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side日代

 東京では見たこともないようなきれいな夜空に、数えきれないほどの星々が輝いている。この丘から見える幻想的な夜空が私の故郷と繋がっているのだと思うと、なんだか不思議な気持ちになる。

 夏前の湿気を含んだ六月の風が私の頬を行ったり来たりしながら撫でてくる。私はベンチで隣り合って座っている奏くんを振り返った。

「ねぇ、奏くん」

 奏くんは私の呼びかけに振り返った。

「人は死んだら星になるって言葉、聞いたことある?」

「うん、あるよ」

 奏くんは頷いてから、夜空を見上げた。

「その言葉って、本当なのかな」

 私の言葉に目を丸くしながら、奏くんは頭を掻いてから答えた。

「あんなに綺麗だから、星が浮かぶ空が天国だとしてもおかしくはないと思う」

「そっか。じゃあ、死んだ人に会いたかったら、星が地上に落ちてくればいいのかな」

「……えっと」

 奏くんは私の言葉に困っているようだった。その様子が可笑しくて、私は思わず笑ってしまった。

「冗談だよ」

「そっか。冗談か」

 奏くんが安心したように胸を撫でおろした。

 私と奏くんは、もう一度夜空を見上げた。こうやって二人で会えるのは、あと一ヶ月もない。急に寂しさが込み上げてきた私は、奏くんの肩に頭をのせた。奏くんの驚く息遣いが耳に届いた。

「奏くんと、離れたくないな」

 私の言葉に、奏くんの身体が強張るのが感じられた。

「でも、鶴見さんは東京の中学校で卒業したいでしょ?」

「……それはそうだけど、それとこれとは別だよ」

 お父さんの仕事の関係で、四月から夏休みに入るまでの一学期の間だけ、私はこの田舎で暮らすことになっていた。今の学校に思い入れがあるわけではないけれど、奏くんと離れるのは嫌だった。

「奏くんとこうやって話すようになったきっかけ、覚えてる?」

「えっと、確か鶴見さんに勉強を教えてあげたんだっけ」

「うん」

 勉強が苦手な私は、テストの結果が悪くて何度か放課後に補習に呼ばれていた。他にも補習に呼ばれていた子たちはお互いに協力して課題をこなしていたけれど、東京出身であることが障壁となって私は誰とも打ち解けることができなかった。二回目の補習で、最後まで教室に残っていた私を見かねて偶然通りがかった別のクラスの奏くんが勉強を教えてくれた。それから、私は奏くんと話す仲になった。

「奏くんが私に話しかけてくれたおかげで、クラスメイトの子たちも私に話しかけてくれるようになった。本当に、感謝しかないよ」

「感謝されるようなことはしてないよ。でも、中学二年生で学校が変わるのは大変だよね。もう周りはコミュニティが出来上がってるだろうし」

「うん、正直すごく不安だった。だから、ありがとう。奏くん」

 私がそう言うと、奏くんは照れたように頭を掻いた。

「ねぇ、また世代音楽ゲームしようよ」

 私はそう言って、携帯を取り出した。奏くんは携帯を持っていないから、いつも私の携帯を使って遊んでいる。

 世代音楽ゲームというのは私が勝手に名付けたもので、平成二十一年生まれの私と奏くんがお互いに音楽を流して相手に「聴いたことがある!」と言わせるゲームだ。古い年代の曲であればあるほど得点が高くなる。ただし、攻めすぎてしまうと、相手が知らない曲になる可能性が高いため注意が必要だ。

