「裏」切者
「ねぇ」
「っひ」
「なにみてるの?」
全く、気づかなかった。人の気配など感じなかった。大きく脈打った心臓のあと、耳鳴り。頭がうまく働かない。必死に今ここにあるすべてを否定しようとする。
「へえ。これ、ばれたらやばいね」
言葉が音になる。揺らされているのが鼓膜か脳かすら分からない、解りたくない。震える喉は声など出せず、かすかな呻き声を絞り出すのみ。
「びっくりだよ。浦見君」
この紙はいったいなんなのか。後ろにいる女はだれなのか。何より、どうして俺は生きているのか。いま何をしたらいいのか。かき回された頭が、視界をゆがめる。
「はぁ、はぁ……。あな、た、は?」
「私?……そうね、振り向いたらいいじゃない。自分の目で確かめたらいいじゃない」
怖い。縮こまった心臓は体を硬直させる。だが、それよりも恐怖が掻き立てる、興味という名の熱が体をゆっくりと、溶かす。
恐る恐る振り向く。視界がずれていく。パラノマ写真を撮るときのようだ。
まだ、見えない。まだ見えない。もう少し、もう少し。もう少しで、見える。
覚悟を決め、最後の最後、勢いをつけ思いっきり後ろを向いた。
女が視界に収まるであろう、その直前。世界がスローモーションになったようで、その長い一瞬の間。
「臆病者」
そう聞こえた。
「あ、え。なんで」
誰もいない。人がいたはずの空気のぬくもりすら消え去って、広い部屋には、俺一人。
「な、なんなんだよ」
恐怖に顔を歪ませながらも、手は、いまするべきことを覚えていた。
ポケットに手を入れ、ライターを手に取る。
震える足を抑えて、洗面所に行き、水を流す。
紙に火をつける。
ほんの少し部屋が明るくなる。
「これで、なんとか、なるのか?」
燃え盛る。一際大きな炎のあと、灰になった。
まだ、部屋は暗い。
「どうしよう。どうしたら……どうしたらいいんだ」
ばれなきゃいい。そう思った。あの女は幽霊だと、そう思うことにした。それが、俺にとって「一番都合がいい」から。だからそうする。何が悪い。生き物なんて、そんなもんだろ。
書類整理を終わったことにして、たった紙一枚に心臓を握りつぶされたように、おれも紙一枚の事実を握りつぶす。そうだ、俺は、悪くない。深呼吸をして、部屋の電気をすべて消して、外に向かった。掃除を済ませたら、彼女とのデートと、2日間の休みだ。
「だから、浦見君、君は死ぬのよ」
誰もいない部屋に1人。声が響いた。
「臆病者の浦見君。『人の生死には無頓着なつもりだった』ね」
部屋は、闇に満ちていた。
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がんの転移の有無を検査していたのですが……転移なし!!!!勝った!!!!