紫帽子
七
灘丸は頭を撫でられて悟ったか、そのまま顔色を和らげると、三太郎から視線をはずして横を向いた。左手の壁には、渋団扇が一本掛かっている。その上に美濃版の大きさで、鬘下に結った女の半身像の彩色画が貼られていた。
煤で汚れて、地が薄赤く変色してはいるが、一点のしみもないその絵に描かれているのは、ふくよかな顔は白くて美しい、口もとが愛くるしく、目尻が上がって、鼻の高い、眉の凜とした瓜実顔が、水際だって、垢抜けした、歳は二十ぐらいの凄みのある美人だった。すこし横向きで、胸もとに袖を重ねている。紫の野郎帽子をかぶって、焦げ茶に二つ巴の紋の肩衣袴を着ている身なりからして、疑いもなく俳優である。これは、早乙女縫之助という名高い女役者であった。
薄暗い室内で覗くように絵を見ると、まるでその女が浮き上がって煙のなかに立っているようである。灘丸は身震いをして眉をひそめて、
「ええい、驚かしやがる。ぞっとした。おらぁ幽霊かと思った。面白かねえな、ふうっ」
と、息をついて、寒そうにしている。
三太郎は起きあがって、
「どうした」
「おじい、こりゃ縫之助さんがいくつのときだね。この眉毛はこりゃ地毛かね。それとも描いたのか、え、おじい」
「なんじゃ、地毛も描いたもない。そりゃ絵だぞ」
「絵だってことはわかってるがの、縫之助さんも四十からこっちは眉が薄くなっちまったから、描いてなさった。いくつになっても見た目が若かったよ。いつもこのくらいの歳に見えた。こりゃ幾歳のときだい。最近かね」
「いやいや、ずっと若いころじゃ。二十か十九かの。これでも昆布問屋の若旦那だったわしが、まだ親がかりだった時分じゃ。あまりに放蕩をつくしたので親類縁者から残らず愛想をつかされた。門辺にも寄せつけてもらえず、すっかり路頭に迷っていたところを助けてくれた。縫之助さんはの、その時分におやじがひいきにしていて、うちにも出入りをしていたので、その世話でわしが先代の仙おじいに弟子入りをした。そのときにこの絵姿をくれました。
『つまらない女の尻を追いかけるより、私の絵を見ておいでなさい。あなたのお国元くらいなら、素人でも芸者でも、美しいといったって私の目鼻立ちのいいところを一人が一つずつ持ってるくらいのもんです。浅はかな。そんなことで苦労をするくらいなら、この絵のほうがよっぽどいいさ』
などと、五つ年下の太夫に意見をされての。それでふっつり遊びをやめた。どうにかこうにか一人前になってからも、そのときのことがいつまでも忘れられず、こうやってしょっちゅう傍に置くよ。いや、自分でも言ったとおり、芸といい、容色といい、気立てといい、あのくらいの人はまったくいない。比べられるといえば、今は粂屋の女房になっている、太夫の娘分の小燕ぐらいなもんだ。のう、灘丸」
「おじい、まったくそうだ」
と言いながら、灘丸はなにか言いたげな顔つきである。
三太郎は気にとめず、
「縫之助さんもかれこれ六十近いな。本心からもう一度会いたいわい。あんな女には一生白髪なんて生えそうもない。まだ若かろう。じゃが世の中は忘れっぽい。縫之助さんが使ったお手水の水さえ欲しがりかねなかった連中も、舞台を引退したとたん、もう噂にもしなくなったそうで。それでもまだ元気なものじゃ。最後に会ったときは、米屋町で何だったかの興業を打っていた。宿泊先に借りていた二階の部屋は汚くて、欠けた瀬戸物の火鉢を置いていたが、それでも縮緬の大座布団を重ねて、しごき帯を結んだ片膝立てで、茶碗酒をあおっていた。そこへ若い者が来てなにか言った。興業で損が出たらしい。
「ほい、五十両か」
そう言うと、ポンと手を打って、
「これは参った」
とにっこりしたわ。わしは会えただけでもしみじみ嬉しかったが、他国へ行ったとやらでその後は会っておらん。三太郎が餓死したとでも聞いたら、東北からでも帰ってきて墓に酒をかけてくれるだろう人だ。実はのう、そればかりが楽しみよ」
と、くぼんだ目を閉じて淋しげに笑った。
灘丸は我慢できなくなったのか、口早に、
「おじい、おぬしは何にも知らねえの」