気になるなら、花束を添えて
(この方、本当にヨハン様なの……?)
ロウ伯爵家の次女、十八歳のコルネーリアは、自身の婚約者であるヨハンに疑いの目を向けている。
現在二人は美術館を訪問して、カフェで足を休ませているところだ。
彼は、彼を紹介してくれた叔父の言ったとおりの外見をしている。グレーみのある癖のない茶髪に青い瞳。几帳面そうな、キリッとした顔つきで、美しい人だ。
コルネーリアは、本日婚約者と初めて顔を合わせるため、その瞳の色に合わせて青い宝石を身につけてきた。しかし、想像していたより実際の瞳の色は冷たい。青空よりももっと深い青。
コルネーリア自身は、ラズベリー色の髪に、春の若葉のような明るいグリーンの瞳を持つ。「春の妖精のように可愛らしい」という賞賛の言葉を向けられると引き攣ったような笑顔になってしまう彼女だが、今日、今まで手紙でしかやりとりしていなかった婚約者と顔を合わせるにあたっては、人から好ましく思われやすい自分の外見に感謝していていた。
精一杯おめかしして、母譲りの外見の長所を活かそうと準備したのだ。
しかし、その彼女のドレスも、宝石も、彼は一言たりとも褒めない。
それどころか、まともに会話をしようとしない上、笑顔がない。
手紙の印象とはまるで別人である。
コルネーリアの実家は、王都から離れた北の領地を治めている。宮廷で外交官として働く叔父が、第三王子の補佐をしているヨハンを結婚相手として紹介してくれた。少し忙しすぎるかもしれないが、信頼できるいい青年だと。年齢は、コルネーリアより五つ上。
当時十七歳のコルネーリアには、近場に心を寄せる男性もいなかった。叔父がくれた縁を前向きに検討したいと父に告げ、しばらく手紙のやりとりをすることになった。
そして、手紙をやり取りするうちに、ヨハンのことを好きになったのだ。
最初は話題がないので、簡単な自己紹介から。便箋一枚を埋めるのにも苦労した。
兄弟のことや、趣味の話。そしてあまり特徴のない父の領地の話もした。
ヨハンの父親の領地はコルネーリアの領地と近しい気候である。彼は十三歳から寄宿学校に入って、卒業してからそのまま王都にいたらしい。第三王子と縁があるのはその寄宿学校で仲良くなったことがきっかけで、実は王都のような騒がしい場所よりも、実家のような落ち着いた場所の方が好き。
だからコルネーリアが、特別ではない日々の様子を聞かせてくれると懐かしく感じるのだと。
丁寧な文字で綴られた手紙は、彼女の宝物だ。
一つ一つの些細な話題に関心を寄せ、誠実に関係を築こうとしてくれる彼を素敵だなと思うようになった。
周りの人について語る言葉が温かく、時にはユーモラスで、出会ったこともないのに笑顔が素敵な優しい男性だと思い込んでいた。
しかし実際の彼は、無表情で、無口である。
手紙でしかやり取りしていなかったコルネーリアに、「正式に婚約を申し込みたいから、会いたい」と言ってくれたのに、顔を合わせても嬉しそうではないし、「会えて嬉しい」という彼女の言葉に頷きもしない。
(手紙の印象と、本人が少し違うのは、まぁ、仕方ないかもしれないわね……そういう人もいるわよ)
実際に会うとなったとき、ヨハンは領地を訪れようと言ってくれたが、コルネーリアが彼の仕事に配慮して、そして王都を訪れてみたくて、一週間滞在を予定している。
その間に交流を深められるようにと、母や姉に様々なアドバイスをもらってきた。
その案をいくつか試してみたが、なんの効果もなさそうである。
最初は彼が緊張しているだけだと言い聞かせていた。しかし、彼は無表情なだけで躊躇いもなく手を差し出してエスコートする。美術館で人混みに紛れそうになった時には、強く腰を引き寄せて抱きしめられた。そのことに一切顔色が変わらず、照れているようには見えなかった。
美術館でうるさく会話しないのは当たり前だが、移動中も、カフェに入ってからも、口を開こうとしない。
つまり、照れや緊張からくる無表情ではなく、普段からこういう人なのだ。
勝手に手紙の印象から人柄を決めつけて、楽しくおしゃべりする時間を想像していて、勝手に失望している。彼は手紙の中で一度も、自分がおしゃべりだとは言っていなかった。
