鳥差問答
一
「ふむ、徳川三河守家康か」
背の高い男の口から、低くうなるような、投げやりな調子の小声が、思わず知らず溢れだす。
丈の短い、汗ばんだ、中形模様の派手な浴衣から両手が二の腕のあたりまで突き出ているのを下目で見ると、上に羽織った棒縞の袖口をあちこち引きのばして、ちらちらと見え隠れする腕の刺青を隠しながら、場末の人参畑の低い垣根のところに立った。
ちょうど道の曲がり角である。赤蜻蛉が、まるで松葉が飛んでいるようにばらばらと散らばって、二匹がつらなり、三匹がつらなり、ただ一匹で飛ぶのもあって、上へ下へと群れている。男はそれをじっと見て、すこし仰向くと、そのまま澄みわたった青空をながめている。
色の浅黒い、というより、渋っちゃけた肌というべきか。肩幅が広いたくましい骨格で、胴が平べったく、極めて足が長く、手は節くれ立っている。身の締まった、まるで木で造られたかのような体つきである。五十近い年配で、額には皺が見える。さかやきの跡と思われるあたりは禿げているものの、頭髪はまだ黒く、無造作に刈りこんだそれは、ふけだらけだった。この種の風采こそは、わが国封建時代の霊長類の名残だといえる。
彼は赤蜻蛉のなかに仁王立ちになっていたが、斜めに向こうを透かし見すると、藁葺きと板屋根が交じった、どれも軒の低い家が五、六軒、まばらに緋葉したいちじくと柿の木に間を仕切られながら、飛び飛びに建っている。家の前には小さな溝があり、排水があふれていて、薄ら寒い季節でもあって冷たそうに見える。
表戸まで渡した溝板の上には、野良犬が丸くなって寝そべっている。
そのあたりだと見当をつけたようで、件の男はのっそりと歩きだしたが、なにか気になるようで、手を引っこめると、そばだてた自分の肩のあたりから、また腕を見下ろした。
「ふむ、三河守家康よ」
と口ずさむと、前のめりの懐手になって肩をすぼめた。この男は、歩くときにやや前屈みになる、背の高い男にありがちな姿勢をとるのだが、さらに両手を前へ出してばっさりと振って歩く癖があるので、両腕を無様に晒していると刺青が見えてしまう。思うに、それを憚っているのだろう。
手を懐にしばらく歩き、ときどき伸びあがって、前方に並んだ小さな家を見下ろすようにして、また立ち止まっては考える。
赤蜻蛉は同じところを行ったり来たり、なかには中空の高いところを、すいっと飛ぶものもある。
裏手にある空地から、向かいの家と家の間をばたばたと、棒切れを持った子どもが駆け抜けてきた。立ち止まってふり返りながら、いたいけな手を振りあげた。
小石をつかんで足踏みをしながら、
「わあい、わあい、わあい、わあい」と叫んでいる。
彼が、そこに立ったままで見ていると、ボロを着た、砂まみれで裸足のその男の子は、追いかけてくる敵へ擬勢を示したようであったが、だれも応じる者がいないので、ポトリと小石を落として棒切れを持ち直すと、抜き足で戻りながら様子をうかがっている。男はそれを背後から呼びとめた。
「おい、坊よ、坊よ、小坊主よ、はははははは。利口な坊主だな。おい、お前、このあたりに三太おじいという、ちょんまげを結った小さな爺さんがいるか、知らないか」
「知ってらあ」
と、さっきからくるっとした目を見開いて、思い切り顔を上げて、瞬きもしないで見上げていた子どもは、威勢よく一歩踏みだして言った。
男は鼻の高い顔に満面の笑みをうかべて、
「むむっ、知っとるか」
「知らないわけないよ。爺さんって、あの雁々じじいのことだろう」
「なんだ、雁々じじいだと。かわいそうなことを言うなよ。そんな、ガンガンじじいだなんてかわいそうなことを言うなよ。偉い爺様だぞ」
「だって、ガンガンガンのじじいだもの。だから雁々じじいっていうんだ。おじさん、知らないんだろ」
