素袷
八
「なんまみだ、なんまみだ、ふぅ、なんまみだぶ、あいあい左様でござい」
のそのそと姿を現したのは、裾長に着た着物に三尺帯を締め、草履履きのしみったれた姿で、小脇に枯れ枝を抱えた若い男である。裏庭の縁伝いに日当たりを歩いてくると、首を傾け気味にしてつま先を見ながら、不愉快そうな顔をして、
「へん、むだぶつ」
と、大きめの声でつぶやいてしまって、男は我に返った。視線をめぐらせて庭から家のなかを見ると、床の間の脇の袋戸棚の前に、枕を置いて横になって、掻巻もかけないで、しなやかに足をすくめている女の寝姿が目についた。重ねた足の左すねが微かに見え、素肌に着た袷の縹色の裏地が青畳の上に鮮やかに折りかえって、青みをおびた縮緬のその色は、さも冷たげに零れだしていた。
日当たりのよい部屋ではあるが、縁側から半ばまで射しこんだ日足は畳を暖めるばかりで、掛花入れに南天を活けてある床柱は、黒く艶やかに寒そうである。
女の顔はやや仰向いて、きれいな円髷がすこし乱れて頬にかかっている。顔は痩せて見えるが目鼻立ちがはっきりとして鼻筋が通っている。固く口を結んで、顔に一筋の緩みもない様子からして、熟睡しているわけではない。気を張っているのか、心配事があるのか、片手は深くかき合わせた襟もとにしっかりと乗せて、胸のあたりを押さえるようにしながら、もう一方の手は萎えたように下ろしている。我を忘れたように開いたままで垂らしている手のひらは玉のようで、指には黄金の指輪がはまっていた。美しく、おとなしく、うっとりとした色白の寝顔が、傍らの袋戸棚の黄金砂子に映って、薄く青みをおびたさまは凄いほどで、縁側の障子がすこし開いている小座敷の片隅に横たわるその姿は、あざやかに、かつ冷たそうに見受けられた。
若者はじっと見ていたが、何を思ったのか哀しげな表情を浮かべると、小脇に枯れ枝を抱えこんだまま、片手で頬を押さえてうつむいた。
(ああ、よく堪えていなさるなあ。勝ち気な人だから、もう我慢一辺倒だ。ほんとになあ、苦労ばかりしなさらあ。旦那が留守になってからはまた一段と、めっきりお痩せになった。なんとなく顔つきまで変わってしまったようだ。)
「ご新造様よ」
と小声で呼んだが、すやすやとうたた寝をした美しい人は応じなかった。
(悩み事がおあんなさるから気苦労でお休みになったようだ。ああ、日中にうとうとするような気の弱い人じゃなかったが。)
「もし、ご新造様よ、ご新造様よ」
(むむっ、おちおち夜も寝なさらねえのは、姑殿が合図の咳払いをしたといっては目を覚まして、灰吹きをもってこいだなどと言われるからだ。堪らんだろう。)
「ちょいとご新造様よ。もしもし」
(よく寝ていらっしゃるなあ。隣の部屋では大勢のばばあどもが講中で、意地になって、気味の悪い声で念仏を唱えてやがる。どいつもそれなりに嫁いびりをするような奴らが、嫌な、変な声を出しやがって。よしときゃいいのに、どうしてあんな思いやりのかけらもねえ奴らが、あんなに阿弥陀様のような女をいじめるんだろう。ふん、なむまみだだと。冗談じゃないぜ。もっともなあ、罪作りなことをしてると思ってるから、死後の安泰を願うのかもしれん。仏様を拝むのと、嫁をいじめるのを、差し引く気でいやがるわ。始末に負えねえ。猫をかぶってなんまんだか。あいつを聞かされると癇癪の虫がキリキリと突き刺すようだ。あのばばあを張り倒したくもなるけれど、考えようでは仏様も使いよう、講中と説教を聞いてうれしがってる間だけは、この女も鬼の目をのがれて一時でもこうやって気休めをなさろうというものだ。どうしてまた苦労をする人に限ってこんなに美しいのだろう。しかしなあ、気のせいかやつれなさった。)
と、ほろりとして、声をひそめ、
「もしもし、ご新造様よ、お風邪をめしますぜ」
九