今日はコルネーリアの両親、及び叔父と一緒に彼の王都の屋敷を訪問して、夕餉をともにすることになっている。その時正式に結婚を進めようという話になるはずだ。
心をときめかせて準備していたのに、今はそれが待ち遠しいと思えない。
コルネーリアは彼の前でため息をつかないようにするのに必死だ。
顔をあげると、彼が自分を見ているのが分かる。
チョコレートでコーティングされたケーキは彼の好物のはずだが、あまり手をつけていない。
「ヨハン様」
「ああ」
名前を呼ぶと、返事をする。
(署名の名前は、少なくとも本人の名前なのよね……当たり前か)
「どうした」
「いえ、なんでも……せっかくお会いできたので、意味もなくお名前を呼びたくなってしまうんです」
コルネーリアが冗談めかして笑うのにも、ヨハンは無反応である。
一人恥ずかしくなって頬が熱くなる。コルネーリアは彼から視線を外して、こっそりため息をついた。
***
コルネーリアへ
早速返事をありがとう。前回は少し長く書きすぎたのではないかと思って、手紙を出してから反省していたところだ。また君のサインが入った手紙が届いて心から安心した。
いつか君のピアノを実際に聴く機会があるだろうか。ぜひお願いしたい。私は音楽には疎くて、ピアノには触ったこともない。しかし君の話を聞いて一つ思い出したことがある。ちょっとした怪談とも言えそうな話だ。暑くなってきたから、涼しさを感じてもらえるように書いてみよう(もしこういった話が苦手な場合は、この最初の便箋は千切って捨ててほしい)。
あれは私が寄宿学校の三年生だった頃、旧校舎を建て替える前の話だ――
***
コルネーリアは、宿泊している叔父の屋敷の一室で、ヨハンから届いた手紙を読み返していた。
蒸し暑い夏に、背中をひやりとさせるような怪談話。誰もいない旧校舎でピアノの音が聞こえるという王道の話で、正体は猫だった。
しかし、寮でその猫を保護して数週間後、もう聞こえないはずのピアノの音が夜に響いて、まだその理由が分からない。
そんな彼の話を横流しして、コルネーリアが自分の弟に話したところ、入学を楽しみにしていた彼が学校を怖がるようになってしまった。コルネーリアは父に怒られた。慌ててヨハンに学校での楽しい話も聞かせてほしいと頼んで、彼の思い出話をたくさん書いてもらった。
彼には友人も多くて、明るい学生生活だと想像できた。
(いくら無口だからって、手紙でこれほど話題が尽きない方が、実際は全く話さないなんてことあるのかしら?)
実物を見て、コルネーリアはヨハンが偽物だったらいいのにと願ってしまう自分の心を嘲笑する。
ちょっと無口で理想と違うなんて理由で結婚を断ることは難しいだろう。
なにしろ手紙で、「結婚する日を楽しみにしている」と伝えてしまっている。それはお互いに、だ。
ヨハンも、確かにコルネーリアを妻に迎えるのを楽しみにしていると書いていた。コルネーリアは過去の手紙をさかのぼり、二ヶ月前に受け取ったものに間違いなくそう書いてあることを確認した。
今日の彼は、楽しみだという言葉どころか、笑顔も見せてくれなかったが。
扉をノックする音がする。
「お嬢様、お着替えの時間です」
夕餉の前に正装する必要が必要がある。メイドの呼びかけに、コルネーリアは頷く。
はぁ、と重たい息が漏れるのを、彼女の前では隠すことができなかった。
夕飯の席には両親、叔父、叔父の妻と息子夫婦、娘が参加する。彼の屋敷は王都の落ち着いた丘の上にあり、雑踏から少し離れた貴族用の居住地区にある。
「やぁ、ヨハン。昼ぶりだな。招待してくれてありがとう」
朗らかな叔父の挨拶に対して、ヨハンは頷いて握手した。
「お待ちしていました。こちらへ」
ヨハンはコルネーリアの叔父たちを使用人に任せると、彼女に手を差し出した。
その手を取るであろうことを微塵も疑わない様子である。
フォーマルなジャケットに袖を通した彼の姿は、昼間より煌びやか。コルネーリアも当然場にふさわしいドレスを身に纏っている。
コルネーリアは彼の手に、自分の手を重ねた。
(このドレスをどう思うか聞いてみたら、褒めてくれるのかしら)
残念ながらそれを口にする前に、彼はコルネーリアからすっと視線を逸らして足を進めてしまう。