「そしたら、私からね」

 私が音楽を流すと、奏くんはすぐに「聴いたことある」と答えた。

「栄光の架橋」

「正解! やった! じゃあ、平成十六年の曲だから、21マイナス16で5ポイントだ!」

「良いところを突いてきたね。そしたら、次は僕の番だね」

 奏くんは考える素振りを見せてから、思いついたように顔を上げた。奏くんが私から携帯を受け取ると、ある音楽を流した。けれど、私はその曲に聞き覚えがなかった。

「うーん、分かんない」

「えっ、ほんとに? これは誤算だったなぁ」

 奏くんは頭を掻きながら「心絵っていう曲だよ」と悔しそうに言った。

「んー、やっぱり知らないかも」

「同じ平成十六年の曲だから、まずはポイントを並ばせようと思ったんだけどなぁ」

「私と奏くんでは生まれたタイミングが違うもんね。奏くんの方がおじさんなのかも」

「……僕も鶴見さんも四月生まれでしょ。たった七日しか変わらないよ」

 私が思わず笑うと、奏くんは仕方なさそうに頭を掻いた。

 そんな調子で、私と奏くんは交互に曲を出題していった。得点を重ねていって、最終的に私が勝つことができた。

「やったぁ! また私の勝ちだったね」

「毎回負けちゃうね」

「大丈夫だよ。またいつでも……」

 私はそこまで言いかけて、思わず口を閉じた。すると、奏くんが私の頭に手をのせて、ゆっくりと撫でてくれた。

「また、しようね」

「……うん、ありがとう」

 私は自分の頭にのせられた奏くんの手を握った。

 それから私たちはしばらく無言のままベンチに座っていた。帰らないといけない時間が着実に近づいていた。残り数日になった夏休みみたいに、落ち着かない気持ちがざらざらとした感触で心を舐めてくる。

 時間は私たちの気持ちを無視して過ぎ去っていった。奏くんは吐息をついて立ち上がった。

「そろそろ帰ろうか」

「あ、うん」

 私たちは並んで歩いた。その間も、私たちの間で会話はなかった。

帰路が分かれる三叉路に差し掛かって、私は奏くんに向き直った。名残惜しい気持ちが私の手に奏くんの服の裾を掴ませた。

「ねぇ、奏くん」

「うん、どうしたの」

「奏くんはこの後、どうするの?」

「……家に帰るよ」

「まっすぐ?」

「……いや、寄り道してから」

 奏くんは少し目を逸らしながら答えた。

「分かった。気をつけて帰ってね」

「うん。鶴見さんも」

 私は奏くんに手を振りながら三叉路の片方の道を歩きだした。奏くんは立ち止まったまま、私に手を振り返してくれた。奏くんの姿が見えなくなるまで、私は手を振り続けた。奏くんもまた、私の姿が見えなくなるまで手を振り続けてくれた。そんな他愛のない日々は何食わぬ顔であっという間に過ぎて行った。

気がつけば七月に突入してしまった。

 放課後になって隣の教室に向かい、帰り支度をしていた奏くんに私は声を掛けた。

「ねぇ、奏くん」

「どうしたの?」

「一緒に帰ろう」

「うん、いいよ」

 奏くんは頷いて、鞄に教科書を詰める動作を速めた。

 学校を出た私と奏くんはいつも学校帰りに寄る丘に向かった。そこに向かう途中で「お姉ちゃん!」と後ろから私を呼ぶ少女の声がした。

「柚乃」

 私が名前を呼ぶと、赤いランドセルを背負った柚乃は嬉しそうに笑顔を浮かべてこちらに走ってきた。懐くように私に抱き着く柚乃の頭を撫でていると、奏くんの不思議そうな視線が目に入った。

「あ、ごめんごめん。この子、私の妹なんだ。ほら、柚乃。挨拶して」

 柚乃は素直に頷くと「鶴見柚乃です! いつもお姉ちゃんがお世話になっています!」と元気よくお辞儀した。

「あ、いやいや。お世話だなんて。こちらこそ、いつも日代さんによくしてもらっています。霜北奏です」

 奏くんは柚乃のテンションに合わせてお辞儀をしてくれた。二人が頭を下げている光景が微笑ましくて思わず笑うと、二人は不思議そうにこちらを振り向いた。

「柚乃も今学校終わったんだ」

「うん! 今から沙希ちゃんの家に行くところ!」

「そっか。気をつけてね」

「うん! バイバイ!」

 柚乃はランドセルを揺らしながら無邪気に手を振りながら走って行った。

「良い子だね」

「うん、柚乃は本当に素直なんだ」

「なんか、あの子と一緒にいる時の鶴見さんがいつもより大人に見えて新鮮だった」

「え、そうかな?」

 そんな自覚はなかったけれど、奏くんにそう言われて悪い気はしなかった。

 私と奏くんは例の丘に向かった。幸いベンチは空いていたから、私と奏くんは隣り合って座った。それから辺りが暗くなるまでの間、いつも通りの他愛のない話をしていた。すると、あるタイミングで奏くんがこんなことを言った。

