木遣音頭
三十一
「へい、あの馬場でござりますか、ありゃなんでござります。お城のあとでござります。私のような者にはまったくわかりませんが、なんとかいう強い大将が籠城をしていたそうで、隣国の殿様に城を落とされましたとき、逃げ道がござりませんので、奥女中やお腰元らは、いずれも一粒選りだったのが、ご新造さま、みんなあの盲目谷へ落ちて死んでしまいましたそうで。ご存じでござりましょう、あそこには変な蛇がたんとおります。それがそのときの腰元たちの妄念なのだそうで。烏蛇のような太い奴の頭のところに笄を差したようになっておりますって、見た人がみんな言います。私なんざ、このとおり目が見えませんから、一度も見たことはござりません」
と、呼ばれてきた按摩は、背後から小燕の背中を揉んでいる。硯箱に肩肘をついて、小燕は傍らに置いてある、ページの開いた分厚い帳面を斜めに見下ろしながら、横座りになっている。小燕はこのとき洗い髪で、袷の上に半纏を軽くひっかけていた。晩飯の済んだあとで、家の奥まったところにある台所からは、立ち替わり入れ替わりする下女たちの足音がして、立ち働く気配がしている。ときどき、皿小鉢を洗う音も響いてきた。仏間では姑御が経を読みながら叩く鉦が鳴っている。
「しかし、一念と申しますものは、もう、いつまでも消えはしませんものでござります」
小燕は黙って聞いていたが、帳面をパタリと閉じて、二、三冊積みかさねると、硯箱に並べて引きよせ、両手を重ねて頬を支えたままがっくりとうつむいて、じっと物思いに沈んでいた。風が少しも吹いていないので、灯りの炎も沈みこんだままで、経を読む声が冴えて聞こえる。相手が気乗りしない様子なので、按摩も黙ってしまった。あたりがしんとする。
「あ、痛たたたた」
と、小燕が口のなかでつぶやいたのを按摩は耳敏く聞きつけた。
「どこぞお痛みになられますか」
「なに」
と言ったが、足をよじらせながら堪えている。
「お乳じゃあござりませんか」
「ちっとばかりお腹が痛んでね」
と、小燕は上の空で言った。
「お冷えあそばすのでござりましょう。お布団は敷いていらっしゃいますか」
小燕は答えなかった。
そのとき下女が襖を開けて、
「ご新造さま」
それを引き取って、按摩が返事をする。
「ご新造さまはお腹が痛みあそばすってことだよ」
「それはお悪うございますね」
と、膝を進めて部屋に入ってきた下女が見ると、小燕は硯箱にもたれたまま、うとうととしている。
「おや、お楽になりなさったようだよ。按摩さん、ちょっと横におなりあそばすように申そうかね」
按摩は背中の治療をやめて、
「は、どうぞ、それがようござります」
「ご新造さま」
「ああ」と言って、ハッと目を開いた小燕は、キッと座って襟もとをただした。
下女は手をついて、
「ただいまお風呂はいかがかと申しに参りましたのでございます。あの、ご隠居さまはあとで入るとおっしゃいますが、どういたしましょう」
「なんだかゾクゾクするようだから、私はよすことにするよ」
「はい、それではちと横におなりなさいませんか。お腹がお痛みなさいますそうで。お加減はいかがでございますか」
「瀧!」
「はい」
「お前たちはなんともないかい」
と、小燕はじっと下女の顔を見た。
「なんでございます」
「お前たちも食べたろう。あの、今日十蔵が山から採ってきたと言った、あの茸さ」
「いいえ、頂きましたけど、だれもなんともございませんが」
「ご隠居さまはおあがりではなかったね」
「はい、めしあがりません」
小燕は頭を傾けた。
「私はその茸にあたったのではないかと思うんだよ」
「へい、茸はどんなのをめしあがりました」
と、按摩が尋ねる。
「黄色い珊瑚の枝のようなの」
下女が口を出して、
「按摩さん、舞茸のことさ」
「ええ、あれならあなた様、あたります気遣いはござりません」
「ご新造さま、大丈夫でございますよ」
「そうかね、それだけど、あの馬場とかいう所で取ってきたって、言ってたじゃないか」
「そんなことを申しておりました」
「それだと、その、なんじゃないか。笄をさした蛇の歯形でもついていて、それがいけなかったんじゃあるまいかね」
「滅相もない。みんなあそこから採って参ります。ほかの場所で採ることはそんなにござりませんが、ついぞこれまで、茸にあたったという噂は聞きません」
