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それからというもの、マヤはすごく頑張った。
ミルクを与え、おむつを替え、夜泣きしまくるフェリックスを抱え森をウロウロ二人で歩き、時には熱を出したフェリックス抱え、アリサの家まで走っていったこともあった。
多くの苦労と困難があったが、一方でフェリックスはマヤに大きな喜びも与えた。
やれ寝返りした、立った、歩いたとフェリックスが成長するたびにマヤは大いに喜んだ。
こうしてフェリックスは5歳になっていた。
この日、マヤはアリサの家に行くために早朝から起きていた。
朝食を作りながらフェリックスが起きてくるのを待っていたが、いつまでたっても起きてこなかったため部屋を覗くと、フェリックスはまだベッドの中で丸くなって寝ていた。
「お~い、今日はアリサのとこに行くと言っていただろ~。早く支度しろよ~。」
「…ん。」
フェリックスのむずかるような表情にマヤは知らず知らずのうちに相好を崩す。
「フェリックス。…フェリ。そろそろ起きてくれ。」
マヤの呼びかけにモゾモゾと動きはするが、起きる気配はない。
「ふぅ、まったく困ったやつめ。フェリックス、早く起きな。」
「…んむ~。…ぼく、おチビちゃんじゃないもん。」
フェリックスはまだ子ども特有の舌っ足らずで、《さ・し・す・せ・そ》の発音が甘いところがある。
「ははは。いや、まだまだおチビさんだよ。お寝坊のおチビさんだ。」
フェリックスはようやくノソノソと起き上がり、眠い目をこすっている。
「…ん~マヤちゃ、おはよ。」
「あぁ、おはようフェリックス。おいで、もうごはんできてるぞ。」
その言葉にぱぁっとフェリックスの瞳が輝きだす。
「ごはん!マヤちゃ、早くいこ!」
「そう急がなくてもいい。朝食は逃げないからな。」
そう言いながらマヤはフェリックスの後ろを歩きだす。
二人のこれまでの日常はこんな風にありふれた風景の中にあった。
「あ~!いらっしゃい、マヤさん、フェリックスくん。」
遅めの朝食をとり、アリサの家へ行くと相も変わらず騒がしく出迎えてくれた。
「アリサ、遅くなって悪かったな。」
「いいのよ。ま~た、フェリックスくんのお寝坊さんじゃないの~?」
「ちがうもん!ぼく、お寝坊ちゃんじゃないもん!」
「はぁ~!可愛い!!お寝坊ちゃんですって!」
アリサは以前マヤがフェリックスを連れてきたとき、「アリちゃ」と呼ばれたことをきっかけに、フェリックスの舌っ足らずさを愛でているようだ。
「…。じゃあ、そろそろ私は行く。アリサ、フェリックスを頼む。」
「うん…。マヤさん、本当にいいの?絶対後悔すると思うよ?それに、フェリックスくんだってきっと…」
「いや、いいんだ。きっと、この判断は正しい。」
正しい、と言いながらそうあってほしいと思っているようなマヤの横顔をみると、アリサにはもう何も言うことはできなかった。
「?マヤちゃ、どっかお出かけ?」
そう尋ねるフェリックスの視線に合わせるようにしゃがみ込んだマヤは、フェリックスと額をこつんと合わせ目を閉じる。
なにか、願いをかけるかのように。
「…あぁ、私はしばらく旅にでる。フェリックス、離れていても私はずっとお前を想っているよ。」
フェリックスはきっとこの言葉の本当の意味を分からなかったに違いない。けれど、マヤが自分を置いてどこかへ行ってしまうのではないかという不安が小さな胸をいっぱいにした。
知らず知らずのうちにフェリックスの瞳には涙でいっぱいになる。
「~っいやだ!マヤちゃが行くなら僕も行く!一緒に連れて行って!!」
「フェリックス…」
マヤはぎゅうっと力いっぱい抱きしめた。小さいこの子には少し痛みを感じるのではないかと思ったが、抱きしめたこの感覚をフェリックスにも覚えていてほしかった。
「ごめんな。自分勝手だな、私は。けど、聞いてくれフェリ。私は魔女で、お前は人間だ。お前は人間としてこの先も生きていかなくてはならない。…私では教えてあげられない。今日からは、アリサと一緒に生活していくんだ。学校に行って友達を作って、たくさん遊び、学べ。」
フェリックスはマヤの胸に顔をうずめたまま、ブンブンと首を横に振る。
「行かない!僕、学校行かなくていい!マヤちゃがいいの!ずっと一緒にいてよ!!」
そんなフェリックスの様子をみてマヤは思わず苦笑する。フェリックスは普段あまりこんな風に駄々をこねることはしなかったからだ。
「フェリ?フェリックス?聞いてくれ。もし、お前が成人するまできちんと勉強して、人間の生活も知って、それでもまだ私と一緒にいたいと、そう思ったら私を訪ねてくるといい。今日からしばらくあの家は無人になるが、フェリが成人するときには帰ってくる。」
「…ほんとうに?」
ぎゅっと抱き着いたままフェリックスはマヤを見上げる。その瞳にはまだたくさんの涙が残っている。
それをぬぐってやりながらマヤはフェリックスの額に小さくキスを贈る。
「もちろん。魔女は嘘をつかない。教えただろ?」
「うん…。」
「いい子だ。」
そうして立ちあがるとマヤはおもむろに右手をさっと一振りする。すると何もなかった空間から杖があらわれた。
その杖をさらにもう一振りすると、あの魔女の象徴ともいえる黒く大きい帽子が現れた。
その帽子をかぶり、マヤは室内を見渡す。
そしてアリサ、フェリックスの順に視線をむけ、にっこりとあの魅惑の微笑みを浮かべる。
「アリサ、あとは頼んだ。」
「うん、任せて。」
「フェリックス、元気で。」
そう言うや否や、突如として室内に風が吹き荒れマヤの姿は掻き消え、室内には、フェリックスの大きな泣き声だけが響くばかりだった。