足の長さが違うので、彼の速さに合わせるのは少し大変なのだが、それにも気づいてくれないらしい。
「あの、ヨハン様……」
ヨハンがぴたりと足を止めた。
背の高い彼に冷たい目で見られると、口が動かなくなってしまう。
「今日は、その、お招きくださりありがとうございます」
「ああ」
ヨハンは頷いて、すぐ顔を逸らした。
歩く速さを調整してほしいと伝えられなかったが、幸いにも広間はすぐそこだ。
ヨハンと夕飯をともにしても、彼の印象はあまり変わらない。
無口、無表情で、人との会話を積極的に楽しむタイプではない。
結婚の話は当然の如く具体的に進むこととなり、母が張り切って取り仕切っていた。
食事をして、彼に見送られて屋敷の外に出る。
ふと振り返って目に入った窓の向こうに、コルネーリアに馴染み深いものが目に入った。ピアノだ。
じっとそこを見ていると、ヨハンが彼女の前に立ち、視界が遮られてしまう。
「忘れ物でもしたのか?」
「え? いえ……その」
彼の肩越しにもう一度部屋をみようとしたのだが、もうカーテンが締め切られてしまっている。
(ヨハン様は、ピアノを触ったこともないと言っていたけれど、なぜお屋敷にグランドピアノが……?)
「コルネーリア、どうしたの?」
母に呼ばれて、コルネーリアは慌てて返事をした。
「今行くわ!」
そしてすぐに、ヨハンに呼びかける。
「ヨハン様、その……わ、私、明日も貴方に会いたいです! お仕事の前に、少しお散歩をするだけでも。だめですか?」
ヨハンは青い目を軽く見開く。
「朝ならば、時間は融通できると思うが……」
「それなら、明日の朝、中央広場で待ち合わせましょう。私、一週間こちらにいるんです。毎日会ってくれませんか?」
「毎日?」
「嫌ですか?」
「いや、……大丈夫だ。分かった」
コルネーリアは軽く拳を握った。
(本当に手紙を書いていたのが本人か確かめなきゃ。モヤモヤしたまま結婚なんて嫌だもの)
コルネーリアは笑顔で挨拶する。
「嬉しい。では、また明日。楽しみにしていますね」
ヨハンは無表情で、黙ったまま頷いた。
*
翌朝から、二日連続でコルネーリアはヨハンとともに公園を一周した。
彼と過ごす時間は話題が尽きないとは言えないが、コルネーリアがさりげなく手紙で書いたことを話題に出した時の返しからは手紙の内容を把握していることは伝わってくる。
(本当に、単純に喋るのだけ苦手ってこと……? じゃあ、しょうがないわね)
三日間、一緒に過ごしてみた。彼は無口で無表情だが、それ以外おかしなところはない。
コルネーリアは婚約者が想像と少し違うところを受け入れることにした。
歩幅の違いについては、指摘すれば気をつけてくれる。
一言は短いけれど、コルネーリアが質問すれば答えてくれる。
もうしばらく一緒に過ごせば、きっと彼の接し方にも慣れるはず。そう思いながら朝の散歩に出かける。
「毎日同じ公園では退屈ではないか?」
四日目の朝、同じ時間、同じ場所で集合した。いつもなら彼が差し出してくれる腕は、ヨハンの身体の横に真っ直ぐ添えられたままである。
「そんなことはありませんけれど」
コルネーリアの目的はヨハンが本当に手紙を書いていたか確認することだ。完全に納得したわけではないが、一応その目的は果たしたといえる。
「私にとっては、王都の公園は目新しいですが、ヨハン様にとっては違いますものね……わかりました。朝の散歩は今日までにいたしましょう」
「いや、そういう意味ではなく……! どこか別の場所を案内しようかと」
「別の場所ですか。例えばどちらへ?」
「マーシーズのインク屋は……」
王都で一番有名なインクの専門店である。コルネーリアはヨハンの様子を上目遣いで窺った。
「お仕事はよろしいのですか? 開店する頃には、出仕のお時間になっているのではないかと」
「……では、アルデンウッドの教会は?」
「アルデンウッド」
コルネーリアはヨハンの呟いた教会の場所を頭に思い描いた。手紙にも登場したことがある地名だ。コルネーリアの知識が正しければ、馬車に乗って出かける必要があり、気軽に散歩して戻ることができる距離ではないはず。
それを、王都にいるヨハンが知らないはずはない。
「興味はありますが、行って戻ってくる頃には、昼を過ぎていませんか……?」
