〈解説に代えて、感想のようなもの〉
『髯題目』は、明治30年(1897年)12月に雑誌掲載された作品。
題名の「髯題目」とは、日蓮宗でヒゲのように跳ねた書体で書く「南無妙法蓮華経」の題目のことで、画像を見れば、あ、あれのことか、と思いあたると思う。
本作のヒロインの背中に刺青された文字でもあり、もうひとりのヒロインの背中に彫られた「一天四海 皆帰妙法」は、髯題目とセットになるスローガンで、一天四海(世界)が皆、妙法(南無妙法蓮華経)に帰依するように、の意。
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読みながら思ったことをだらだらと書いていくつもりで書きはじめたものの、やはりのっけから抹香臭い話になってしまった。『髯題目』といわれると題名からして楽しい話ではなさそうだし、じっさい人気や知名度のある作品でもない。アンソロジーに収録されることもほとんどなく、ただし、あの高価でなかなか手が出せない「澁澤龍彦 泉鏡花セレクション」の「第2巻 銀燭集」には収録されている。また過去には、フランス文学者の生島遼一が「印象凄絶でみごとなものである」と褒めている(「鏡花のこと 二」)。
『髯題目』のページを開くと、冒頭の文は、
「ふむ、徳川三河守家康か、」
落し着けるやうな低聲で、投げた音調、これは思はず知らず呟いたので。
と、最初から意味がわからない。しばらく読み進めていくとこの人は、うかれ節という歌謡を得意とした芸人で、徳川三河守家康ということばを意味もなく唱えるクセがあるのだとわかってくる。それにしても「投げた音調」というのは、実際どんなものなのか。「投節」というジャンルがある以上、たんなる「投げやりな音調」ではなくて、特有の「いわゆるそういう音調」がありそうな気がしてならないのだけれど。ダウナーっぽいとか、アシッド感とかみたいなの? 今となっては、身に染みて理解するのは無理な気がする。
この作品の発表を機に、鏡花はそれまでアルバイト的に続けていた編集の仕事を辞めて、専業作家としての出発を決意した。それゆえなのか、文章に異様な力がこもっている。そのテンションは途切れることなく、代表作ともいわれる『高野聖』を経て、鏡花的な文体や技巧の最初の頂点ともいうべき『註文帳』(明治34年)へとつながっていく。
怪談、花柳小説、民話的構造、複雑な構成、象徴的で省略だらけで難解な文章などなど、鏡花の小説を組み立てるさまざまな要素が合流したかのような作品が『註文帳』なのだが、そこからふり返って『髯題目』を読むと、この小説こそが、それら独創的な試みの原点のように思われる。
四年後に書くことになる『註文帳』を一つの理想だとすると、天才鏡花の頭のなかにはすでにその理想が見えていて、しかしまだ、怪談的な要素や遊廓の風俗を取りいれたり、民話的な仕掛けを作品に埋めこむといった手法には手が届かず、とにかく工夫を凝らした文章とイメージだけを武器にして理想に近づく、といったチカラワザの迫力が、この作品には感じられる。
そんな、作家としての重要な転換点に書かれた『髯題目』は、執拗なほどに微に入り細を穿つ写実描写と、鏡花作品としては他にないくらい陰惨なイメージをそなえた、異色の作品になった。
ことに三明講の場(十一節から十七節)と紅蓮寺蓮池傍の場(二十一節から二十四節)は、人物の内面に立ち入らずに、外見的な描写だけで心理の動きを描く、鏡花独特の方法が徹底して、読み解くには苦労を強いられる。あたかも舞台で演じられる劇を描写するようだ、といえば話は簡単なのだが、鏡花の場合はそれを固定カメラで撮影してスロー再生しながら、役者のわずかな身振りや演技の工夫を逐一追いかけて文章に写し取っているかのようだ。