「お案配がよろしくございませんか」
「そんなでもないよ、すこしよくなったようだ」
と言ったそのとき、顔色が変わった。小燕はしばらくうつむいて胸を押さえていたが、ぶるぶると身震いをして、ツッと棒のように立ったかと思うと、
「あっ」
と言ってバッタリ倒れた。下女は慌ただしくすがり寄ったが、手も触れさせずにまた起きあがって、しっかりと膝を組みながら、着物の裾を引っ張って、ぴったりと合わせている。手がわなわなと震えていた。
「瀧」
「はい」
と答えながら、しり込みをする。
「十蔵を、十蔵を呼んで」
と、それだけ言ったところで、ハッと硯箱に額をあてた。元結いの根がゆるんで、サッと黒髪が肩にかかる。下女は飛びあがるように部屋から駆けずりだした。按摩が後ろからしっかり抱いた小燕の身体は、震えあがって仰向けに反った。
「こ、こ、こりゃ容易なことじゃねえ」
「ご新造さま、ご新造さま」
急を聞いて駆けつけたとばかり、姿を現した十蔵は、入り口に膝をついて、畳に拳をつきながらずり寄ってきた。あとからばらばらと、四、五人の使用人たちが、次々とついてくる。
「ご新造さま、もし、ご新造さま」
と言いながら、部屋の真ん中へじりじりと進んでいた十蔵は小燕にすり寄って、
「ご新造さまよ、えい、姉えよ、十蔵です」
「うん」
と言って、小燕は青白くなった顔を上げる。十蔵は目の色を変えて、
「姉え、お前、姉え、お前、あっしが採ってきた……」
と言うことばもしどろもどろで、十蔵は不吉な予感にさいなまれている。
そんな十蔵の様子を見て、小燕はホッと息をつくと、頭を横に振った。
「いいえ、お前のせいじゃない。もしも茸にあたったんだったら意味がなくなると思って聞いたんだ。十さん、私ぁ……」
と言って口をゆがめた。みぞおちを固く押さえながら、
「私ぁ、飲んだの。御隠居様にあとを頼みますって言っておくれよ。いつも私が言ってたようにしてくれって。あ、あ、あっ」
と言いながら、手でつかんだ算盤を胸もとにあてて、両手をかぶせるとみぞおちを抉るようにグッと押しつけて背中を揺すった。膝は離さないまま、合わせていた。
十蔵は拳を握りしめてそのまま立ち上がると、障子であろうが、襖であろうが、バタバタと開け散らして、部屋の真ん中で地団駄を踏んだ。
「出てこい、出てこい、婆あ、やい、鬼。小燕さんが毒を飲んだぞ。姉えが自殺をしたんだやい」
襖にぶつかって向こうへ倒すと、そこで隣室の様子をうかがっていた姑御は数珠を手にしながら、澄ました顔で、
「静かに」
と、部屋に入ってきた。
十蔵はその姿を前に、どさりと尻餅をついた。が、気を取り直すとあぐらをかいて、目を見開いた。
「あっしが姉えほどの者をいびり殺しやがった。ひでえ奴だ。婆あ、なにも言わねえから、ありったけの身代を葬式にかけてくんねえ」
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粂屋の全財産の半分はつぎこんだだろうという小燕の葬式は、人々の耳目を驚かせた。それが前代未聞だというのは、ただ棺や旗や天蓋が贅を尽くしていたからというだけではない。
棺を担いだ十蔵も嬉しそうであった。それまで不思議に命をながらえていた三太郎おじいは、見送りの列を縫いながら袖を広げて、踊って歩いた。今は落ちぶれているが、いずれも一芸に秀でた老大家たち、灘丸をはじめ、耳の聞こえぬ音松も、銀流しの帰蝶も、ラッパの一口斉も、破れ壁のあばら屋からむらむらと姿を現して、皆で棺を見送ったが、だれもが喜びにあふれて見えた。なかでもてんからの仁助という、相撲狂いで櫓太鼓の名人でもあり、顔の平たい、背の低い、延ばした舌で鼻を舐められるという唇の厚いおやじは、一杯機嫌で、十五町にもおよんだ長い葬列の露払いだと称してまっ先に立ったが、人は死んでも二日経つとよみがえるものだと言って、いっこうに動じていない。のんきなもので、赤い鉢巻頭で正面切って、青い袖の襦袢を両肌脱いだ草鞋がけで、ちいさな日の丸の扇をひろげて、道すがら木遣節を唄った。
和歌の浦には名所がござる、
一に権現、二に玉津島、三に下り松、四に塩竃や。
(了)




