違和感もない。鶴見さんの身長が変わらないのは、ある程度中学生になって身長が定まったから」
鶴見さんは僕の方を真っ直ぐ見つめたまま、どこか諦めたように口を閉ざしていた。
「鶴見さんが補習のことでお父さんに怒られている間、僕は柚乃さんとこんな話をしたんだ。今柚乃さんが遊びに行っている上の階の雪ちゃんという友達から、自分のおばあちゃんは年齢が17歳なのは何故かという問題を出されたらしいんだ。その答えは閏年なわけだけど、柚乃さんはこう言ったんだ。『雪ちゃんのおばあちゃんが今年で17歳になるらしいんだ』って。つまり、今年は閏年ということになる。閏年は四年に一度の偶数年にしかやってこない。つまり、直近でいうと2016年、2020年、2024年。僕にとっては今年は2023年だけど、柚乃さんの発言からするに、時間遡行の線は除外すると今年は2024年ということになる」
僕がそこまで言い終えると、鶴見さんは目を閉じながら深く息を吐いた。それから、潤んだ目でこちらを見上げると、諦観めいた笑みを浮かべた。
「やっぱり、奏くんは頭が良いね。そこまで気付かれてたなんて」
「僕は、既に死んでるんだね」
僕が訊くと、鶴見さんは小さく頷いた。
「私は、丘で奏くんと別れた日、お父さんと柚乃と車で東京まで向かった。このマンションのこの部屋に戻って翌日を迎えたけど、お母さんは蘇らなかった。私は、絶望した。私はすぐに奏くんに手紙を出した。お母さんは蘇らなかったって。私は、奏くんからの手紙をずっと待ってた。でも、手紙は全然返ってこなかった。住所を間違えたのかな、とか、引っ越したのかな、とか、奏くんは私のこと嫌いになっちゃったのかなって。ずっと、不安だった。だから私は、冬休みに奏くんがいる町に行った」
鶴見さんは涙を目に浮かべながら話を続けた。
「奏くんの家の呼び鈴を押したけど、誰も出なくて。だから、あの学校に行って部活をしてる同級生に訊いたの。奏くんはどこにいるのって。そしたら、『夏休みが始まってすぐに交通事故で亡くなった』って答えが返ってきた。頭が、真っ白になった」
鶴見さんは頭に両手を重ねてテーブルに肘をついた。
「どうにかなりそうだった。同級生に訊いて分かったのは、奏くんの命日が7月22日だということ」
「……明日」
僕がそう零すと、鶴見さんは頷いた。
「でも、何時に奏くんが亡くなったのかは分からない」
「…………ごめん、鶴見さん」
「……え?」
「鶴見さんは、僕を生き返らせることにジンクスを使ったから、もう二度と、鶴見さんのお母さんを蘇らせることはできなくなった。ごめん、本当にごめん」
自分の不甲斐なさに、僕は思わず涙を流した。すると、鶴見さんが席を立って僕の隣に来た。そして、僕を抱きしめてきた。
「私が選んだんだよ? 奏くんを生き返らせようって。私がどうしても、もう一度、奏くんに会いたかったの」
鶴見さんの言葉で、さらに涙が止まらなくなった。
鶴見さんは僕の背中を摩りながら、耳元で言った。
「奏くんは、どうしたい?」
「……え?」
「残りの時間で、何かやり残してることとかない?」
こちらを窺うような口調だった。
「……僕は」
僕は、どうしたいのだろう。
昨日から今日にかけて起きた出来事が走馬灯のように脳裏を駆け巡った。そして、色々なことを思い出した。自分の中で感じないようにして凍らせていた記憶が、埃が被って色褪せていた思い出が、溶けて少しだけ温かくなった気がしていた。
「母親に、会いに行く」
僕は椅子から立ち上がって言った。
鶴見さんは、全てを肯定してくれるような笑顔を浮かべた。
「鶴見さん。2024年の満月がいつか調べてほしい」
「え? どうして?」
「昨日の月が満月といって差し支えないほどだったんだ」
「うん? とりあえず調べてみるね」
鶴見さんは携帯を起動して検索してくれた。すると、鶴見さんは驚いた表情をした。
「7月21日、今日が満月らしい」
「……鶴見さんのお母さんが亡くなった日、鶴見さんのお父さんは何時に家を出た?」
「えっと……確か私と同じくらいに家を出たと思うけど」
「……だったら、鶴見さんのお母さんを生き返らせるチャンスがまだあるかもしれない」
「えっ?」
鶴見さんは僕の発言に目を丸くした。
「鶴見さんのお父さんに願ってもらうんだ。月島神社で、鶴見さんのお母さんが蘇るように」
「え、でも、もうお母さんと最後に顔を合わせた時刻は過ぎてるよ?」
「故人の命日が満月の日だったという前例がなかっただけだとしたら。前例がないだけで、本当は満月に願えば命日に蘇ってくれる奇跡があるとすれば」
もちろん、あくまで可能性の話だ。でも、鶴見さんには何としてでも母親と再会してほしかった。
「で、でも、お父さんは仕事に出掛けて」
「分かってる。でも、明日でこの世から消える僕からのお願いを聞いてほしい。生き返らせてもらったうえに図々しいお願いをしているってことはもちろん理解してる。でも、僕は鶴見さんに笑顔になってほしいんだ!」
おそらく、これは僕の人生の中で一番切実な願い事だった。僕には、鶴見さんみたいに生き返らせたい誰かはいない。でも、幸せになってほしい生きている人がいる。