ヨハンは軽く眉を寄せた。
少し視線を下げ、考え込むように黙っている。青い瞳が真っ直ぐコルネーリアを捉える。
「ああ。だが、早朝に出れば間に合う」
コルネーリアは何度か瞬きした。
ヨハンは真面目に提案をしているようだ。
彼は、お互い日の出前に起きて、隣町の教会に行こうと言うのだ。仕度に時間がかかるのはコルネーリアのほうだが、ヨハンも仕事の前にわざわざ何時間も早起きしようとしている。
そしてその提案を、コルネーリアが了承すると思っている。
彼女は思わず声を出して笑って、頷いた。
「そうしましょう! 日の出前に起きるのは得意ですから、任せてください」
*
五日目の朝、コルネーリアは宣言どおりに日の出前に起きて出かける準備をした。薄暗いうちにヨハンが馬車で迎えに来て、侍女を連れて王都から離れた街に向かう。
アルデンウッドの教会は丘の上にあるこぢんまりとした教会である。
季節の花が咲く素朴な庭に囲まれた古い建物だ。王都にある荘厳な雰囲気の教会と比較すると華やかさはないものの、大きな窓から青いステンドグラスを通して光が差し込み、壁や床は深い青色に見える。
コルネーリアはまだ見たことのない、海を想像させるような場所。
「海はこんな感じなのですか?」
「そうだな。ここは少し暗い気もするが……いつか一緒に見にいこう」
彼の声は柔らかい。ヨハンの表情は変わらないが、それでも目元は和らいでいると思い込むことにした。
彼にとって一緒にいる未来は確定で、当たり前のようだ。そのことでコルネーリアの体温が上がる。
とくとくと脈打つ心臓を落ち着かせるように深く呼吸してから、彼の隣に一歩近づいて、寄り添うように立った。
「私、結婚式をここであげたいです。お母様が許してくださるかしら」
「由緒ある教会だ。説得材料はある」
「神官様はお若くて顔がいいですか?」
「……穏やかで経験豊富な方だ」
ヨハンはしばらく黙った。やがてぽつりと呟く。
「弟に神官のふりをしてもらうか」
「親族になるのに? 一生神官のふりをすることになりますよ!」
*
アルデンウッドから、コルネーリアが滞在している屋敷に戻ったとき、庭の前には一台の馬車から男性が降りてきたところだった。
金色に近い明るいベージュの髪をした背の高い男性だ。
コルネーリアは、ヨハンに手を引かれて馬車を降りる。ちょうどその男性が振り向いた。青空のような青い瞳が、コルネーリアと目が合うとぱっと輝く。
「義姉さん⁉︎」
「ディーン、コルネーリア嬢だ」
嗜めるようなヨハンの声に、ディーンと呼ばれた男性は笑って応えた。二人いるヨハンの弟のうち、五つ年下の弟の名前がディーンであると聞いていた。
「初めまして。ディーン・ルースです。やっとお会いできて本当に嬉しいです!」
「初めまして」
戸惑いつつも、差し出された手を取ると、ディーンは力強くその手を握る。ヨハンが”若くて顔がいい”神官のふりをさせると言ったのはきっと彼のことだろうと想像する。端麗な顔立ちをしている。しかしそれよりも明るく花やぐような表情が、つい人に目を向けさせてしまうという印象の青年だ。
「ディーン、なぜお前がここに?」
「将来の義両親へのご挨拶。っていうのは嘘で、ロナルド様にテニスに誘われている。兄さんも来る?」
コルネーリアは叔父の名前に反応した。
ヨハンは首を横に振る。
「今から宮廷だ」
「殿下も誘ったら?」
「ばかいうな」
「残念。殿下は誘ったら来てくださると思うけどね」
「ああ、だから声をかけられないんだ」
「新しい技術で作られた飛んでもなく跳ねるゴムボールを持ってきたんだ。王宮御用達にしたいとおっしゃるかもしれない。本当に信じられないほど跳ねるんだよ! 馬より高く跳ねる。見る?」
「見ない。早く挨拶して……」
ディーンはヨハンを無視し、カバンから白っぽいボールを取り出して、地面に向かって投げつけた。
ヨハンの頭より高く跳ねたそのボールは、ヨハンは無表情のまま掴んで、ため息とともにディーンの手に戻す。
「よく跳ねるのは分かった」
「だろ?」
ディーンは誇らしげに笑う。
ヨハンは小さくため息をついてから、コルネーリアに目を向ける。
「すまない。ロナルド様に一緒にご挨拶いただいてもいいだろうか?」