そこで描写の対象となった、実際に演じられるできごとの内容は、まるで加賀見山の岩藤を姑御に置きかえたような、古風な歌舞伎の責め場と大差はないのだが、ここまで精密に描写されると演劇的でしかなかったものがしだいに別の意味をおびて、のちには演劇的に語られることになる事件の実際に起こった現場をリアルに目撃しているのではないかという、逆転的な錯覚が発生する。そう思わせるまで、鏡花の描写は徹底している。
ただし小説中八節では、登場人物(十蔵)の内面独白で事情を説明する、例外的な記述がみられる。プロットを組み立てる上でここだけは仕方なく、そうせざるを得なかったのだろう。
芸人たちの側と粂屋の側と、二つの視点を交差させながら、それぞれの関係については何も説明せず、読者が「もしかすると」と推理を働かせる想像の力が物語の推進力になる、高難度なプロットを備えた作品なのだが、個々の人物の紹介以外は一切の説明がない、というところまでは徹底が及んでいない。以後の精密な構成を備えた作品では、そういった「惜しい」と思わせるところはなくなっていくものの、その代わりにエピソードの煩雑な分岐が発生することになる。
と、そんなふうなあれやこれやによって、たしかに力作ではあっても、読む人に(まるで理想の作品像を前借りするための負債を背負わせるように)いろんな意味で負担を強いる作品なのだが、なんとか読み終えたときには、それまでの鬱積は吹き飛んでしまう。
最後のわずか一ページに簡潔に記された、葬儀に参列した老芸人たちの祝祭的な歓喜の放出ぶりには、そこまで気が滅入るほど、これでもかと貯めこんできた負の要素を、一気にすべてプラスにひっくり返してみせる快感にあふれている。喜べるはずもないヒロインの死が嬉しくてたまらないという、共感できるはずもない逆転劇に共感してしまえる幕切れの不思議な読書体験が、まるで奇跡のように思える。
日夏耿之助は、『歌行燈』についての評論で、「鏡花の藝道には、くるしみをもよろこびと化す魔術がある」と言っているが、『髯題目』では同じその魔術が、もっと暴力的に、もっとプリミティブなかたちで行使されている。
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ちょっと逆説的な言いかたをすると、鏡花の文章が読みにくいというのは、古めかしい文章だからというのではなく、古代から現代までのことばを自在に引いて並列させるという、むしろ斬新すぎる手法を採っていたからだとも考えられる。引用元は国内に限らず、古代中国や、仏典を通じたインドや、ときには同時代の西洋にも及んでいる。時間軸の中央にいるのを同時代からみたら、昔の位置にいるように見えたわけで、現在からみたら大昔の人に思えてしまう。
しかし現代文として文脈を解きほぐすような解釈をすると、古文とは似ても似つかない、むしろ近代以降のフランスの小説を読んでいるような気持ちになることもある。昔から鏡花の文章をプルーストと比較して論じた人も多かったようで、上にあげた三明講の場や紅蓮寺蓮池傍の場の精密な描写を読むと、ことさらそんな気持ちになる。
プルーストは自分の文章の精密さについて、まるで虫眼鏡で覗いてているようだと評された記事に対して、いや、むしろ自分は望遠鏡で覗いているのだと反論したのだが、望遠鏡で覗いたような描写というのは、プルーストよりもむしろ鏡花にふさわしい。
フランス文学との縁でいえば、鏡花がメリメの小説を愛好していたことは有名だが、それとはべつに皮相的な部分でもうひとつ共通点がある。
それは登場人物の呼び名を必要以上に言い換えるということで、たとえばバルザックの『ゴリオ爺さん』の登場人物でいえば、デルフィーヌ・ド・ニュシンゲン男爵夫人が、ニネット、ドゥデル、フィフィーヌと、いろんな呼び方をされて、だれがだれだかわからなくなってしまう。鹿島茂によると、フランスの文学者には隣接した文章に同じ固有名詞を並べるのはみっともないという美意識があるのだそうで、人物の異名を並べたがる鏡花にも同じ美意識が働いているのは、ちょっと不思議な気がする。