二
「何だかわからんが、そりゃ何だ」
「だってガンガンって、あのね、おもしろくって」
と、子どもがぺちゃくちゃと話を続けようとしたとき、足音がして、男の背後で止まった。ふり返ると立っていたのは、四十がらみの人物だった。小柄で痩せて、あごは細いが目つきが涼しく、竹で編んだ、縁の薄い、反りのない陣笠のような形の笠を被っている。袷に襦袢、手甲をかけて、はしょった裾から下は脚絆に甲かけ草鞋といったいでたちである。熊の皮の腰当てをして、猟袋を腰につけて、手には長いのやら短いのやら、餌差しの継竿を七、八本持っている。
その姿を見た子どもは黙って後ずさりをしたが、二、三歩離れると突然、背の高い男の袖の下をくぐって、脱兎のごとく逃げだした。曲がり角でちょっとふり向いたが、そのまま走って見えなくなった。だいぶ驚いたようで、顔の色まで変えていた。
子どもだとはいえ、あまりに急なことだったから背の高い男はあっけにとられて、どういうことかと鳥刺しの顔を見た。
人の良さそうな鳥刺しも、べつに言いとがめられたわけではないが、自分のせいで子どもが逃げだしたことを、大人げない事情でもあると思われたのではないか、と心配したのだろう。ちょっと決まりが悪そうに、
「ははははは、子どもというものは、いたずら盛りですな。私があの柿の木に来る椋鳥を狙っていると、邪魔ばかりしてなりませんので。そこのところを叱ってやりました。それで怖がったとみえます。はははは」
とおとなしく笑ったが、ふと気がついた様子で、あらたまって問いかけた。
「いや、なにかあなたは、どなたかをお訪ねなされるようじゃが、だれをお訪ねじゃの」
背の高い男は慇懃に腰をかがめ気味になると、あわただしく懐から出した手を膝まで下げて、しっかり組みあわせた。
「ええ、三太郎と申す者をですね……」
「ああ、なんでも若いころは仙松と名乗っていた落語家じゃの」
「さようでございます」
鳥刺しは頷いた。
「それならばついそこじゃ。道理で子どもが雁々じいなどと言っておった。なるほど」
と、よく知っている様子だった。
「ええ、雁々じいとか言ってましたが、あれは何なのですか」
「いや、このあたりをよく通るので知っているんじゃがの。あの爺様もかわいそうに、よほどどうにかしたと見えて、近ごろでは久しく寄席に出たなどといううわさも聞かぬが。なんじゃよ、すっかり衰えて、見違えるほどじゃ。それでの、夕方になると、それ雁々といって、子どもが袖を広げて飛んで歩く遊びがあるじゃろう」
「ありますな」
と言って、背の高い男は頷くように頭を下げた。
「その遊びに交じってるんですな。仙松の雁のものまねといえば、知ってもおいでになろうが。『寄席に天井がなかったら、客がみんな青空へ舞いあがっている』とまで言われた人気者だったが。今は子どもに交じって「ガンガン」と言いながら飛んで歩いている。それを子どもたちがわいわい言ってはやし立てる、というわけじゃ。気の毒な。もう歳を取りましたよ」
と、ことばを途絶えさせた鳥刺しはうつむいて、竿を持った手を震わせた。竿の先に止まっていた赤蜻蛉がツッと飛び立つと、気を取り直して、後ろを指さしながら、
「あれじゃ、あの藁屋から三軒目の長屋に住んでいると聞きました」
「それはどうも」
と言った背の高い男は、気がつくといつの間にか自分も腕組みをしてうつむいていたので、急いで手をほどいて会釈をした。
「旦那、ありがとうございました」
「いや、旦那などと。これはお恥ずかしい」
「これからお楽しみでしょう」
「いやいや、童心に返って、蜻蛉でも釣る気でおります。はははは」
と笑いながら顔を合わせて、ふたりは別れた。