「え、ええ」
コルネーリアは反射のように頷いた。
*
ディーンの知り合いの妹も一緒に来るから、よければ話し相手に。
そんな理由でコルネーリアもテニスをするためにコートに行くことになった。ディーンと、かなり年上に見える彼の友人、その妹二人、そしてコルネーリアの叔父のロナルド。
不思議な組み合わせだが、知り合いの知り合いという繋がりができて意気投合したらしい。
ひと試合を終えて、ディーンが駆け込むように日陰にやってきた。
「はぁ、暑いな!」
「叔父様ってすごく強いのね」
「ああ、うん。ロナルド様は腰が痛いとか言って老人のふりをしてくるけど、容赦ないんだよ。まだ一度も勝てたことがなくて。コルネーリア様、何か弱点を知らない?」
「叔母様じゃないかしら。叔母様を連れてきたら、かっこつけたくて手が滑るかも」
「試してみる価値はあるな。今度誘ってみよう」
ディーンが、彼の友人と次の試合を始めた叔父に目を向ける。
青空のような瞳が、パッとコルネーリアに向いた。
「暑すぎて干からびそうだ。あっちでレモネードを用意してもらってるからもらってくるね」
コルネーリアが返事をする前に、ディーンは走って使用人のいるところまで向かう。そしてまた走ってきた。暑い暑いと言いながらも走って行って戻ってくる様子がおかしくて、つい笑ってしまう。
「走ったらもっと暑くなるじゃない」
「もちろんだよ。そのほうがレモネードが美味しくなる。コルネーリア様も走ってくる?」
「結構よ」
コルネーリアは、ディーンからレモネードを受け取った。
ハチミツとレモン果汁を、水で割った爽やかな飲み物。普段コルネーリアは甘いものを飲まないが、断るほど嫌いなわけではないので、そのまま口をつけた。
*
その日の夜。
コルネーリアはぼんやりソファに座って、天井を眺めていた。
(甘くなかったわ)
ディーンが用意したレモネードは、ハチミツが入っていなかった。
その後、彼の友人の妹たちが飲んでいたレモネードの色や、使用人が準備していたバスケットの中を見て、ハチミツがあることを確認している。
叔父が甘くて美味しいと言っているのも聞いた。
(わざわざ私のものだけハチミツを抜いて準備したってことよね)
ちょっとした会話の往復の速さや、おしゃべり好きで明るく友人の多い性格。気軽に会話しやすい雰囲気で、笑顔で、空色の瞳。
手紙から想像していた”ヨハン”の人柄により近しいのは、弟のディーンのほう。
コルネーリアは、ヨハンから届いた手紙のいくつかを取り出した。
その中を確認していくと、好きな飲み物の話が出てくる。
コルネーリアは、甘いものは好きだけれど、飲み物は甘くないほうが好みだ。甘いもの好きであると言うと、いつもレモネードにたっぷりハチミツを入れられてしまうのだけど、レモネードはハチミツなしでレモン果汁と塩が効いたさっぱりしたものが好きだと書いた。
ヨハンが、ディーンに口頭でコルネーリアの好みを伝えただけかもしれない。
だが、彼女との二人の間の手紙のやりとりを、もしかしたら弟に見せていたのかもしれないと思うと、モヤモヤとした不満がコルネーリアの胸の中に湧き上がる。
それにもう一つ疑うとしたら、忙しいヨハンが弟に手紙を代筆させていたのではないか、という可能性。そんな人だとは思わなかったけれど、手紙と実物の印象が違うせいで疑ってしまう。
コルネーリアはベッドに仰向けになってから枕を抱きしめて、そのままベッドの上を転がった。
ヨハンの顔と、ディーンの顔を順番に思い浮かべる。
二人は似ていない。
手紙でちゃんと縁を深めてきたと思ったのに、コルネーリアは手紙の中身をどちらが書いていたのか、確証を持つことができない。
そのことが今までのやりとりの浅さを示している気がして、ますます気持ちが重くなる。
手紙を通して彼を好きだと思った気持ちさえ偽物になったような気分だ。
(明日、聞いてみようかしら)
*
六日目の朝、コルネーリアはいつもの公園でヨハンと待ち合わせた。
「昨日は結局君もテニスに出かけたんだな」
「ええ。久しぶりに身体を動かして楽しく過ごしました」
「そうか」
(もう! 他に言うことはないのかしら。楽しめたならよかった、とか、次は一緒にテニスをしようとか!)
