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蝶々つなぎ


「爺さんめ、おまえまでもが立ちゆかねえとなると、いずこも同じ秋の夕暮れだな。(ごう)さらし野郎が。どっこいしょ」

 と、背の高い男はけつまずいたようにどぶ板を踏んで跳ね反しながら、危なっかしく溝をまたいだ。顔を上げると、表札も何も掛かっていない表戸に手をかけてガタガタさせながら、

「三太お爺はいらっしゃるか。巴波川(うずまがわ)灘丸(なだまる)だ。お見舞いに来たぞ」

 と大声を張り上げると、うつむいてつま先を見ながら、独り言をつぶやいた。

三河守家康(みかわのかみいえやす)か」

 水天宮(すいてんぐう)手水(ちょうず)に掛けられて古くなった、茶染めに白抜きした手拭いだの、鬼子母神(きしもじん)様の提灯(ちょうちん)だの、太々講(だいだいこう)の札だのに名を記してあるほどに名の知れた、この男こそ巴波川灘丸である、といっても今は知っている者も少ないが、一時は自分で寄席まで経営していたほどだった。

 その体格のよさからもわかるように、かつては鉄砲組が八百人いたなかでの精鋭で、江戸詰めのときには殿様の身の回りを世話した者だ。道楽でやっていたうかれ節が本職になって、お供先から出奔したが、門付(かどづ)け芸人からだんだんとのし上がり、場数をこなしながら修行を積んで、旅興行(たびこうぎょう)中に(みやこ)三津浜(みつはま)という一中節(いっちゅうぶし)の女師匠といい仲になって、また故郷に戻ってきた。

 徳川三河守家康、家康というのが口癖なのだけれど、ことさら家康を崇拝して、権現(ごんげん)様の御名(みな)(とな)えることで冥福を祈るわけではない。灘丸が家康の名を称えるのは、おそらく彼の伯父さんにあたるのだという大久保(おおくぼ)彦左衛門(ひこざえもん)忠教(ただのり)という人物に私淑しているからだ。高座に出ようが、歩いていようが、何事も彦左衛門で押し通す。つまり彦左衛門の名を称えるために権現様を担ぎ出すのである。

 高座に上がると、まず最初に、

「申し上げます。淳和(じゅんな)奨学(しょうがく)両院の別当、徳川三河守家康の家臣大久保彦左衛門忠教」

 と口を切ると、常連客は心得たもので、「いよっ、大黒柱」などとかけ声がかかるという売れっ子だった。

 さてそのころは女房も年増盛りで、一中節を高らかに響かせたものだ。高座へ出るとこの婦人だけは語っている最中にも煙草を飲んだ。その代わり湯は飲まない。三味線を膝に構えると、帯の間から煙管(きせる)(づつ)を抜いて、銀煙管に一服詰めて、舞台の高みに一座が居並び、数百の観客の注目を集めるなかで悠々と三服吸うと、火種入れをトンと向こうへ突いて、煙管を落とすのを合図に、三の糸の前奏が、チテレツチンと鳴りはじめる。これが通例となっている。ただし煙管を高座にまで持ち出したからといって、そんなに煙草が好きなわけではない。小刀のように帯に突っこんでおく籐編(とうあ)みの煙管筒には蝶々つなぎの銀鎖がついていた。これがとにかく自慢なのである。元はさる筋の人がくれたのか、また作らせたのか、あるいは親譲りなのか、それはわからない。寝ても覚めても離さないのだった。

「あんなにまでなっても、まだ持っていました」

 と、最近になって、都三津浜をまだ覚えていた人が、乞食(こじき)町の裏小路(うらこうじ)で、買い求めた干し大根葉を味噌漉(みそこ)しで受けて、貧乏寺のくぐり門に入ったのを見届けた者がいて、つくづくとそう言った。「あんなにまでなっても」と言ったことからして、おおかたそこいらの境遇なのだろう。

 灘丸のいまの身なりからして、気の毒なものである。縄と大差のない浅葱(あさぎ)木綿の扱帯(しごきおび)も、中形模様の浴衣も、棒縞(ぼうじま)半纏(はんてん)も、着ているものは身頃(みごろ)の脇が空いていて、みんな女ものらしい。かといって、三津浜が家で裸で暮らしているというわけではないのだが。

 それでも表情は健やかで、空を仰ぐ顔色は赤みをおびて、身体の動きには酒に酔ったような勢いがあり、一升ばかり飲んできたかのようである。元気よく、巴波川灘丸がお見舞いに来たと声を張りあげたが、あばら屋のなかにいるはずの雁々じじい、芸名桂城(かつらぎ)三太郎という落語の老大家の返事はなく、ひっそりとしたままだった。

「おい、どうした、どうした狸、気の利かない化け物だな。こいつぁ(らち)があかねえや」

 と、また戸をガタガタさせる。

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