「そういえば、今日は満月だね」

 奏くんの言葉で、私は夜空を見上げた。

「……7月3日。やぎ座の満月。新月になるのは7月18日」

「詳しいね」

「調べたから」

「へぇ、鶴見さんって星が好きなんだ」

 奏くんが感心したように言った。

 私は緊張しながら奏くんの手に自分の手を重ねた。

「……鶴見さん、どうしたの?」

「あのさ、奏くん。この町に月島神社があるでしょ?」

「え? あぁ、うん。それがどうかしたの?」

「月島神社のジンクス、聞いたことある?」

「……たしか、満月の夜に死者の復活を願うと本当に死者が蘇る……だったかな」

「うん、そう。今日って、満月だよね」

「……もしかして」

 奏くんが驚いた様子で私の方を見てきた。

「私ね、去年亡くなったお母さんにもう一度会いたいってずっと思ってた。東京にいた時、お母さんと喧嘩したまま学校に行って、放課後家に戻ったらお母さんが倒れてたんだ」

「え……」

「病院に運ばれたけど、そのまま亡くなったの」

「……そうだったんだ」

「だから、ずっとお母さんと会える方法を探してた。この町に来てからも、ずっと。そしたら、ある日古書店を見つけて、そこで絶版したこの町の歴史がまとめられた本に出会った。それを読んで、私は月島神社のジンクスを知ったんだ」

 奏くんは神妙な表情で私の話を聞いていた。

「ねぇ、奏くん。一緒に、月島神社に行ってくれない?」

 一人で月島神社に行くのが心細かった。こんなお願い、気持ち悪がられることはもちろん理解していた。だからこそ、奏くんにしかお願いできなかった。

「……付き添うくらいしかできないけど、それでもいいの?」

 奏くんの静かな声に私は閉じていた目を開けた。

「一緒に、来てくれるの?」

 私が確認すると、奏くんは頷いてくれた。

「本当に? ありがとう!」

 私は奏くんの手を握った。奏くんは少し顔を赤くしながら頭を掻いた。

 私と奏くんは早速月島神社に向かった。神社までの道は奏くんが知っていたから、案内してもらった。

 街頭の少ない夜道を歩いていると、奏くんが私に訊いてきた。

「月島神社のジンクスは、満月の夜に願う、くらいしか知らないんだけど、他にもあったりするの?」

「えっとね、実は条件が色々あるらしいんだ」

 私は携帯を開いて、メモアプリを起動した。そして、本の内容をまとめたものを奏くんに見せた。


●故人とさよならした日に一番近い満月の夜、故人と最後に顔を合わせた瞬間を思い浮かべると、故人は願った者と最後に顔を合わせた日時から命日まで蘇る →7月3日(月)の満月

●故人が蘇ることのできる期間は、最後に二人が会ってから故人が亡くなるまでに要した時間分 →朝7時頃に喧嘩して家を出てからお母さんが病院で亡くなる21時頃まで(14時間ほど?)

●蘇るのは、最後に故人を目撃した場所 →東京の自宅

●蘇るのは、最後に故人を目撃した時刻 →7月21日(金)の午前7時頃

●故人は健康な状態で蘇る →脳梗塞で倒れたのが無効化される?

●一度故人と再会した者は、二度といかなる故人とも会うことができない


「こんなにも制約があったんだ……」

 奏くんは驚いた様子でそう言った。

「よくその本を見つけたね。地元の人でもきっと知らないよ」

 私は奏くんから携帯を受け取りながら答えた。

「必死だったから」

 私の言葉をどう思ったのか、奏くんは「そっか」と小さく頷いた。

 月島神社は、月島山をのぼって途中の舗装された逸れ道を進むところにあった。事前に携帯のアプリでマップを確認していたけれど、山に入ると電波が届かなくなるから地元の人以外は行くのが難しいと奏くんが教えてくれた。