僕の必死さが伝わったのか、鶴見さんは「お父さんに電話してみる」と言ってくれた。鶴見さんは携帯を耳にあてて外に出て行った。しばらくすると、ドアを開けて玄関に入って来た。鶴見さんは、片手でオッケーサインをした。僕は思わず握りこぶしをつくった。
鶴見さんの父親は、すぐにマンションまで来てくれた。僕を助手席に乗せると、鶴見さんのお父さんは昨日は僕に見せなかった真剣な表情で訊いてきた。
「本当に、佐代子は生き返るんだな」
「可能性はあります」
「日代と柚乃に、佐代子を会わせてやれるかもしれないんだな」
「はい。絶対とは言えませんが、試してみる価値はあります」
鶴見さんの父親は真っ直ぐ目を合わせてきた。目の奥、僕の心をも見通すような力強い眼差しだった。それから「ふぅ」と息を吐くと、鶴見さんの父親は「日代のために、ありがとう」と笑顔を浮かべた。
車の窓越しで、鶴見さんが心配そうな顔をしていた。
「もし、お母さんが現れなかったら、ごめん」
僕が言うと、鶴見さんは首を横に振った。
「最後の最後まで、ありがとう。奏くんとまた一緒に過ごせて、良かった」
「僕の方こそ、ありがとう。生き返らせてくれて、本当にありがとう」
僕は窓から身を乗り出して、鶴見さんと抱き合った。
「それじゃあ、出発するよ」
鶴見さんの父親の声を合図に、僕と鶴見さんは離れた。
車が発進すると、僕は後ろを振り返った。後部座席の窓越しで、鶴見さんが必死に手を振る姿が見えた。その姿が見えなくなったタイミングで、僕は鶴見さんの父親に言った。
「月島神社の話は、日代さんから聞いていますか」
「あぁ。君は今、日代によって生き返っている状態なんだってな」
「はい。信じていますか」
「……正直、半信半疑ではあるが、日代はそんな嘘を吐くような子じゃないからな」
「月島神社の池に、今夜満月が差し込むはずです。奥様が亡くなられた21時頃までにその池に差し込んだ光の中に入って、奥様と最後に顔を合わせた時の光景を思い浮かべてください」
僕の言葉に、鶴見さんの父親がゆっくりと頷いた。
「そして、これはさっき日代さんから聞いたばかりなのですが、その光景を思い浮かべる時に、涙を流す必要があるらしいんです」
鶴見さんは僕を生き返らせようと池の中で願った時、母親の時に失敗したように、僕もまた生き返ることはないかもしれないと思って涙を流した。すると、池の中央に写っていた満月が凄まじい光を帯びたのだそう。
「大丈夫そうですか」
僕が訊くと、鶴見さんの父親は口角を少しだけ上げて答えた。
「問題ない。毎晩、あいつのことを想っては泣いてるよ」
僕は、何も答えることができなかった。
車中泊するために出してくれた車は、電車を使うよりも到着するのに時間が掛かった。僕の故郷の町に到着した時には、すでに20時を過ぎていた。
僕と鶴見さんの父親は急いで月島神社に向かった。そして、池にたどり着くと、前に鶴見さんと来た時と同じように、夜空の満月から池の中央に向かって光が差し込んでいた。
僕と鶴見さんの父親は顔を見合わせた。僕が頷くと、鶴見さんのお父さんは神妙な表情で頷いて、池の中に入って行った。そして、池の中央、光の水溜まりみたいに映った月までたどり着くと、鶴見さんの父親は両手を合わせて祈るように目を閉じた。暗くて涙が流れているのかまでは分からなかったけれど、しばらくすると鶴見さんの父親が浸かる池に浮かんだ満月が光度を上げて輝きだした。美しいサンゴ礁が彩るように、池の隅々まで光が行き届いた。その光景が数秒続いた後、視界の静寂が戻った。
鶴見さんの父親はやがてこちらまで引き返してきた。
「途中、瞼越しに眩しさを感じたんだが、成功したのか」
目を赤くした鶴見さんの父親に僕は頷いた。
「そうか」
安心したように、鶴見さんの父親は笑った。
山の麓の駐車場に鶴見さんの父親は車を停めた。僕と鶴見さんの父親はそこで仮眠をとった。僕の母親は夜勤の仕事をしているため、帰ってくるのはいつも朝日が昇った頃だった。
朝日の訪れが空の模様を彩ったタイミングで、僕は眠っている鶴見さんの父親を起こさないようにそっと車を降りた。僕は、自分の家に向かった。
家の前にたどり着いて見上げてみた。何も変わり映えはなかった。もしかすると、僕が死んだからといって母親の心情にも何も変化が起きていないのかもしれない。けれど、それでもいいと僕は思っていた。
母親の帰りを待ちながら、僕はまた、古い記憶が浮上してくるのを受け入れた。
母親が自暴自棄になって家を出て行ったあの日、僕は捨てられたと思って一日中泣きじゃくっていた。けれど、母親はいずれ戻ってきた。ひどく泣き腫らした顔で、僕を見るなり力強く抱きしめてきた。
「ごめんね」
母親はそう言って、僕の頭を撫でた。
僕にも、母親にそんなことをしてもらった記憶があったのか。
思わず笑みを零していると、向こうから人の影が近づいて来るのが見えた。風貌からして女性だった。
目を凝らさずとも分かった。
「奏……?」
その影は僕の名前を呟くと、持っていた鞄をどさりと地面に落とした。そして、こちらに向かって走って来た。僕の目の前まで来ると、走って来た勢いをそのままに抱きしめてきた。強く、強く抱きしめてきた。
「ただいま、お母さん」
僕は、随分と痩せ細ったお母さんの背中に腕を回した。