羅城門の鬼
観光地として音に聞こえし京都の街並み。
その外れにある山、その奥に、その滅びた城下町はひっそりと眠っていた。町が災害で滅んだのは既に数百年も過去の話であり、人目に触れることもなく、やがて忘れられ、今は獣どもの住処へと変わり果てていた。
最早栄えた過去を想起できないほどに、その残骸は山の一部と化しているのだ。
しかし一つ。ただ一つだけ、町の名残といえるものがあった。かつて待ちを囲んでいた城壁に設けられた門――羅城門のみが、何故かその面影を僅かに残しているのだ。
これは、その羅城門に棲み着く一匹の鬼を退治する物語である。
一
近日、京都にて行方不明になるものが増えている。警察機関が捜査を続けているものの未だ手掛かり一つさえ見つけること叶わず、世間では警察の無能さについて好き勝手に騒がれていた。
一方、その頃。
古来、影より怪異から国を守護する不可思議な組織――降魔機構『柊』では、疾うに今回の事件の元凶が人外の類いであると断定し、これを解決すべく動こうとしていた。
しかし、ある事情により現状『柊』は人員不足も甚だしく、これを解決できる者を見繕うことが叶わなかった。
故に『柊』の副所長は折り合いの悪い相手ではあるものの、国と人々の守護の為、ある降魔師に事件の解決を依頼することにした。
二
――都内。ある屋敷の客間にて。
「……はあ。それで私に、わざわざ京都にまで行って事件を解決してこい、と。そうおっしゃるのですか」
「当方としても今回のように危険な事件の解決を一個人に依頼することは不本意であり、筋の通らない話しだということも重々承知しております。
しかし、どうか。どうかお国の為に、そして何より京の都町に生きる人々の為に、首を縦に振っていただきたい」
見る者が見れば異様と感じることもあるだろう。しかし何故これを異様と感じる者がいるのか、それを語るには先ず彼彼女の容姿から説明しなければならない。
一人は可憐な顔立ち、長い黒髪を赤のリボンで結び、黒く澄んだ瞳と豊かな胸が特徴的な人物。袖のない黒染めの着物に真白のスカートを履くという奇妙――もとい和洋折衷ともいえる風貌。この少女、この場において名を朝霧と名乗る。
もう一人は幼さの抜け切った男らしく整った顔立ちの人物。髪は切り揃えられ、髭は余すことなく剃り上げられており、皺のない黒のスーツを着こなすその姿は見る者に清潔感と誠実さを感じさせる。この男、今は敢えて名を語らずとしておく。
さて。この光景を何故異様と感じる者がいるのかといえば、スーツを着こなす明らかに成人した男が、未成年の少女に頭を下げ、何かを懇願しているからだ。
それだけであれば平時においても間々あることだろうが、少女の態度が冷たく、また呆れ気味であり、悪い意味で適当な対応をしていることが、一層この場の不自然さを物語ることだろう。
「でもそれ、未成年に依頼するような事案じゃ絶対ないですよね。戦時中ならいざ知らず、今時では明らかにおかしな話しだと思うのですが。
……そもそも私、貴方方からの依頼は全て、金輪際、受けないし断ると。そう申した筈なのですが」
前述の通り、朝霧はまだ未成年の少女である。普段は高等学校に通う身の上におり、可能不可能はさておき、今回のような行方不明者が多数出ているような事件に関わりを持たせることは、本来であれば適当ではないだろう。
しかし……。
「……私が不在の際のことです。北海の地に異界が発生しました。
所長はこれに収拾をつける為、『柊』に登録されている降魔師の殆どを彼の地に送り込んでしまい、結果として現状、『柊』には今回の事件の調査と解決に派遣できる人材が致命的に不足し、どうにも手が回らないのです」
「……。…………は? ……あの、暴言を吐くようで申し訳ないのですが、貴方の組織の一番偉い人って、やっぱり本物のお馬鹿さんなのです?」
第三者からしてみれば実に馬鹿馬鹿しいといえる話しであろう。しかし当事者たちからしてみれば、これは大惨事大問題である。
これには男も苦しそうに言葉を零すばかりであり……。
「……重ねて、お願いします。迅速に、京都で起きている事態を解決するには、もう貴女を頼る他に伝がないのです」
「ええー。いや貴方に直接恨みがある訳ではありませんし、私が行くことで京都の人たちに平穏な日々が戻るのであれば、それ自体は好ましいことなのですが。
……私が事件に関わり解決することを、あの男が許しますかね。というか貴方がここに来ること自体、よく許しましたね」
朝霧と『柊』の所長は、所謂犬猿の仲である。水と油の如く、彼彼女の主義主張は相容れず、交わることがない。
しかし、だからこそ。朝霧にとって傲慢気質と感じて仕方のないあの男が、自らのプライドを他所に、自分に対して何か頼み事をするとは到底思えなかった。
