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皆帰妙法

十七


 いったんひるんでいた合羽屋の婆さんは、これに勢いづくとグッと身を進め、乱暴に小燕の手を取ると、

「さあ、早うなさらぬか。さあさあ」

「さっさと見せやがれ、さっさと見せやがれよ」

 と、尾を引くように引っ張って言いながら、姑御は他人から見えないところで小燕の背中を煙管でぐいぐいと押した。そのうえ前からも引かれているので、小燕の身体はするりと前に出ることになった。講中は沈黙して固唾をのんでいる。

 合羽屋は産婆にでもなったように背後(うしろ)に回って、

「ちょいと立って、さあ、ひと思いに、そりゃ」

 と、せっかちに片手をつかみながら胸に手をかけてグッと引きあげたのだが、その手が痛む胸に触れたので、

「あっ」

 と言って、小燕は飛びあがるように立ち上がったが、そのままうつむいてじっとしている。講中の視線が集まった。なかには顔を背けた者もいる。(くだん)の大円髷は横を向いて、(こうがい)でちょっと頭を掻いた。

 合羽屋はいきなり小燕の繻子の帯に手をかけてずるりと引いた。引っかけの結び目が解けた帯は、そのまま落ちて、長く垂れた。小燕はハッと顔を上げたが、さして表情に変化はない。ぼんやりとした目は座中の人々ではなく、なにか別のものを見ているようだった。しばらくは毛一筋動かさないですらりと背筋を伸ばして、石像のように立っていたが、やがて見る見る顔の筋がこわばり、眉がつり上がった。キッと瞳を据えると、黒目がちな眼が流れるように動いて一か所をハタと射た。遙か向こうの隅の(ふすま)を細めに開けて、血相の変わった顔が見えたが、視線を注いだとたんに見えなくなった。

 そこにいたのは風呂係の十蔵(じゅうぞう)だった。彼はもと、寄席に出ていた若者で、灘丸の弟子としてうかれ節の修行をしたが、ものにならなかった。三太郎の弟子として落語の修行をしたが、これもものにならなかった。手品や浪花節、芝居もやり、軽業、義太夫、講釈など、あらゆるものを習ったが一つもうまくいかないで、ただ居候をしてまわり、幕引きと口上だけをやっていた者である。しかし当時の親方も師匠も残らず落ちぶれてしまったので、食うことができなくなってしまったのを、かつて下働きをさせたことがある小燕があわれんで、嫁ぎ先の粂屋の風呂係として、こっそり住みこみで働かせて、小遣いをやっている。この家では人目をはばかって、面と向かって言葉を三つ、四つと重ねたこともないのである。

 だれも気づいてはいないだろう。下男部屋で聞きつけたのか、姉御の窮地だと慌てて駆けつけたらしいのを、すでに気づいていた小燕は目で叱って追い返した。

 十蔵の顔が見えなくなると、小燕はずらりと居並ぶ座中の人々へ視線を注いだ。左右の脇の下から後ろに手を回して、冷たく艶やかな、雪を欺くかのような肌を脇あけにのぞかせながら、両袖を持って、ぐいっと引き上げると肩に掛けて、斜めに合羽屋を見て言った。

「お手を(わずら)わせましたね」

 そして、帯をキュッキュッと二つ、三つ鳴らしてずるりと解き、下締めもたぐってほどいた。衣服(きもの)の裾がぱらりと爪先へ乱れて落ちると、胸もとが露わになった。乳房には包帯が巻かれ、その結び目も見えて、皆は目を見張った。まぶたを赤らめた小燕は、切実な声で言った。

「これで堪忍してくださいな、おばさん」

「え!」と合羽屋がためらったとき、

「さっさと脱がして皆にお見せするのじゃ」

 と姑御が声をかけた。合羽屋は不安げにきょときょとあたりを見回しながら、

「脱ぐのでござるよ」

 と言ったはいいが、この場におよんでひるんだ様子を見せた。女の裸を見ても面白いというわけではないが、これも講のお勤めのひとつだと思えばしかたがない。そう思って包帯に手をかけると、小燕は、鷹揚(おうよう)な、小馬鹿にしたような、呆れたような、つまらないような含みをおびた投げやりな口調で、

「これも脱がすのですか」

 と言った。

 包帯が肩をすべって、手を抜ける。雨が晴れたように白い肌ばかりになった小燕はひれ伏したが、透きとおるような背中から、真っ赤な八つの文字が、ひるがえってこぼれ出た。一文字ずつを拾ってみると、


 一天四海

 皆帰妙法


 と、はっきりと読めたのである。

 三明はちょっと目を上げて、斜めに視線を走らせた。触ると消えてしまいそうな美しい人の背後(うしろ)で、合羽屋は脱がせて手にしたままの着物の(くれない)の裏をひるがえしながら、ぼんやり突っ立っていた。

 素人の女ではないからといって、これは尋常なことではない。早乙女(さおとめ)縫之助(ぬいのすけ)女分(むすめぶん)で、女役者の小燕は刺青(いれずみ)をしていたのである。

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