コルネーリアは不満げにヨハンを見つめた。
「どうした?」
「いえ、ええと……明日、もう帰ることになるので、寂しいなと思いまして」
ヨハンは意外そうに瞬きをした。
一方通行な気持ちを自覚して、コルネーリアの頬がさっと赤くなる。思えば初日から、ヨハンとコルネーリアの態度には温度差があった。
会えて嬉しいと微笑むのはコルネーリアだけで、毎日会おうと言ったのも彼女が提案したからだ。そうでなければ、最初に食事をする以外、決まった予定はなかった。
「コルネーリア、明日、帰宅する前に私の屋敷に寄ってほしい」
「お屋敷ですか。時間はまたこのお時間に?」
「ああ。昼ぐらいまでならいつでも構わない」
「分かりました」
その日はタイミングがつかめなくて、コルネーリアは、今までの手紙を書いた人は本当に貴方なのですか、とは聞けなかった。
馬車に乗り込む時に、いつもならすぐ離れる手が、今日は少しだけ長く彼女の指を掴む。
コルネーリアは不思議そうにヨハンを見つめた。
表情の変わらない彼の眉が、ほんの少し下がったように見える。彼は彼女の手を軽く握ると、その指先に唇を寄せた。
扉はすぐに閉まってしまう。
コルネーリアは混乱して、呆然と閉じた扉を見つめた。
*
そわそわ落ち着かない気持ちで1日過ごし、最終日にコルネーリアが用意したのはいつもの便箋と、お気に入りのインク瓶。
母と一緒にヨハンの屋敷を訪れた。
最後に二人でゆっくり話せるようにという配慮を受けて、ヨハンと向き合う。
「ヨハン様、ご挨拶の前に一つお願いがあります」
ヨハンが首を傾げる。
コルネーリアは持ってきた便箋とインクを彼に手渡した。
「こちらは、私のお気に入りのインクなんです。貴方の名前を書いてくださいませんか?」
「名前を?」
「いつも丁寧に書かれている貴方の文字が好きなんです。このインクで書いた貴方の名前を、次に会える日まで持っていたくて」
何度も見た筆跡は、一目見れば彼のものかどうかは分かる。
コルネーリアは緊張を誤魔化すように微笑んだ。
「分かった」
ヨハンはデスクの上にその便箋とインクを大切そうに置いた。
ペンを握って、しばらくすると振り返る。
「その、見られていると緊張してうまく書けない。少し後ろを向いていてくれないか」
「はい」
コルネーリアは後ろを振り向いた。
ペンの走る音がいつまでもしないので、ちらりと自分の肩越しに振り返る。
彼の手がデスクの上に一枚紙を広げるのが見える。そこに彼自身の名前が書かれているようだ。それを見ながら、コルネーリアのお気に入りの青色のインクで、真新しい便箋にゆっくり丁寧に名前が書かれていく。
ヨハンは二つの紙を見比べると、一枚を小さく折って自身のポケットにしまった。
もう一枚のコルネーリアが用意した便箋を持ち上げて、眺め、ゆっくり振り返る。
「……!」
彼は慌てた様子で椅子から立ちあがった。
「どうした!」
コルネーリアの視界が滲んで、ヨハンの表情がよく見えない。
「い、今、何か見ながらサインをしたでしょう……!」
「え? あ、ああ……書類を見ていた。緊張してしまって、普段自分の名をどう書いていたか思い出せなかったんだ」
「本当ですか?」
ヨハンはゆっくり頷く。
「本当の、本当に?」
「それ以外何があるんだ」
「いつもお手紙を誰かに代筆してもらってたんじゃないんですか⁉︎」
