われやすいたまご奇譚
卵が簡単に割れるという夢を見た。調理台に軽くぶつけるだけで殻にひびがはいり、卵焼きでも目玉焼きでもお望み次第。うっかり床に落とそうものなら完全につぶれて使い物にならなくなってしまう。
「そいつはまさに夢物語だな」
僕の話を聞いていた高田さんは、そう言って笑った。今年五十歳、この現場の最年長だが、その雄大な胸板は若手にまったく見劣りしない。腕や肩の筋肉ときたらまるで造山活動の権化のようだ。
「そうそう。卵が簡単に割れるなんていうのは、進化論の見地からいえばありそうにない話ですね」
横から話に入ってきたのは伊藤くん、こちらはこの春大学を卒業してうちの工場に入ってきたばかりの若手だ。高田さんを山脈とするなら伊藤くんは活火山である。筋肉の量では及ばないが、はじけんばかりのエネルギーが全身にみなぎっている。
「かりにそういう割れやすい卵を産むニワトリの血筋があったとします。そうした卵は、ぶつかったりつぶれたりといった事故が起こって、ヒナがかえる前にだめになってしまう可能性が高いでしょう。その結果、割れやすい卵を産む血筋はだんだん滅びて、割れにくい頑丈な卵を産む血筋だけが生き残ることになります。適者生存というやつですね」
伊藤くんが得々と語るのを聞いていたら何か言い返してやりたくなった。とりあえず頭に浮かんだことを口に出してみる。
「でも、品種改良すれば割れやすい卵を産むニワトリも作れるんじゃないか」
伊藤くんは鼻で笑って、「品種改良って、どうやるんです」などという。僕は、それにはまずなんとかして割れやすい卵を見つけて、その卵を壊さないように慎重に孵化させて、生まれたヒナを育ててつがいにしてまた卵を産ませて……と思いつくままにのべたてた。伊藤くんはニヤニヤと笑った。
「そもそも割れやすい卵と割れにくい卵をどうやって見分けるんですか」
「割ってみればすぐわかるじゃないか」と答えてから気がついた。割ってしまったら卵がかえらない。われながらバカなことを言った。きっと伊藤くんが嬉々としてあざけるだろうと思ったが、そのまえに高田さんが割って入った。
「まあ、あれだ。もし卵がそんなに割れやすかったら、そこらへんのスーパーとかコンビニでふつうに卵を売るようになるかもしれんな。誰でもそれを買って、自分で割って料理できるわけだ」
「そうするとわれわれは商売あがったりですね」と伊藤くん。僕は思わず口を開きかけたが、そのとき部屋のつくりつけのスピーカーからチャイムの音が流れた。高田さんが「さあ、おしゃべりは終わりだ。仕事の時間だ」と告げて自分の前の作業台に向き直った。台の上に置いてあるカゴから卵を一個とる。作業服の下で筋肉がふくれあがった。
「そりゃーっ」
景気のいい掛け声をひとつ、高田さんはその場でつむじ風のごとく一回転、二回転すると、その勢いを乗せて卵を作業台にたたきつけた。ピシリとかすかな音がして、卵の殻に細いひびが入る。学生時代にやっていた円盤投げのフォームをもとに、高田さんが長年かけて磨き上げた技である。あとはひびに指をかけてこじあけ、中身をボールにあけるだけだ。
そのとなりでは伊藤くんが「トウッ、トウッ、トーウッ」と裂帛の気合を発している。高田さんと違って伊藤くんは道具を使う。台の上に置いた卵につづけざまに振り下ろすのは、両手で握った刀だ。刃こそついていないが、金属でできたずっしりと重いやつである。その刀で卵の殻の一点に秒間三回もの打撃を加えるという絶技を披露、入ったひびにナイフの先を差し込んでこじれば、卵はみごとまっぷたつというわけだ。性格にはちょっと嫌みなところのある伊藤くんだが、その技はいつ見ても賞賛を禁じえない。
もちろん僕も手をとめて二人の仕事をながめていたわけではない。卵を両手でつかんで、全力で作業台に打ちつける。殻の強度が限界を超えてひびが入るまで、打つ、打つ、ひたすら打つ。高田さんや伊藤くんのような際立った技を持たない僕には、こんな力まかせのやりかたしかないのだ。残念ながら、手際はおせじにも良いとは言えない。僕が一個割るあいだに高田さんと伊藤くんは二個ずつやっつけている。高田さんが気づかわしげな目を、伊藤くんがいらだたしげな目をちらりとこちらにくれるが、僕は気がつかないふりをしてつぎの卵に手をのばす。さっきチャイムが鳴ったせいで言いそびれた言葉が、ずっと胸の中にただよっている。