 月島神社の境内にある参道から逸れた木々の間を縫って進んで行くと、空から見れば木々を縁とした円形の空間が現れた。その円形より一回り小さい池が草原の中央にある。

「綺麗……」

 池の水が夜空を写す鏡になっていた。点々とした星々を周りに従えた大きな満月が池のちょうど中央に浮かんでいる。夜空に浮かぶ満月から伸びた光が段々と円周を大きくして池に浮かぶ満月と繋がっていた。月光は幻想的に揺らめいていて、まるで光のカーテンみたいだった。

「月島神社は昔から、月との繋がりが強いと言われてるらしい」

「うん。本に書いてあった」

「不思議なのは、満月の夜は必ずこの池に光が差し込むこと。一日前でも、一日後でもなく、満月の日に」

 奏くんは無表情のまま満月の光を眺めていた。

「奏くんにはいないの? もう一度、会いたい人」

 口にはしなかったけれど、もちろん、既に亡くなっている人についての質問だった。

 奏くんは一瞬考える素振りを見せたけれど、すぐに首を振った。

「いや、いないかな」

「……そっか。じゃあ、私行くね」

「行くって、どこに?」

 奏くんの疑問に答える前に、ザブン、と音を立てて私は池の中に足を浸けた。

「え、鶴見さん、何してるの?」

 奏くんが慌てたように言った。

「故人のことを思い浮かべる時は、池に差し込んだ光の中に入らないといけないの」

 私がそう言うと、奏くんは肩を竦めた。その様子に笑ってから、私は池の中央、光の水溜まりがある場所に向かった。中央に向かうほど水深が深くなっていった。そして、光の差し込む場所まで来た時には、私の胸元まで水位があった。

 眩しい光の揺らぎの中で、私は夜空に浮かぶ満月を見上げた。そこで、私はお母さんと喧嘩して家を飛び出した時のことを思い浮かべた。何がきっかけで喧嘩になったのかはもう覚えていない。代わりに、もう顔も見たくない、なんて心無い言葉を投げかけたことだけははっきりと覚えていた。もしもお母さんが生き返ったら、真っ先に謝りたかった。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。ふと、奏くんのことを思い出した。ずっと待たせていたことを思い出して、私は急いで池の縁に向かった。

 池から出ると、当たり前だけれど服がずぶ濡れになっていた。

「お疲れ様。大丈夫?」

「うん。見守ってくれてありがとう」

「これくらいどうってことないよ。それより、風邪引いちゃうだろうから早く帰ろう」

「うん」

 私は冷える身体を摩りながら、奏くんに肩を借りて山を下りた。家に帰ってからはすぐにお風呂場に直行してお父さんや柚乃にバレないように服を洗濯機に放り込んだ。しっかりと湯舟に浸かって身体を温めたつもりだったけれど、案の定翌日は熱を出した。数日学校を休んで、久しぶりに学校に顔を出したときには奏くんと顔を合わせて思わず笑ってしまった。

 それから、夏休みに入るまでの時間経過は早かった。

 夏休み初日は7月19日だった。東京に出発するのは7月20日の早朝で、お母さんの命日は7月21日だった。

 7月19日の夜、私はお父さんに許可をもらって友達の家に泊まりに行くと嘘を吐いた。朝5時の出発だから、それまでに帰ってくると約束していた。

 私はいつもの丘の上にあるベンチに、奏くんと並んで腰かけていた。いつもみたいに話したり、いつもみたいに途中でのんびり夜空を見上げたり、いつも通りを心掛けた。それでも、突然襲ってくる信じられないくらい寂しくなる気持ちを抑えるために、私は時折自分の胸元を撫でた。奏くんはどういう気持ちなのだろう。私と同じように寂しいと思ってくれているのだろうか。

 辺りは真っ暗だった。街頭の明かりも心許ない。この丘で深夜を経験するのは初めてのことだった。

「今日はごめんね。付き合ってもらって」

「ううん。僕も鶴見さんと話したいから」

「……ありがとう。でも、日を跨いで外出するなんてよく許してくれたね」

「元々、うちは放任主義だから」

「え、そうなの?」

「うん」

 頷く奏くんの横顔に陰が落ちているように見えた。

「あんまり干渉してこないんだね」

「うん。これ、鶴見さんにだから言うんだけど」

 奏くんは横目で私を見た後、どこか遠くを眺めながら言った。

「僕、家族に思い入れがないんだ」

「……え」

「お父さんは、僕が物心つく前に別のパートナーをつくって家を出てるから顔も覚えてないし、お母さんはお父さんがいなくなった反動で自暴自棄になって、それ以来僕に必要なこと以外話しかけてこなくなった。いつも起きたらテーブルに千円札が二枚置かれてあるんだ。これで、自分の分の食事を揃えろって」