しかし……。
「今回は、私と複数の部下が独断で動いています」
「お、おお。なるほどです。……いや、独断で動いていいのですか、副所長」
畳の薫りが心地良い客間の中、座り心地の良い座布団に座していた彼彼女だったが、男がふいに座布団の上から退き、何もない畳の上で床に手をつけ、頭を垂れた。所謂、土下座である。
そして幾度となく繰り返した言葉を再び口にした。
「どうか、お願いします」
「へ? あ、ああああ、もうっ! やめてください、そんなこと!」
朝霧には、やや古風な感性が残っている。世間がやたらと口にする日本人特有の謙虚さや慎ましさとは別格の、平時における男尊女卑の思想がまだ残っているのだ。
男が女に頭を下げるなんてのは、よほど親しい間柄でもない限りありえない。まして土下座ともなれば、一層のこと。
「わかりました、わかりましたから! 誠意は伝わりました、依頼は受けましょう! 但し『柊』からではなく、貴方個人からの依頼ならば、ですけども……っ!」
「ありがとうございます、朝霧さん。貴女ならそうおっしゃると信じていました」
「……ああ、もう。本当に厭な方ですねぇ、貴方は」
自分が未熟なのか、それとも男が強かだったのか。溜息を吐きつつ、半ば投げ遣り気味に依頼を承諾すると、朝霧はその場から立ち上がり、土下座をしていた男に手を差し伸べる。男が朝霧の手をとり立ち上がると、二人は男の車のもとまで向かった。男の帰りを見送るのだ。
「では朝霧さん。本当に、今回は申し訳ございません。どうか、京都のことをよろしくお願いします」
「謝るなら最初から土下座なんてしないでくださいよ……。
もう、わかりました。私のような未熟者に解決できるかは定かではありませんが、行くだけ行ってみましょう。
ところで、誰か同行者はいるのですか?」
「先程も申し上げた通り、現状は人員不足も甚だしく……」
「ああ、はい。……お疲れ様です。私一人で行ってきますね」
「本当に申し訳ございません……」
そんな社交辞令のやりとりを終えたのなら、漸くこの場面は終わりとなる。
……しかし、その前に少しだけ。
男が車に乗り、鍵を回しエンジンをかける。しかしすぐには出発せず、何かを思い出したかのか、窓を開け、玄関に戻ろうとしていた朝霧に声をかけた。
「すみません、一つ聞き忘れていました。京都への出発はいつ頃になりますか?」
「ん? まぁ、丁度明日は休みですし、今からでも準備して行こうかと思っていましたが」
「わかりました。では至急、現地のタクシーと新幹線の予約をとります」
「んー。……いえ、それは大丈夫です」
走った方が、早いですからね
それを聞くや否や、男は失笑すると一礼をし、そのまま車を走らせるのであった。
三
――数刻後。二人の女が京都の街並みの中を歩いていた。
「いつもすみません、地子さん。いかんせん、こういう場所の調査は苦手気味でして……」
「別に、気にしなくてもいいわよ。ちゃんと今回の依頼料はもらってるし、私だって貴女にはよく助けられているもの。だから、お互い様じゃない?」
「そう言ってもらえると助かります」
一人は朝霧と呼ばれるこの物語の主人公。
もう一人は愛らしくも凜々しさのある顔立ち、やや紫がかる瞳の人物。焦げ茶の長い髪にはウェーブがかけられており、ホルターネックの白のキャミソールにやや大きめの――紳士向けの黒のコートを羽織る風貌。この女、名を橋本地子という。
男のときとは打って変わって、朝霧の様子は随分と気易いものだ。しかしそれは当然といえるだろう。
彼女たちは元々良い友人関係にあるのだ。今回のような怪事件を、数度共に解決へと導いたことがある。
今は、朝霧が地子に調査の協力を依頼しているという形である。
「まぁ、京都で起きている事件に関しては、私も気になっていたところだったから。むしろ、今回貴女に便乗できて良かったわ」
「できれば巻き込みたくはなかったのですが、私一人だと色々大変そうといいますか、時間をかけちゃいそうで……」
「捜査も含めて、『柊』は貴女に丸投げしたのね。もう少し何とかならなかったのかしら」
「人員不足らしいですよ。何でも、北海道で何か起きたらしいです」
「思ったよりも切実な事情ね……」
「ですねぇ。ま、今回が暴力だけで解決できる案件ならば、どうにでもできたのですが……」
「行方不明者が生存していた場合のことを考えると、それだけでは難しいってことね。まぁ、貴女の場合はそうなのでしょうけど。……もう少し、穏便な言い方はなかったのかしら」
「やってることは変わりませんし、それに私自身、斬った方が早いなぁという思考をしていますので」
「相変わらずね、もう」
