ピアス
生きながらえた。とにかく、そう思った。タイムカードを切って外に出て、彼女にメッセージを送った瞬間、まだこの世界は、そして俺は、正常なんだと、そんな気がした。
「今から向かうね、っと」
予約したのは少しだけ高級なイタリアン。値段のことを考えるのは野暮だが2人で2万程。つい最近ボーナスも出たから、奮発だ。記念日ぐらいの贅沢は許してくれるだろう。
スマホをポケットにいれて歩き出す。時刻は7時。夜の喧騒に心がなじんでいく。ある種の全能感のような心地よさがあるのはなぜだろうか。思考の際に張り付いた黒いものがうごめいた。
「悪い夢でも見ていたんだ」
向き合うのではなく、割り切ることで、平穏を取り戻そうとする。
先ほどから考えたら自分でも驚くぐらい落ち着いている。割り切れたからではない。この世界があまりに正常すぎるからだ。
タッタッタッ。ゴォォ。ヒュウ。命の音が聞こえる。人は、そう、生きている。
「迷子にならないよう、地図だけは開いとくか」
少し画面の明度を上げた。
マップを開いて、目的地を設定する。なぜか自分が向いている方向と、スマホに表示される方向が60度ぐらいずれているから迷子にならないように気を付けなきゃいけない。最新のスマホのくせに。
路地裏にはいると、一気に回りが闇に包まれる。レストランはこの奥にあるのだ。いわゆる隠れ家系、である。もう、焦りも緊張も恐怖も、暗い思いは、より暗いこの路地に飲み込まれていた。
レストランの前に人影が見える。
「あい!待たせてごめん」
「うらみん~。お仕事おつかれさま!」
アイシャドウ、アイライン、マスカラ。飾られた目元はほんのり赤みを帯びている。おっとりと垂れ下がった目じりと、心を溶かす甘い声。160cm、少し高めの身長にハイヒール。耳にかけられた肩甲骨近くまで伸びたつややかな髪。
「あ、今日はその黄色のワンピースにしたんだ」
「うん!まえ気に入ってくれてたから……どう?」
5cm差の上目遣いにドキリとする。
「太陽みたいだ」
なにそれ?ポエマーだねえ、と少し遠くで聞こえたきがした。マリーゴールドを象ったピアス。少し、向きがずれていた。
そっと直してあげる。
「あ、はずかしい」
照れくさそうに微笑む彼女の手を取る。
「それじゃあ、行こうか」
「たのしみ」
ドアを開ける。
チリンチリン。軽やかな鈴の音が、俺らを運ぶ。いらっしゃいませ。落ち着いた声が奥から聞こえた。
「7時半に予約していた浦見です」
「浦見様ですね。お待ちしておりました。ご案内いたします」
若いウェイターにしたがってついていくと、そこはちょうど店の中心近くにある席だった。真上には大きなシャンデリア。
薄暗い店内だが、ここは明るい。あいの顔もよく見える。
「いい席だね」
「だね~。予約とってくれてありがとう。今日は4年記念日だもんね」
「まあ俺の仕事でちょっとずれちゃったけどね」
「忙しかったから最近。しかたないよ」
「うん。あ、またピアスずれてる」
少し立ち上がって、手を伸ばした。
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