名前も知らない彼
名前も知らない彼と出会ったのは入学式も終わり、友達も出来て高校が楽しいと思い始めた頃の通学中の電車の中だった。
私の乗る時間帯の列車は通勤ラッシュに重なる事もあり、多くの人が利用する。初めはあまりの人の多さに泣きそうにもなったが1ヶ月もあればすっかり慣れてしまった。
今日もホームに軽快な到着メロディを鳴り響かせると同時に、多くの人を乗せた電車が駅に入って来る。通りすぎる車両の窓を見るだけでうんざりとした。
人が多いのには慣れたが満員電車には慣れない。
電車が完全に停車すると列車のドアが開いた。だが乗っている人が降りる様子はない。それも当然だ。都心から離れたこの土地に降りる人も中々居ないだろう。
誰も降りないことを確認するとホームにいた人々が一斉に列車の中へと入っていく。車内には元々多くの人が居たのだが、私達が乗ったことで電車は更に混みあう。
ギューギュー詰めの車内で私は列車のドアの隅に身を寄せる。
はぁ、毎日この満員列車だけは本当に嫌になる。
ホームにいた人々を無理やり乗せた列車が動き出す。カーブや少しの揺れで電車が動く度に体が押されて苦しい。
そんな身動きも取れない車内で私は異変を感じる。
誰かがスカート付近を撫で回すような仕草で触っている。何度も同じところを触る様子は何かの表しに当たったのではなく明らかに故意だ。
ち、痴漢!?
自分が痴漢に合うなんてあり得ないと勝手に決めつけていた私は突然の出来事にその場で固まってしまった。
私が何もしないのを良いことにその手の動きは更にエスカレートしていく。
助けを呼びたいのだが、痴漢をされた恥ずかしさと怖さの感情が入り交じり上手く声が出せない。
「だ、誰か」
列車の車内アナウンスで書き消されてしまいそうな小さな声で呟くと私のスカートを撫でる手が止まった。私は恐る恐る振り向くと一人の男子高校生がサラリーマンの手首を掴んでいた。
「おい、止めろよ」
「ちょ、俺は何もやってない。離せよ!」
「嘘付くなよ。次の駅で駅員に付き出すからな」
そう言うと男子高校生は男を逃がさないように片手で男の体をドアに押し付けた。なにやらただならぬ雰囲気を感じた車内の人々は二人から離れる。
そのまま暫く無言の状態が続き次の駅へと到着した。
「おい、抵抗せずに出ろよ!」
「くそっ!離せよ」
男子高校生とサラリーマンが共に列車から降りる。痴漢の被害者である私もホームに足を付けようとするがそれを男子高校生が止めた。
「ああ、君は降りなくても良いよ」
「え?でも・・・」
「学校があるんだからここは俺に任せな」
そう言って彼が軽く私の体を押すと列車の扉が閉まる。
せっかく助けてもらったのにお礼も言えなかった。明日も同じ電車に乗ることが出来たらお礼を言おう。
そう思って毎日同じ時間帯の同じ車両の電車に乗ったが、それから彼と顔を合わせることはなかった。
1ヶ月、半年、一年。毎日同じ列車に乗るが彼の姿を見ることはない。
彼に会いたいとひたすら思っていたがどこの学校かも分からず、連絡先も知らない彼と繋がる方法はなかった。
年月というものは都合の良いもので痴漢に合った出来事も時間が経つと風化していった。
そうして楽しかった私の高校生活ももう終わりを告げようとしていた時だった。
いつものように電車に乗り込むと目の前に彼がいた。黒い学ランに身を包み、髪の毛は短めのチクチク頭。身長は私より少し高い位で中のシャツを出しているが不思議と彼からはだらしなさを感じなかった。
間違いない。あの時のあの人だ。
私はあの時の男子高校生に気が付いているが彼はスマートフォンを弄っており私の事等全く気付いていない。
声を掛けようか迷っていると後ろから乗り込んでくる人に押されて彼が目の前に居た。
私は緊張しながらも深呼吸をして声を掛ける。
「あ、あの!」
声を掛けられて気が付いた男子高校生は私のことを見ると驚いた顔で指を指した。
「あ、君はあの時の!」
「あなたのお陰で今の私があると思っています。本当にありがとう」
もしもあのときあのまま痴漢に好きなようにされていたらと思うと今でもゾッとする。
「いや、俺は当然のことをしたまでだから」
当然の事と言っても中々あの場面で人のために動ける人は居ない。
「あれから大丈夫だったか?」
「はい。あのとき以来痴漢にはあっていません」
「それなら良かった」
そう言って白い歯を見せた彼は今私の目の前で一緒にご飯を食べている。
「ん?どうした?」
「ううん。昔の懐かしい出来事を思い出していただけ」
「そうか。それよりこのご飯美味しいよ」
「ありがとね、航太君」
そう。あの名前の知らない彼は私の旦那さんになった。