二、三度呼んでも返事がないので、若い男は前後を見回しながら、そっと縁側に膝立ちになって手をつき、腹ばいになるような姿勢で女のほうに顔を伸ばすと、先ほどと同様に辺りを憚る声で、
「姉え、姉え」
と呼びかけた。
「あ、あ、あい」
と、女はまだうつらうつらとしたまま、投げだしていた手を上げて胸に乗せる。若い男はサッと退くと飛び石に立って、
「風邪をひくといけませんぜ。なにか懸けてお休みなさい。ほんとになあ、大事なお体だ」
と、それだけ言えば意は通じたと思い、美しい女が身動きをしたのを見とどけて、その返事を聞くまでの長居はせず、すぐに縁側を離れて素知らぬ顔で、またのそのそと歩き出した。空を仰いで、
「暖かいせいだ。のぼせちまわあ」
と頭に手をやると乱暴に引っ掻いて、明るい日向でふけを落とした。彼は十蔵というこの家の風呂係で、背戸へ焚きつけを取りにいった帰りだった。
ちょうど木戸を跨いで出るとき、小やみになっていた講中の念仏の声がひとしきり、どっと盛り返す。
足を止めてキッとふり返った。剣をおびた目つきで眉をひそめたが、思い直して、
「どれ、風呂でも沸かそうか。あのばばあめをまた釜の中へ落としてやれ。ふん、なんまいだ」
とつぶやいて、出ていった。
「ああ、ああ」
と、うつらうつらの返事をくり返していたご新造は、目を覚ました。
横たわったままぱっちりと目を開けたが、自分の寝姿をじっと見てハッとした様子である。裾を引っぱり合わせると、手を浮かせて払いのけた。枕に手をついてなかば身を起こして横座りになった。うっとりした顔で庭のほうへ斜めに目を向けて、日の光を仰ぎ見たが、まどろんだことが意外であったかのような顔つきである。申し訳なさそうな表情を浮かべながら、聞き耳を立てた。隣の部屋には多人数のどよめく気配があり、笑い声さえ漏れ聞こえてくる。それが自分には無関係であることにとりあえずホッと息をついたが、疲れた身体は緩慢にしか動かず、まだなかば夢心地である。寝覚めの顔はさわやかとはいえず、目も潤んでいたし、どこか力なさそうな様子で、ほつれた鬢を掻き上げようともせず、繻子の帯をほどけさせたまま、日のあたった庭をぼんやりながめていた。
そのとき、隣の部屋の人声がばったり止まった。人々が居住まいを正した様子である。灰吹きに煙管を叩く音が鎮まると、咳払いの声が空気を改めた。続けてまた、咳払いの声がする。
隣室で催されている三明講に招かれた、説教者の講話が始まったようである。
「さてこの話は、お年寄り方に申すわけではありません。しかし皆様のお宅には嫁御もいるだろう、またお嬢様もありましょう、孫たちもおあんなさいましょうから、それへお教訓をなさる足しにもなればと存じて、お話をします。いつも言うことですが、女は容色よりも心でしてな。いかに顔が美しいからといって、心がけが悪くっては、けっして死後も浮かばれるということはできませんぞ。五障三従などと、今さら改めて言うわけではないが、女はどこまでも控えめで、おとなしく、幼いときは親に従い、成人しては夫に従い、老いては子に従うということを片時も忘れてはならぬ。
というのは、こういうことがあったからです。
私の寺には蓮がたくさん咲く場所――しかも紅蓮で、ひと茎に花が八つ咲きます名所の池がありますな。夜も遅い時刻でしたが、あの池のそばまで運動をしに行きました。すると、何者かがこつこつと土を掘るような音をたてている。墓ではないところだから墓泥棒でもあるまい。なんだろうと思って見てみると、土を掘っていたのは、みすぼらしい夫婦者でした。自分たちも筵をまとっているのですが、なにかしら大きな筵包みをそばに置いている。どうやら死体でも埋めようとする様子なので、いきなり声をかけてとがめました。すると、思いのほか逃げもせずに、男のほうが、じつは私は巴波川灘丸という者で、などと名乗るのです」