『髯題目』はその短さのわりに登場人物、言及される人物が多数で、同じ人物が、灘丸、灘、巴波川、大将、彦左、師匠、などと言われると混乱してしまう。ニュアンスを潰してしまうことはわかっていたが、現代語訳では読みやすさを優先して、できるだけ一つの呼び方にまとめてしまった。
もうひとつ、西洋文学と鏡花作品との関係で思いついたことをつけくわえると、巴波川灘丸の伯父が大久保彦左衛門忠教(本文中では忠教に忠教とルビ)だと平気で語っているのが、気になってしまったのだった。
大久保彦左衛門(1560-1639)の生きた時代と作中の時点(19世紀末)では300年ほどの差があるのだから、伯父や大伯父どころではない、あきらかな大ウソなのだが、地の文でも、灘丸のセリフでも、茶化すことなく、あたりまえのように語られて、そこにツッコミが入るわけでもない。
これを読んで思いだしたのは、自身が騎士でもあったバレンシアの作家、ジュアノット・マルトゥレイが1490年に出版した『ティラン・ロ・ブラン』という騎士道小説だった。
この小説では、主人公の騎士ティランが仕える東ローマ帝国の皇帝は、コンスタンティヌス1世の孫だということになっている。4世紀の皇帝の孫が14世紀に生きているとおかしなことを言っていて、しかも、だれもがそれを平気で受けとめている。以後、実際の西洋中世とはかなりズレのある、架空の世界情勢下での戦闘が語られることから、この小説は歴史改変小説の祖ともいわれている。作中の東ローマ皇帝のおかしな出自は、ウソの物語を語る前にとびきり馬鹿げた大ウソをついておく、語りの作法のようなものに思えもする。
同じような「作法」の感覚は歌舞伎の舞台にもあって、平安時代の登場人物たちが江戸時代の服装をしていたりするのはあきらかにおかしいのだが、まあ芝居のことだからと思いながら、事実や時空を無視したドラマに導かれていく。そして鏡花の小説でも、本当か嘘か眉唾もののエピソードを織り交ぜてから本題を語るといったケースは少なくない。
この種のしらじらしい大ウソには、洋の東西を問わず、作り物の物語を物語る上での「作法」のようなものが共通しているのではないか、という気がしてしまう。
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丁寧に読んでいくと作中には、仏教説話や、歌舞伎の『切られ与三』や木阿弥劇や上島鬼貫の俳句や丘爲の『左掖梨花』や『伊勢物語』などなど、じつに幅広い引用が散りばめられていて、もちろん私が気づかなかったものはたくさんあるはずだ。
難しいことばを辞書で調べたり検索したりして気づくのは、その言葉の用例に尾崎紅葉の小説が引かれていることが多いことで、これは紅葉が添削をしたからなのか、鏡花が師の小説で使われた用語を使いたがったのかは、原稿の調査などという話になってしまう。だが少なくともこの時期はまだ、鏡花の最初の読者にして最大の読者は紅葉だったわけで、師の名前をはばかって作中では「紅葉」ということばを使わないほど、その意識は徹底していた。本作でも第一節では、「無花果と柿の葉のまばらにもみぢした」と、紅葉をもみじと言い換えている。
この人にわかってもらえればいいと思って鏡花が書いていた相手が、同時代の英文を読みこなし、まだろくな注釈もなく研究も進んでいなかった時代に『源氏物語』を二ヶ月で読了して自作の糧にしたという、驚異的な読解力の持ち主で博聞強記の紅葉だったというのは、作品の質を高めるうえでは大いにプラスになったろうけれど、現代の読者からすると、だから読むのに苦労するんだという気にもなる。
さて、篇中でもっともあからさまな引用といえば、『西鶴諸国ばなし』の一篇「大晦日はあはぬ算用」だろう。
