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経帷子


 上下左右にがたぴしとこじ開けているうちに、すこし隙間が空いたので、灘丸(なだまる)は手のひらをほっぺたに当てながらしゃがんで覗いてみた。

 上がり口から裏庭までが見通せる四畳半のむさ苦しいさまが一目瞭然である。古畳いちめんに太陽の光が射している。ガラクタが散らかっているわけではないが、何のせいか、畳のあちらこちらに濡れた跡がある。庭はすぐに畑になっていて、目の前の一室の(えん)のそばにはゴミ捨て場があった。黒い板で囲っているが、なにか虫でも這っているのだろう。ゴミのなかにもすっかり陽があたって、低い垣根に小菊が咲いていた。それだけで人はいなかったが、どのみち覗き見をしたついでだと思って、灘丸は開けかけた戸の隙間に大きな手のひらを突っこんで、持ち上げるようにしてぐいっと押した。パタリと扉が半開きになる。

「どなたじゃ」

 と、このとき、しわがれ声で力なげに問いただす声がした。

 気づいた灘丸が見上げると、このあばら屋ならばさもありそうな、薄暗くて気味の悪い、(すす)だらけの二階があった。段ばしごが手を伸ばしたように、上がり口の縁に立てかけられているが、灘丸の体格では踏み折ってしまいそうだ。家のなかにも陰日向があるとはいうが、これほど暗いところもあるのか。

「我こそは、我こそは、えへん、三河守(みかわのかみ)家康(いえやす)よ」

 と、この古英雄の名だけは控えめに小声で名乗ったから、二階までは聞こえなかったのだろう。

「だれじゃい」

 と、またしわがれ声で、意外なほど真剣な声で問いかけてくる。

 灘丸は気にかけず、

「はは、おじい、穴ごもりでもしてるのか。どうだ」

 と足をかけて一段上がっただけで、頭はもう二階に届いて、室内を覗けるほどだった。足を床から二寸ほど離して乗っているたくましい身体は、はしご段いっぱいになった。ギリギリと鳴るはしごを加減しながらそっと上がりかけて、途中で威勢よく景気づけをした。

「テンテレツク、ずいっとお通りですぜ」

「あ、あ、いかんわい。誰じゃ、上がってはいかんよ」

 と言いながら、むくむくと起きあがった気配がする。上がり口に帯の解けた着物を開けっぴろげて突っ立ったのは、顔が小さく、顎がこけて、目のくぼんだ、鼻の高い老人で、頭のてっぺんでは(まげ)の先端を長く延ばした、きわめて細いちょんまげを結っている。つるりと禿げた十筋右衛門(とすじえもん)といったところで、薄っぺらい小さな耳が貧相にちょこんとくっついている。そんな老体が、上ってくるのを突き落とそうという身構えを見せていたのだが、下から見上げてくる顔をぐっと(にら)んで言った。

「やっ、灘丸か。むむっ、大将」

「おお、おじいか」

「まあまあ」

 と、上がり口を塞いでいた身体をよけて、後ろに下がると、またドサリと寝転がる。

「頭を打つぞ。灘丸。天井の低い屋根裏じゃ。這って来なされ。ずっと四つん這いになって上がるんじゃ。危ない、危ない。そしてそのまま横になって話しゃっしゃい。やれやれ」

 と言って、腹ばいになった。

 灘丸はずかずか上がると立とうとして、言われた通りに頭を打ってびっくりしている。

「やい」

 と言って、天井裏の板屋根の隙間から、陽の光が星のように差しこんでいるのを(にら)んだが、頭をすくめるとにっこりして、

「おっとよしだ、おっとよしだの二階じゃないか」

 と口のなかでつぶやきながら、そのまましゃがんであぐらを組んだ。

 屋根裏の片隅に敷いた、見るからに固くて冷たそうなせんべい布団の上に腹ばいになって、帯を解け広げたまま、三太郎は身をすくませている。床は(すす)だらけで物置同然。畳もなく、(むしろ)を五、六枚敷いてあり、籾殻(もみがら)がばらばらになってこぼれている。薄暗い室内を灘丸はつくづくと見たが、吐息をついて、

