蝶々つなぎ
三
「爺さんめ、おまえまでもが立ちゆかねえとなると、いずこも同じ秋の夕暮れだな。業さらし野郎が。どっこいしょ」
と、背の高い男はけつまずいたようにどぶ板を踏んで跳ね反しながら、危なっかしく溝をまたいだ。顔を上げると、表札も何も掛かっていない表戸に手をかけてガタガタさせながら、
「三太お爺はいらっしゃるか。巴波川灘丸だ。お見舞いに来たぞ」
と大声を張り上げると、うつむいてつま先を見ながら、独り言をつぶやいた。
「三河守家康か」
水天宮の手水に掛けられて古くなった、茶染めに白抜きした手拭いだの、鬼子母神様の提灯だの、太々講の札だのに名を記してあるほどに名の知れた、この男こそ巴波川灘丸である、といっても今は知っている者も少ないが、一時は自分で寄席まで経営していたほどだった。
その体格のよさからもわかるように、かつては鉄砲組が八百人いたなかでの精鋭で、江戸詰めのときには殿様の身の回りを世話した者だ。道楽でやっていたうかれ節が本職になって、お供先から出奔したが、門付け芸人からだんだんとのし上がり、場数をこなしながら修行を積んで、旅興行中に都三津浜という一中節の女師匠といい仲になって、また故郷に戻ってきた。
徳川三河守家康、家康というのが口癖なのだけれど、ことさら家康を崇拝して、権現様の御名を称えることで冥福を祈るわけではない。灘丸が家康の名を称えるのは、おそらく彼の伯父さんにあたるのだという大久保彦左衛門忠教という人物に私淑しているからだ。高座に出ようが、歩いていようが、何事も彦左衛門で押し通す。つまり彦左衛門の名を称えるために権現様を担ぎ出すのである。
高座に上がると、まず最初に、
「申し上げます。淳和奨学両院の別当、徳川三河守家康の家臣大久保彦左衛門忠教」
と口を切ると、常連客は心得たもので、「いよっ、大黒柱」などとかけ声がかかるという売れっ子だった。
さてそのころは女房も年増盛りで、一中節を高らかに響かせたものだ。高座へ出るとこの婦人だけは語っている最中にも煙草を飲んだ。その代わり湯は飲まない。三味線を膝に構えると、帯の間から煙管筒を抜いて、銀煙管に一服詰めて、舞台の高みに一座が居並び、数百の観客の注目を集めるなかで悠々と三服吸うと、火種入れをトンと向こうへ突いて、煙管を落とすのを合図に、三の糸の前奏が、チテレツチンと鳴りはじめる。これが通例となっている。ただし煙管を高座にまで持ち出したからといって、そんなに煙草が好きなわけではない。小刀のように帯に突っこんでおく籐編みの煙管筒には蝶々つなぎの銀鎖がついていた。これがとにかく自慢なのである。元はさる筋の人がくれたのか、また作らせたのか、あるいは親譲りなのか、それはわからない。寝ても覚めても離さないのだった。
「あんなにまでなっても、まだ持っていました」
と、最近になって、都三津浜をまだ覚えていた人が、乞食町の裏小路で、買い求めた干し大根葉を味噌漉しで受けて、貧乏寺のくぐり門に入ったのを見届けた者がいて、つくづくとそう言った。「あんなにまでなっても」と言ったことからして、おおかたそこいらの境遇なのだろう。
灘丸のいまの身なりからして、気の毒なものである。縄と大差のない浅葱木綿の扱帯も、中形模様の浴衣も、棒縞の半纏も、着ているものは身頃の脇が空いていて、みんな女ものらしい。かといって、三津浜が家で裸で暮らしているというわけではないのだが。
それでも表情は健やかで、空を仰ぐ顔色は赤みをおびて、身体の動きには酒に酔ったような勢いがあり、一升ばかり飲んできたかのようである。元気よく、巴波川灘丸がお見舞いに来たと声を張りあげたが、あばら屋のなかにいるはずの雁々じじい、芸名桂城三太郎という落語の老大家の返事はなく、ひっそりとしたままだった。
「おい、どうした、どうした狸、気の利かない化け物だな。こいつぁ埒があかねえや」
と、また戸をガタガタさせる。