「大晦日はあはぬ算用」は、貧困武士が集まった宴会の最中に十枚あったはずの小判が九枚に減っていたという騒ぎが起こって、武士たちは着物を脱いで身の潔白を証明しようとする……という話である。このアイデアがそのまま、『髯題目』の三明講の場に移植されている。
西鶴のこの原作には多くの翻案があるのだそうで、なかでも真山青果の戯曲『小判拾壹両』と太宰治の『新釈諸国噺』中の「貧の意地」が有名だ。近代作家たちが心理劇としてリメイクしているのに対して、鏡花は逆に大時代な旧劇の舞台めかした潤色を施して西鶴を引用している。ただしその引用のしかた自体は、プロットを組み立てる上での仕掛けとしてのみ、その趣向を活用するという奇抜なものだ。原作やそのリメイクが、あくまでも小判をめぐる人間模様なのに対して、鏡花の場合は、失くなった数珠のゆくえなど、もはやどうでもいいのである。
こういうところが、いかにも技巧第一の鏡花だな、と思わせる。
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引用といえば、『髯題目』のヒロイン、縫之助と小燕は、生きたモデルからというよりも、イメージの引用で創られた女たちだという気がしている。縫之助の名前が初めて登場したさいには、三太郎の家の屋根裏の壁に貼られた彩色画から想い出がたぐられたのだが、それ以降も静止したポーズを起点にして動作や言動がつながる印象が強い。
とくに、三太郎が縫之助と最後に会った記憶を語る場面、
扱帯の片膝立の、茶碗酒で呷りながら(全集巻3、p464)
というポースは、まるで宮川長亀の「遊女閑談図」という絵を見ながら書いたかのようだ。
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0034705
ついでに言っておくと、章題にもなっている「紫帽子」というのは、紫の野郎帽子のことで、野郎帽子というのは普通に想い浮かべる帽子ではなくて、写楽の描く女形がよくおでこに着けているアレのことである。
https://www.hum.pref.yamaguchi.lg.jp/collection/img/index_p03_l.jpg
この紫帽子が、鏡花の愛読書だった『雨月物語』の一篇、死体を食らう僧を描いた「青頭巾」を暗示している、と考えるのは穿ちすぎだろうか。
そういえば、鏡花の最愛の書であった十返舎一九の『膝栗毛』も、死体をもてあそぶ気味の悪い悲喜劇から幕を開けるのだった。
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『髯題目』の舞台はどこなのか。
粋な名前のついた芸人たちの話なので、最初はなんとなく江戸/東京ではないかと思って読みはじめるのだが、しだいにそうではない気がしてきて、「県下に寺院多といえども」(全集巻3、p483)とあるので、やはり地方の話らしい。最後に「和歌の浦には名所がござる」という木遣り節が唄われるので、最初は紀州和歌山の話ではないかと思った。巴波川灘丸が伯父だと言っている大久保彦左衛門の出身地は愛知県岡崎市で、やはり和歌山が近い。地図で見ると、近くにある城跡や寺の様子も、なんとなく似通っている。
一方で三十一章で按摩が語る毒蛇の伝説は、『由縁の女』で語られていた、加賀騒動から派生した物語とそっくりなので、金沢のようでもある。
判断が付きかねていたのだが、同じなろうで現代語訳を書いていらっしゃる秋月しろうさんから紹介していただいた、Web上で読める「泉鏡花『髯題目』論――芸人たちの行方――(市川祥子)」という論文を読むと、すでに金沢だということで決着がついているようで、理由は「小松・ 金沢間の北陸線の開通は明治三十一 年四月一日であり作中の時間は発表時とほぼ重なる設定であると考えてよい」ということと、紅蓮寺のモデルが「通称蓮寺という白髪神社別当紅林山持明寺」だろうという先行論文があるという二点。