その名前が漏れ聞こえたとき、美しい女はその涼しい目を見開いた。
十
「それからその灘丸とかいう男がしみじみと申すには、
『お坊様、これはお察しの通り死体です。今は練兵場になっております、小萩原の生えた野原裏で野垂れ死にをしました。早乙女縫之助という女役者なんでございますが、もう覚えている人もござりませんで。通例どおり仮埋めされるというところを、ちょうど私が通り合わせましたので、そのまま引き取ってきたにはきましたが、とはいえどこにも葬るあてはござりません。そりゃなに、今の若い役者連中にすがりましたら、ほかでもない縫之助のことですから、芸人冥利の葬式ぐらいは出されましょうが、青二才どもに頭を下げるのも腹立たしい。といって年寄株で今も現役という者もござりません。
しかたがない、どうしようと、家内とも相談をいたしまして、思いついたのはこのお寺です。なにしろ名高い蓮池でございますから、ここへ埋めておくことで自然と人に知れましたら、人が集まるこの池のことです、またどこにどういう志のある者がいないとも限りません。ゆくゆくは石碑でも立つかもしれない、それほど希なすばらしい女優なのでございます。いつまでも八ツ咲きの紅蓮とともに名所になって、その名を残すことになりましょう。それがなによりの追善だ、とそう思って決めました。とはいってもここは墓地ではござりませんので、表だってお願い申しましては、この池の端に亡者を埋めることはお許しなさりますまい。ですから、今夜はそっと内密に埋めておいて、埋めた後で、明日ともいわずすぐにでも、お目にかかってお願い申しますつもりでございました。ご出家様だからとおすがりするのは押しつけがましゅうございますが、そこはお慈悲で。まさか一度埋めました裸身の女を掘り返して出せとはおっしゃるまいと、そう思いましたので、どうぞ大目にご覧なすってください』
と、泣くようにして頼みこんできました。もう言わずともよい、よし、よしと言って、見逃して埋めさせてやりましたが、ここですよ、講中の皆さん」
隣室で聞いている美女は顔色を変えた。なむあみだぶ、なむあみだぶの唱名が高く聞こえるなかで、若い住職はひときわ張りのある爽やかな声で話を続けた。
「ご存じのことではありましょうから、ことさらには申さぬが、あの早乙女という女役者は、美女といえばあの女というほど、もてはやされたものです。しかしその反面、恐ろしいほど不品行のわがまま者で、人を人とも思わなかった女でした。さて、その末路はどうなったでありましょう。経ひとつあげられず、野辺送りの旗も天蓋もなく、裸で埋められた。ええ、これが野垂れ死にをした死骸の行く末ですぞ!
私はなにも、経を読むのを、墓を建てるのを惜しんでいるわけではない。とはいえそれ以前にあの池は、ご存じのとおり名所であり、今度鉄道の駅ができた折には都からも人が来るだろうと、あそこへ小料理屋を建てるといって借りたがる者もあります。なにもしないよりも、そのほうが経済的でもあると思って、貸すことを約束しておきました。もう地ならしに取りかかりましたから、埋めた死骸が鍬の先で掘り出されるかもしれません。それを知らぬわけではなかったが、黙って埋めさせて、あとは何もかも天道様任せ。もしまた腐った身体をさらけ出されて恥をさらせば、それで業も消えようし、これがあの女の末路だと、世の見せしめにもなることだと思ったので、わざと黙っておいたのです」
隣室から漏れてくる話がここに至ったとき、美しい女は思わず両手で耳を固くふさぐと、頭を押さえつけられたようにうつ伏せになり、畳に顔を擦りつけた。
「あ、痛い、痛い」
と身を反らせて、わなわなと震えながら足をもがく。胸もとを手で押さえながら、白歯を見せて唇を噛んだ。顔は真っ青であった。
下女が襖を開けて言った。
「ご新造様。ご隠居様がお呼びなさいます。ちょっとあちらへ」