 奏くんの家がそんなことになっていることを初めて知って、私は思わず両手で口を覆った。奏くんは私に申し訳なさそうな顔をした。

「ごめんね。せっかく、鶴見さんにとって家族は綺麗なものなのに」

「どうして、謝るの? 謝らなくていいよ。ごめん、私、奏くんの事情を知らずにお母さんの話なんてしちゃって」

 涙が溢れてきて、声が震えた。すると、奏くんが突然抱きしめてきた。

「鶴見さんは何も悪くないよ。鶴見さんには、お母さんにもう一度会ってほしい。僕にとって鶴見さんは、思い入れのある人だから。鶴見さんには、笑っていてほしい」

 奏くんの手が、私の肩と後頭部を強く温めてくる。奏くんの匂いをこんなに近くで感じるのは初めてだった。思っていたよりもずっと男の子の匂いだった。

「ありがとう」

 私がそう言うと、奏くんは私を離した。目が合うと、奏くんは私に微笑みかけた。

「離さなくていいのに」

 私が頬を膨らませながら言うと、奏くんは「これは失礼」と笑いながら頭を掻いた。私は奏くんの肩に頭をのせて、ぴったりとくっついた。そうしたまま、私たちは夜を明かした。

 夏の日の出は早かった。太陽の光が丘の草原をつたって波紋のように広がった。ベンチから立ち上がって草原を踏みしめると、朝露で湿って滑りやすくなった感覚が靴越しに伝わってきた。

 私は思い切り伸びをしながら、精一杯の笑顔で奏くんの方を振り返った。

「それじゃあ、ここでお別れだね」

「……うん」

「奏くんのおかげで、かけがえのない四ヶ月を過ごすことができた」

 奏くんは眉尻を少し下げて頷いた。

「短い間だったけど、仲良くしてくれて、ありが……」

 限界だった。私は奏くんに背を向けて、とめどなく溢れ出してくる涙を勢いよく拭ってから振り返った。

「ありがとね。奏くん」

 奏くんは困ったように笑いながら頷いた。

「うん、こちらこそ、楽しかったよ。元気でね」

「また、会いに来るね」

 私はそう言い残して、泣き顔を見られないように思いっきり丘を駆けだした。

 また奏くんの顔を見てしまったら未練が残ってしまいそうで、余計に名残惜しくなってしまいそうで、怖かった。

 私は勢いを落とすことなく、自分の家に向かった。家の前には、既にお父さんの車が停まっていて、眠る柚乃を背負いながらお父さんが家から出て来ていた。私は息を切らしながら膝に手をついてその様子を見ていた。すると、お父さんと目が合った。お父さんは目を細めながら私に言った。

「日代、さよならは済んだのかい」

 お父さんの言葉に、私は声を出す代わりに頷いた。今声を出してしまえば、感情と一緒に涙が止まらなくなると自分で分かっていた。

 お父さんが柚乃を後部座席に乗せた。私は無言で助手席に乗り込んだ。

「それじゃあ、出発するよ」

 運転席に乗り込んだお父さんが、確認するように私に言った。

「うん、お願い」

 私は自分の背中を押すつもりで、力強く答えた。エンジン音を響かせながら、車が動き出した。私は慌てて後ろを振り返った。後部座席の窓ガラス越しで遠ざかっていく景色を眺めた。奏くんは携帯を持っていないから、今までみたいに話すことはもうできない。奏くんから住所は教えてもらっているから、東京に行ったら手紙を出そう。

「また、会いに来るね」

 奏くんに言い残したのと同じ言葉を、もう一度呟いてみた。

 次に奏くんと会った時には、お母さんと会えた時の土産話をしようと心に誓った。


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