また「和歌の浦には名所がござる」は、江戸後期に流行した端唄で、特に地元の歌を歌ったというわけではないらしい。
そもそも『新編 泉鏡花集』では、『髯題目』は「第1巻 金沢一」に収録されているわけで、やはり舞台は金沢ということで決まりのようだ。
ちょっと違和感があったのは冒頭に出てくる鳥差(鳥刺し)の姿で、鳥刺しというのは、いまでは禁止されている鳥黐を使って、愛玩用として人気のある小鳥を捕まえて人に売ったり、ブリーダーのようなことをして稼ぐ、かつて存在した職業だったのだが、いまとなってはモーツァルトの歌劇『魔笛』に出てくるパパゲーノとしてしか接する機会がない(こういう特殊な職業が、洋の東西で同時に成立していたというのは、不思議な気がする)。
この鳥刺しについて、仲田定之助の『明治商売往来』では、次のように書かれている。
「そのころ、手ぬぐいを吉原かぶりに、縞の着物の着流し、雪駄ばきの男が細長い竹ざおを持って路地から路地へ、うろうろと歩き回っていた竹ざおの先にはやわらかいゴム液のような鳥黐が塗ってあって、露地にわずかな緑の影を落としている植木の枝にとまる小鳥を探し求める。そんな小鳥が見つかると、抜き足差し足忍び寄って、塀越しに竹ざおをのばして刺し、それを持っている竹かごにおさめる。その男は鳥刺しが商売なのである。」
一種の洗練すら感じさせるこの鳥刺しの身なりと比べて、『髯題目』に出てくる鳥刺しは山の猟師そのものの姿だ。しかも腰には、「熊の皮の腰当て」というものをぶら下げている。この腰当てというものがわからないので調べてみたのだが、文字どおりお尻の部分を隠すように獣の毛皮をぶら下げる、猟師の装備だった。しかも石川県や富山県あたりの猟師に特徴的な装備で、同地からの移住とともに各地に点在しているという記述もあった。
ネットの記事を探しただけなので確かな話ではないのだが、やはりこれも、故郷で見かけた鳥刺しを趣味とする猟師の姿を、和歌山らしき土地に混ぜこんでいるのではないか。
舞台はどこなのかということについて結論すれば、後期作品において金沢を朧化したような洗練されたぼかし方ではなく、たんに明言しないという方法で描かれた和歌山であって、ふたたび日夏耿之助のことばを借りれば、「江戸のやうな田舎、田舎のやうな江戸、これが鏡花世界である」(評論「名人鏡花芸」)ということになる。
また、そういった不案内な土地を舞台にした鏡花作品では、母的な女性が登場する機会が少なくて、物語が極端に冷酷な性質を帯びることも多い。
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極端な冷酷といえば、本作で執拗にくり返される縫之助の死体の描写は、読者の再読を妨げがちなほどに陰惨なものだし、ひたすら死をのぞむ三太郎おじいや、最後の希望が自殺であった小燕の姿に接すると、ほとんど自殺願望を吐露した作品のようにさえ思える。
実際に鏡花は、明治27年の父親の死から、紅葉が自殺を心配するほどのダメージを受けていたのだが、本作を再三読んで受けた印象は、絶望一辺倒というわけでもない。むしろ、暗く冷酷な基調のなかに織り交ぜられた皮肉な笑いや風刺から、それでも生きていこうとするしぶとい生命力を感じてしまうのだが、どうだろう。
同輩の芸人たちについて語る三太郎や灘丸のことばは自虐に満ちているのだが、その一方で姑御や講中の女たち、唐崎三明を描写する語り手(作者)の叙述は、祭りあげながら貶める、褒め殺しの遊びにあふれている。
それどころか、科学と合理主義の権化のような、冷酷非情の唐崎三明の名前を、「えす・からさき」と仮名書きして、わざわざ大工の息子だと断ったりもしている。これはキリスト教をからかっているのだとしか思えない(当時はよく「イエス」を「エス」と表記していた)。