「おじい、これはどうした」




「いや、もう、穴があったら入りたい。うんにゃ、もう入っておるわ。許しておくれよ。ほかならぬ灘丸じゃ。ひさしぶりで顔でも見よう」

 と、寝転がったまま手を伸ばして東向きの枕もとについている小窓の戸を開けると、あちこちが破れて埃だらけの竹すだれを漏れて光が通る。窓の下はすぐに小屋根で、板葺(いたぶ)きに草の生えたなかに、真っ赤になった唐辛子が植わった大きな欠けすり鉢が傾いて乗っていた。

 筵の上にはせんべい布団を敷いたほかには何もない。枕を横抱きにして寝ている三太郎が着ていたものに、これはどうしたと灘丸は驚いたのである。

 手も足もやせ細って、骨と皮ばかりになった()からびた小さな身体に着ていたものには、白地に大きく妙法蓮華経と題目が書かれている。なんたることか、その衣装は、まぎれもなく死装束(きょうかたびら)であった。

「ややっ、なんだその妙な茶番は」

 と、灘丸は目を見張りながら、調子外れな声で言った。

 三太郎爺は布団の上にうつむけになり、黙って頭を抱えたままでいる。枕もとの手近な場所には、飲み口の割れたビールの空き瓶が立ったままである。ほどいた竹の皮包みに(まぐろ)の刺身が残っていたが、箸もないので、手づかみで食べていたことがありありとわかるのに呆れて、

「おじい……」

 と言ったきり、あまりのことに灘丸は座り直して、形ばかりのちょんまげの先をキッと見た。これが殿様の前でしばしばお茶を頂き、引き出物を賜った、桂城(かつらぎ)三太郎のなれの果てである。百石扶持(ひゃっこくぶち)でお抱えの狂言師に狐の声を教えた声色使いで、踊りの師匠で、振りつけの先生で、うきよ節の美声の持ち主で、諸礼の故実(こじつ)家で、落語の名人だった男だ。なかでも日本晴れの秋日和に傘をさした男が雁にさらわれて昇天した(はなし)といえば大人気を博したもので、高座に膝を立てて腰を浮かし、(くだん)のちょんまげを突き出して前のめりになりながら、羽織の袖を手にまとってひらひらと動かすと、不思議な魔法の力を発揮して、数百の常連客の心が宙を舞い、身体が浮きあがる。あたりにある煙草入れも鉄瓶も火種入れも蝋燭も、天井にくっつくわいと騒がれたものである。

 しかし三太郎の名はむなしく古老の耳に残るばかりで、本人はいま、場末のいたずら坊主どものおもちゃにされて、雁々じじいなどと(はや)されている。(むしろ)に敷いた布団の上に、経帷子(きょうかたびら)を着て悲しく横たわっている。かつての面影を語るのは、背中に射しこむわずかな陽の光のみというありさまである。それを見た灘丸は、思わず膝をそろえてため息を吐くと、その声に力をこめた。

「おじい!」

「灘丸よ」

 と言って三太郎は顔を上げたが、あらためて灘丸の風体をじっと見て、微笑んだ。

「はははは。なにも言うなよ。なんにも言わぬこと。灘丸、おぬしももはや、同じ穴の(むじな)のようじゃの。稼ぎ頭だったお前がどうしたんじゃ。なにもまた、そんな身なりでいることもなかろう。なあ、流行りの幻灯でも見せて、子どもに飴ん棒でもくわえさせておけば収入(みいり)にもなるじゃろうに」

 灘丸は頭を振って、

「うんにゃ、あれもいかん。いまは幻灯もとんでもないことになっての。子どもらも半端なものじゃ満足せん。茶釜に毛を生やしたり、南瓜(かぼちゃ)殿に舌を出させたり、三毛猫を踊らせて見せたって、小銭二百文にもなりゃしない。お(さむらい)の口上なら、俺ぁいつだってやってみせるがな。いまさら家康だなんてお呼びじゃない。といって、士官の号令なんて新しいものを知ってるわけもねえ。うかれ節なんざ、とっくの昔に上がったりよ。ふむ、三河守(みかわのかみ)もねえもんだ」と苦笑した。




