〈8〉
事情聴取を終えた波豆君と僕は横浜で一泊することにした。
有島刑事が紹介してくれた深夜遅くまでやっている中華街の中華料理店で夕食を食べ(凄く美味しかった!)駅前のホテルに泊まる。
二人とも爆睡した。
翌朝、悩み事が片付いて晴れ晴れした顔の波豆君に僕は言った。
「せっかく横浜まで来たんだ。君さえ良かったら何処か観光して帰るかい?」
「ほんと? 俺、いつもトンボ返りだったから観光なんて縁がなかった――というか、一人で街を歩くのに慣れてないから落ち着かなくて。でも探偵と一緒なら怖いものなしだな!」
「いや、それは少し違うと思うぞ……」
「実は行きたいとこ、一つあるんだ。希望を言っていい?」
「いいとも。何処?」
「カワスイ」
「!」
ちょっと意外だった。
カワスイは川崎駅前の商業ビル9階、10階に新しくできた最先端水族館だ。
身近な多摩川から、アジア、アフリカ、オセアニア、南米アマゾンに至る、世界の淡水魚と出会える。
「魚が好きなのか?」
「特別、魚が好きってわけじゃない。でも、取り敢えずこれで――置き去りにした夢を一つ回収できるかなって」
入館するや、目を輝かせて波豆君は言った。
「へー、水族館って、こんな風なんだ! 探偵さんの可愛い相棒さんも一緒だったら良かったな!」
「ハハ、そうだな」
「あの人、恋人? 友達? ただのバイト? 妹――のはずは無いか」
「なかなか難しい質問だな」
曖昧に笑う僕を波豆君は横目で見て、
「探偵は恥ずかしがりやなんだな」
新しい水族館は恋人や親子連れや、友達……幸せな人々で溢れている。
「ヒャッホー! 俺もとうとう、その仲間入りを果たしたぞ!」
周囲を見回して波豆君は満足げに笑った。
「なぁ、俺たちさ、友だちにも、家族にも見えるかな? 昨今の傾向としてBLもありだけど」
「ブッ」
慌てる僕をスルーして真剣な顔で波豆君は続ける。
「俺、一人っ子だから、兄弟に見えてるといいな!」
「僕も一人っ子だよ」
「でも、家族はいるんだろ?」
「両親がね。今は海外で暮らしてる」
「ふーん、寂しくない? あ、それはないか、探偵さんは大人だもんね」
「いや、大人でも」
僕は言った。
「寂しい時は寂しいよ」
「そうなの? 大人になったら、寂しさとは無縁だと思ってた。なぁんだ、だとしたら、大人になっても好いことは一つもないんだ」
「それも違うかな。大人になったら、自分の責任の範囲で好きなことができる。自由ってやつ。これは悪くない」
ヒラリ、コンゴ川の宝石レッドジュエルシクリッドが僕らの前を旋回して通過した。唐突に波豆君が言った。
「俺さ、元々三人家族だったんだ。母ちゃんとばあちゃん。父ちゃんはハナからいなかった。俺が小1の時、母ちゃんが脳梗塞で倒れて……若いのに働きづめのせいだってばあちゃん泣いてたな」
いきなりの言葉に、どう返していいか困惑する僕。淡々と波豆君は続ける。
「母ちゃんは寝たきりになって、ばあちゃんが看病してたんだけど、そのばあちゃんも俺が小4の時、死んじゃって、以来、俺が母ちゃんの世話をしてた」
これまた宝石を砕いて鏤めたようなアノマロクロミス・トーマシンに手を振りながら、
「あ、辛くはなかったんだよ。俺、母ちゃん大好きだったから。辛かったのはさ、母ちゃんが俺に『ごめん、ごめん』って謝る時。そして、『面倒ばかりかけるから、早く死にたい』って言う時。その度に俺、怒鳴りつけてやったよ。『約束を守れ!』って」
小さく息を吸う。
「母ちゃん、倒れる前、その週末の休みに水族館へ連れてくって俺に約束してたんだよ。『俺を連れてくって言ったろ? だから約束守れよ! 守らないと許さないからな! 絶対元気になって俺を水族館へ連れてけよ! その日まで、俺、看病止めないからな!』
俺、待ってるんだからな! ずっと、ずっと……
水槽に映った自分に向かって少年は肩を竦めた。
「それなのにさー、母ちゃん、ホントに死んじゃった。俺、物凄く悲しかった。ほとんど学校行かなかったから、言葉、あんまり知らないけど、まさに絶望ってこのカンジ。だからさ、意地でも、水族館に一人では来たくなかったのさ。誰かと来たかったわけ。さあ、これで――満足したよ。この件はケリがついた」
メタリックな色彩がSFっぽくて美しいコモンシートが泳ぎ去るのを待って、ニヤニヤ笑って波豆君は僕を振り返った。
「メモしとくよ。〝探偵は誰かの母ちゃんの代わりもしてくれる〟ってね――」
考えたら、この日、水族館の中で僕はほとんどしゃべっていない。泳ぎ回る無口な魚たちと一緒に黙って少年の声を聴いていた。
「ヒャア、舐めてみたい! みんな、ヒンヤリして美味そうーー」
「って、ドロップじゃないんだから」
だが確かに。アフリカの台地が隆起してできた湖で、思う存分進化した魚たちは色とりどりでキャンディそのもの。
「でけーな、ピラルク、想像以上だ! あ、アロワナも来た!」
南米熱帯湿原パンタナルに立った僕らを真っ赤な太陽が照らしている。アクアブルーに煌めく澄みきった水底には倒木が沈んで怪物の骨のようだ。翡翠色の水草がさざめいている。
「カピバラって魚の一種なのか! 知らなかった!」
これはホント。館内にはカピバラもいた。
「ねぇ、草、食べさせていい?」
「いいとも。別料金を払えば、ね」
午後4時48分、JR広島駅新幹線ホームに無事帰還。
波豆心平君は僕にアドレスを教えて在来線に乗り換えて帰って行った。
波豆君の家は呉とのこと。そこはいつも海の見える町だ。
僕は自分の画材屋へ戻り、店を開けた。
夕刻、例によって学校帰りの来海サンが顔を見せると僕は声高らかに宣言した。
「この週末、新潟上越へ行くぞ!」