もっとも鏡花の場合、そういった反発は、自己の特殊な価値観を維持するために必要な仮想敵とみなしたからであって、べつに思想的な根拠を持って否定しているわけでもないのだ。
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以上、乱雑な文章になってしまったのだが、現代語に移しながら感じた『髯題目』の魅力は、読者を選ぶ作品ではあるものの、鏡花作品に求められがちなファンタジックなムードへの期待を握りつぶすかのような衝撃力にあると思う。最初にこれを読むべきだとはけっして思わないが、いくつかを読んだあとに読めば、鏡花作品の驚くべき多様性を実感できる。
名作といわれる作品と比べて、それには届かないところもあれば、はるかに上回るところもあって、読者のコンディションによって嫌な作品にもなるし、救いだと思える作品にもなる。私にとっては欠点も美点もまとめて愛すべき作品になったので、自分なりに訳してみることになった。
最後に、もしかするとその欠点にあたるものかもしれない部分の話が残ってしまったのだが、もしかするとこれは欠点ではなくて、私がちゃんと読めていないだけなのかもしれない。
「素袷」という章名のことばの意味は、素肌に袷の着物を着ているという意味であって、これは章中の小燕の着衣の状態を示している。その様子は九節で詳述されていて、
「素袷の花色裏がはつきり青畳の上へ折返つて、蒼味を帯びた縮緬は冷ツこさうに飜れて居た。」(全集巻3、p465)
とある。「袷」は、裏地のついた着物のこと。「花色」は、縹色と同じで、明るい薄青色のこと。「飜」の字は「飜る」と読むのが本則のようなので、「飜れる」ではなくて「零れる」などと書くのが正しい。ここは、
「素肌に着た袷の縹色の裏地が青畳の上に鮮やかに折りかえって、青みをおびた縮緬のその色は、さも冷たげに零れだしていた。」
と訳してみた。小燕は肌着を着けずに、青い裏地の袷を着ているのである。
これが三明講の場の十七節で、合羽屋の婆さんによって脱がされてしまうと、小燕は、やはり肌着は着けていなかったのだが、胸もとには包帯を巻いている。それを「脱がす」とか「肩をすべつて、手を抜ける」(同p491, 492)とかいう話になるのだが、包帯を解くとか解くとかではなく脱がすというのは、いったいこの包帯はどれほどの大きさで、どんな形状をしていたのだろうか(下記参考記事参照。当時はちょうど包帯ということば自体が民間で使われはじめた時期のようなので、鏡花がどんなものを考えていたのか、なおさらわからなくなる)。
と、ここまでは単純に読解力や知識の問題なのだが、小燕の胸から包帯が取られてしまうと、
「合羽屋は脱がした衣服の紅の裏を翻して」(同p492)
と書かれていて、混乱する。
いったいなぜ、袷の青い裏地が赤い裏地に変わったのだろう。
合羽屋の婆さんが赤い裏地の着物を着ていたのに引っぱられて、鏡花の筆が滑ったのか。小燕が短い間に着替えをしたのだと読み取れというのか。あるいは上の語釈のなにかが間違って、私が勘違いをしているのか。
いったん疑いはじめると、ほかの部分まで勘違いに思えてくるのが恐ろしいし、たぶん、その恐れは何度も的中するのだろう。
(了)
参考:
明治時代の包帯法
国立国会図書館デジタルコレクション
『実用繃帯学 改正増補3版(明治32年)』(二九)胸三角帯
https://dl.ndl.go.jp/pid/834352/1/26
包帯の歴史
くすりの博物館 ガーゼと包帯
https://www.eisai.co.jp/museum/curator/column/101105c.html
秋月しろうさんに、訳文の抜けや不統一、タイプミスのご指摘をいただきました。ありがとうございました。