「ふう。わしはの、ちょいと前にお前さんが本職の合間に幻灯をやってらっしゃるという話を聞いたもんだから、よくやるもんだ、世渡りが上手じゃと思っていたがの」

「上手なもんかい。そもそもその幻灯のお道具ってのが訳ありだぜ。それ、以前に上方から来た照る照る坊主とかいった奴がいただろう」

「おお。あの、講釈が下手な」

「はははは。講釈が下手ってのは図星だ。そう、あいつなんだが、食い詰めやがって、宿賃が払えねえってんで首を(くく)った。あいつが持っていた機械だ。ろくなもんじゃねえ」

「むむっ。なにをやろうとわしらの世は末になったの。地漫才の音松はどうした」

「いや、まことにめでたいことで(そうろう)。あまりに饒舌(しゃべ)ったので、あの音松は耳が聞こえなくなったって。七十二だってよ。おめでたくなりやがった」

「やれやれ、しゃべりすぎて聞こえなくなったとは、さて気の毒な」

 と言って、三太郎は口をつぐんだ。

 灘丸は膝を寄せて、

「ときにお爺、なんにも言うなというから言わねえが、こいつはどうした茶番だ。なんだかお神酒(みき)を召し上がってるかと思えば悟ったお召し物を着て。それにしちゃ生臭いものも食ってらっしゃる。下谷(したや)のじいさん寝てござるってのはどうしたわけだ。そのわけを承りたい。はははは、三河守家康」

 と言って、相手の顔を見た。

 三太郎は布団からずり出して片手をつくと、なかば身を起こして、

「そう聞かれてものお。話すことなんぞないぞ。見なされこの通りじゃ。ま、この五年ほどなにをして食っていたのやら。寄席へは出ず、座敷もかからず、ただ食い残しの飯粒があって、お天道(てんとう)様のおあてがいじゃろうと思うておる。ただ生きてただけだというんかいの。

 このあいだ娘が死んだわ。あまり大っぴらにはできない死に方じゃったがの。めいっぱい客を引いてたそうで、残した箪笥(たんす)の引き出しに三十両ほどあったという。その実、遊女の勤めが辛いので、一日も早く身抜けがしたいと貯めこんでいたようじゃ。わしのために身売りをして、

「おっとさんに(たい)とあったかい飯を一度でも食べさせたい」

 と言ってくれた。鯛の洗いに(なだ)の生一本ならばともかく、あったかい飯と言われては情けなかったよ。娘には死なれる、歯は抜ける。食い残しの食べ物があっても、因果なことに、わしはもはや噛むこともできずじゃ。

 そこであきらめた。娘の三七日(みなぬか)の法要ももうすぐじゃで、その日ぐらいまでにはいい具合に飢え死にするつもりよ。ありったけのガラクタを集めて売ったらば二貫近くになったので、お神酒とお肴を取りそろえての。今日で二日酒浸りじゃ。いっぺんには飲まぬわい。薬のようにの。まあ、行くと決まったあの世へ参りますまでの息継ぎがわりにやる気でおったよ。灘丸、察してくれとは言わぬ。大目に見てくだっしゃい。人に会う気もなく、来てくれる男もいないので、しばらく他人様にはお目にかかっていない。暗いところでこうやってお迎えを待っているがの、気は確かじゃ。お前の顔も忘れはしておらん。改めてになるが、久しぶりじゃのう、灘丸」

 と、見つめる目は涙ぐんだ。灘丸は肘を張って、寝転がった三太郎の背中を見て、

「やい、やい、やい、世間の奴ら、俺ぁいい、俺ぁいい、たかが三河守家康よ。こっちゃあ落語の三太郎だ。雁がどうしたなんてどうでもかまわねえ。三太郎の名人芸を聞いてくれない客なんざ木戸銭は返して断っちまう。気の利かねえ野郎どもめ、客もなにもあるもんか。俺ぁ口惜しいや、おめえもそれで納得なんてできねえだろ、なあ、おじい」

 と、すり寄って三太郎の背に手をかけた。その手を両手で取って拝むように頂きながら、

「言わっしゃんなよ。時代は変わったで。ここからは子どもらの時代じゃ」

 さっぱりと言うと、灘丸の頭を撫でた。

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