――もし卵がだれにでも割れるようになったらこのくそったれな仕事から足を洗うことができる。大歓迎だ。
結局この日も僕のノルマは時間内に終わらず、高田さんと伊藤くんにも手伝ってもらって残業するはめになった。
言うのが遅くなったが、うちの会社は卵焼きの製造と販売を業務としている。僕や高田さんや伊藤くんの仕事はその材料の卵を割ることだ。
俗に「巨人、大砲、卵焼き」などといわれる。巨人のごとき腕力をもってたたきつけるか、さもなければ大砲の弾を当てるぐらいのことをしないと、卵を割って卵焼きにありつくことはできないという意味である。やや誇張した言いかたではあるが、卵を割るというのはそのぐらい大変な仕事なのだ。
家に帰ると、小学生の息子が玄関に走ってきて出迎えてくれた。いつもはテレビかゲームにかじりついていて出てこないのだが、めずらしい。
「お父さんお帰りなさい。あのね、きょう村井くんの家に遊びに行ったら、村井くんのお父さんとお母さんがね」と言いかけるのをさえぎって、台所のほうから「お父さん、玄関先に立ってないで早く中に入ってちょうだい」と妻の声がした。すこし不機嫌な声である。さもありなん。今日の夕飯当番は僕のはずだったのを、残業のために妻に代わってもらったのだ。
息子がさかんに話しかけてくるのを適当にあしらいながら台所をのぞきこむ。食事の支度はあらかたできたところで、妻は味噌汁の鍋をにらみつつ野菜炒めを作り終えたフライパンを洗っているところだった。その流しの横に茶色い紙袋が置いてあるのがふと気になって中を見ると、卵が五個入っていた。
「おい、この卵どうしたんだ」
思わず聞くと、息子と妻がいっせいに冷ややかな視線を浴びせてきた。
「いまその話をしたじゃない。お父さん聞いてなかったの」
「食事の支度を代わってもらってありがとうとかすみませんとか言うのが先じゃないの」
息子の話は聞き流していたし、妻に謝ることは卵を目にした瞬間に頭の中から吹っ飛んでいた。平謝りして機嫌をなおしてもらい、どうにか聞き出したところによれば、この卵は息子が友達の村井くんの家でもらってきたものらしい。村井家も知り合いからもらったのだが、卵を割ることができるほどのマッチョがいないので、うちにまわってきたのである。
「なるほど、わかった。そういうことならさっそく卵焼きをつくろうか」
僕は腕まくりをして力こぶをつくってみせた。妻が「えっ、今から?」などと言っているが、卵を二個か三個割って卵焼きをつくるのに大した時間はかからない。夕飯のおかずが一品増えて豪勢になれば、妻も息子もうれしいだろうし、僕の株も下げ止まるというもの。袋の中から卵を一個とると、ステンレスの作業台めがけて渾身の力でたたきつけた。卵はあっけなくへしゃげてつぶれ、殻と中身がそこらじゅうに飛び散った。あっという間もないできごとだった。
何が起こったのかわからなかった。ほんとうなら十回ぐらい続けざまにたたきつけてようやくひびが入るはずなのだ。ただのひと打ちで原形をとどめないほど粉砕されるなんて、こんな卵は見たことも聞いたこともない。いや、今朝の夢に出てきたか。あれは正夢だったのか。
僕は妻にガミガミ言われながらあたりに飛び散ったものを片づけた。小言は聞き流したが、息子がお父さんは職場でちゃんと仕事ができているのだろうかといった目でこちらを見ていたのがずっと心にささった。
食事のあとで残り四個の卵を割ってみた。すべてごく普通の、頑丈な卵だった。割った卵は卵焼きにした。妻も息子も食べてくれなかったので、僕ひとりで全部食べるはめになった。一人で食べるとなると四個の卵というのはけっこうな量で、いささか胃にもたれた。何もいま全部食べなくても、と妻にはまた小言をいわれた。そうかもしれないが、僕としては残りの卵がどんな卵か割って確かめずにはいられなかったし、割ってしまった以上は食べないわけにもいかなかったのだ。
とにかく四個は普通だったわけで、最初の一個があんなのだったことはますます腑に落ちない。夜の十時近かったが、僕は妻にまたまた白い目で見られながら村井さんの家に電話をかけ、卵の出どころを聞いた。村井家に卵をくれた人物は柴田さんといって、町はずれに住んで野菜を作るかたわら趣味でニワトリを飼っているという。
僕は柴田さんの住んでいるところを教えてもらって、通話を終えた。そのときはまだ何というほどの考えもなかった。
未明、僕は柴田家の前で車から下りた。手に持つのは頑丈なバール。