「何? まさか。なぜそんなふうに思うんだ」
「だって、手紙はすごく長くて、いつもたくさんお話してくださるのに……本物のヨハン様は、全然喋らないし……!」
コルネーリアの目から涙が溢れた。
「会いたかったって言ってくれないし! おしゃれしたのに褒めてくれないし! ピアノは触ったことないって言ってたくせにお屋敷にピアノまであるんだもの、嘘つきだわ!」
「えっ? ああ、それは、まぁ、そうだが、ちょっと待った、落ち着いてくれ……」
「今のどこが『そう』なんですか! やっぱりディーンに代筆させてたのね⁉︎」
「違う! 待った、本当に落ち着いて……泣かないでくれ」
ヨハンはしばらく戸惑った様子でコルネーリアを見ていたが、そのうち彼女の背中に手を回してとんとんと慰めるように撫でた。
コルネーリアの目からまた涙が出てくる。
「ちゃんと抱きしめてください!」
「え? あ、ああ、分かった」
彼の腕に力が籠ると、コルネーリアはようやく満足して目を閉じた。
*
しばらく泣いて、落ち着くと、二人で並んでソファに腰掛ける。
「じゃあ、本当に代筆はしてないんですね?」
「してない」
「なぜディーンは手紙の内容を知っていたんですか?」
「内容とは?」
「私が甘い飲み物が好きじゃないと知っていたみたいです」
ヨハンは、「あー……」と呟いた。
「それは、その、手紙を見せてみろと言われたことがあって」
「二人の手紙なのに!」
「分かってる。一度無理に奪われたときだけだ」
「全く、婚約中の二人の手紙を奪うだなんて。なんでそんなこと!」
ヨハンの視線が気まずそうに下がった。
「それは、その、私の手紙が分厚すぎるから、校正するといい出して」
「校正?」
「鈍器を送る気か、と……」
「鈍器」
コルネーリアは彼の言葉をそのまま繰り返した。
「そんなにたくさん書くことがあるんですか」
ヨハンが頷く。
「君に送る前に毎回半分にしている」
「半分! 今度からそのまま送ってください。見てみたいわ」
「鈍器を?」
「ええ、貴方から届くものならなんでもいいんです! 毎回楽しみだもの」
ヨハンは黙ってコルネーリアを見つめる。
「ヨハン様……黙って無表情で見つめられると、不安になってしまうのですが」
「すまない」
ヨハンは自分の頬に手を当てた。そして頬をつまんで離す。
「怒っているわけじゃないんですよね?」
「怒ってはいない」
「少しでもいいから何を考えているか教えてほしいです」
「ああ。努力する。考えながら喋るのが苦手なんだ。少し時間がいる」
「そうなんですか。手紙ほど饒舌じゃなくていいですけれど……書くほうが楽なら書いてもいいですよ?」
コルネーリアは立ち上がって、デスクから便箋とインク、ペンを持ってきた。それをヨハンに渡す。
ヨハンはそれを受け取らず、しばらく目を瞑っていた。
やがて、青い瞳と目が合う。彼はコルネーリアの手を引いた。
「大丈夫だ。表情が固くなるのは、君の言うことが毎回可愛くて、こうして抱きしめたくなるのを我慢しているのが理由だ」
彼女の口から短い悲鳴が上がる。
それから彼は、グランドピアノが家にあるのは、もう結婚するつもりでコルネーリアが好きな工房のピアノを先に作ってしまったのだと告げた。
気持ちが先走りすぎて気味が悪いと思われる可能性があるから、結婚するまで絶対言うな、という弟のありがたい忠告があったことも一緒に。