細い月の光で様子をうかがう。柴田家は畑の中の一軒家だった。敷地の奥のほうに母屋があり、その手前の庭のかたすみに小屋らしきものが見える。近づいてみると、中でゴソゴソいう音と低いうなり声が聞こえた。思ったとおり、鳥小屋のようだ。
そろそろと歩み寄って、正面の鉄格子の隙間から中をのぞきこんだ。いた。見上げるような巨体が小屋の中を右へ左へとのし歩き、「グルルルル」とおそろしげな声を出してこちらを威嚇してくる。ただ、二羽しか見えない。村井さんの話では二つがい四羽ということだったが、勘違いだろうか。
小屋の扉のすきまにバールをこじ入れて、力まかせに開け放つと、一羽がのっしのっしと出てきた。僕ははるかな高みにそびえるそいつの頭を見上げた。夜目にも赤く燃え上がるような巨大なとさか。オスだ。僕の目当てはメスだけなのだが、どうやらオスのほうも倒さないわけにはいかないようだ。
僕はここに、例の卵を産んだ牝鶏を殺すために来た。あのあと寝ようとして布団に入ったものの、卵をたたきつぶしてしまった瞬間の感触が、妻の小言と息子の冷たいまなざしが、どうしても頭のなかから消えなかった。気がついたときにはもう着替えをして車に乗り込み、柴田家に向かって走っていた。
僕の前に立った一羽が首を後ろに引いて溜めをつくる。つぎの瞬間シャベルのような巨大なくちばしで突きかかってきた。こんなものをまともにくらったら首から上が跡形もなくなってしまう。さっとかわして、相手がこちらを見失った隙にバールで向こうずねをなぐりつけた。巨体がたたらを踏んだ。さすがに少しは効いたようだ。
僕は追い討ちをかけるべく踏み込もうとして、とっさに飛びのいた。目の前を鋭い鉤爪の生えた足が稲妻のように通り抜けてゆく。遅れて小屋から出てきた二羽め、メスのほうが蹴りをはなったのだ。もし一羽めを深追いしていたら、いまごろは僕のあばら骨は一本のこらず粉々になっていたにちがいない。一撃をくらったオスはこのあいだに体勢を立て直し、ギャーッとものすごい威嚇の叫びをあげた。メスもその横に並び、くちばしを揃えて迫ってきた。僕はあらためて身構え、二羽を迎え撃った。
もしも昼間だったら、相手が一羽だけだったとしても勝ち目はほとんどなかっただろう。だが今は夜明け前、世界を照らすのは出たばかりの細い月と星々だけ。そして相手は鳥目だ。まったく見えないわけではないにせよ、僕が素早く動くたびにむこうは明らかにこちらを見失い、あさっての方向にくちばしや足蹴りを繰り出すのだった。その隙にこちらは死角からバールで打撃を加える。そんな戦いを何分間つづけただろうか、ついに二羽とも地面に倒れて動かなくなった。僕のほうは無傷。
これで、割れやすい卵を産むニワトリはこの世からいなくなった。スーパーやコンビニで生卵を普通に販売し、それを買ってきて家庭で割って料理するという未来図はうたかたと消えた。
もしもこのニワトリどもを殺さなかったら、そんな未来もありえた。そして伊藤くんが言ったように、僕ら卵を割るのが仕事の人間は失業することになったかもしれない。僕なんぞは真っ先にこのいまいましいくそったれな仕事をクビになって、ほかの仕事を探すことになっただろう。そうならずにすむことが少しばかり残念ではあったが、いま僕はまったく満足していた。血まみれのバールを手に下げたまま、穏やかな気持ちで僕は白みはじめた空をながめ、そろそろ警察に向かおうと考えた。もともと事がすんだら自首するつもりだった。
鳥小屋からさらに何かが出てきたのはそのときだった。ニワトリではない。その体はごく小さく、僕の膝ぐらいまでしかない。しかも見るからに華奢なつくりだ。姿を見るかぎりでは鳥に違いないが、ニワトリの巨体とは似ても似つかない。それが二羽。理由はわからないが、さっき倒したニワトリどもと同じ小屋に入れられていたようだ。
一羽が高く頭をもたげて、よく通る声で叫んだ。
「コケコッコー!」
それはニワトリのくぐもっただみ声とは比べものにならない、美しい声だった。すさんでいた心が洗われるような気すらした。
もう一羽はコッコッとのどの奥でつぶやきながらちょこちょこ歩き回っている。あんなたけだけしい凶暴な生きものと一緒に閉じ込められて怖い思いもしていただろうに、いかにも無邪気な様子だ。眺めているとなんだか幸せな気持ちになってくる。
僕はきびすを返して車に乗り込み、警察署にむけて走り出した。