一見すれば、単に雑談をしているように見えるだろう。しかし彼女たちの捜査は、既に始まっているのだ。
街中を行く人々の噂噺や雑談、愚痴などに耳を傾け、飛び交う様々な情報を静かに頭の中で並べる。その九.九割が無駄話に過ぎずとも、残る僅かな有益な情報から更に事件に関係性のある事柄に焦点を当てていく。
例え一般人であろうと、この程度であれば猿真似できるだろう。そしてそれを更に高度な情報収集の手段として確立させるのが、探偵たる地子の技術だ。
「はい、とりあえず終わったわ。何となくだけど、事情は理解した。
最近の夜、街外れの山道から何かが下りてきては、人を攫って帰っているそうよ。
人間とも獣とも区別が付かないらしいけれど……。
この何かと云われているものが、今回の元凶じゃない?」
「おお-。街を歩いているだけで、よくそこまでわかりますね」
「まぁ、色々とコツがあるのよ」
「流石です探偵さん。貴女が協力してくれるのであれば、大抵の事件が片付きそうです」
「流石にそれは言い過ぎね」
魔物の住処に当てをつけたのならば、事件の収拾まであと少し。
「まぁ、山道までの案内はするけれど、私にできるのはそこまでだから。そこから先は、貴女にお任せになっちゃうわ」
「それこそ、お任せください、ですよ。元よりそこからは私の仕事ですからね。
では、危険承知ですみませんが、山道までの案内をお願いします」
早くも元凶に目星をつけた二人は、そのまま街中を歩み、件の山道まで向かうのであった。
幕間
災害にて滅びて久しいその城下町に、まだ名前があった頃。
一人の落ち武者がその町に流れ着き、町人に療養された。町人は、町人にとって異物であった筈の落ち武者のことを受け入れたのだ。
それが可能なだけの、物と心の豊かな町だった。
しかし町は滅んだ。
その要因の内、大きく占めるのは確かに災害であろう。しかし彼の町に決定的な終わりを与えたのは、災害ではなく人災だった。
他でもない、京の都町を守護する筈の武士たちが、賊徒と化し町を襲ったのだ。
当時、災害に苦しんでいたのは、京の都も同じであった。特に貧困に喘ぐ者たちは、その心の中に鬼を飼うほどに藻掻き苦しんでいたのだ。
その心の中に鬼を飼う者たち――武士の一部は、あろうことか落ち武者の流れ着いた豊かさのまだ残る町とそこに住まう人々を妬み、恨んでしまった。
結果、賊徒と化した武士たちにより町は襲われ、そのまま滅んだ。男と老人は特に惨たらしく殺され、女と子供は犯されてから殺された。
……しかし、落ち武者だけは生き残っていた。唯一人、生き残ってしまったのだ。
これが、数百年前に起きた、この物語のきっかけである。
四
山道を歩むは朝霧と地子。噂を頼りに彼女たちが向かっているのは、街外れの山道、その奥に眠っているという過去に滅んだ城下町だ。
これは所詮眉唾物の噂噺であり、向かえば確実に何かがいるとは言い難く、そもそも滅んだ城下町とやらがあるのかさえ怪しいものだ。
しかし、二人の足取りには少しの迷いもない。それは、向かう先に何もなかったとしても、そこに何もなかったことが確認できるからだ。
……とは、地子の論である。
「それでも、何かあるに越したことはないのだけれども」
「まぁ、よくわかんない足跡っぽいのは見つかりましたし。何もなかったとしても、私が地子さんを担いで下山しますよ」
「……何かあってほしいものね。貴女の移動、凄く酔うもの」
「何かあることを祈りましょう。何かあればいいですね」
そうね、と同意しつつも地子が考えていることは全く他のこと。仮に何かがいたとして、果たしてどこまで自分にできることがあるのか、ということであった。
地子は探偵であり、何の因果か、今まで朝霧と共に解決へと導いた事件が幾つかある。しかし、朝霧と共に解決した事件の数々には、全て怪異と呼ばれる不可思議な存在が関わっていた。
そういった存在を遭遇する度に、地子には思うことがある。
(私じゃ、普通の人間にできる範疇のことしか手助けできない。
今までみたいに、妖怪だの魔物だの、そんな奇天烈怪奇摩訶不思議な輩が顕れようものならば、私はただの足手まといにしかならない。
でも、『柊』の副所長さんがわざわざ朝霧に断言している以上――)
あくまで地子はただの探偵、ただの一般人でしかない。故に降魔機構などという眉唾な組織は勿論のこと、怪異という存在に関する知識さえ氷山の一角にも満たない程度しか持ち合わせていない。
しかし、あの組織がわざわざ朝霧に依頼し、そもそも断定しているのであれば。今回の事件にも、あれらが関わっているのだろう。妖怪、妖魔、魔物、化け物、魔獣、怪物、悪魔、魔神――即ち怪異。そういった、物理法則から逸脱した存在が、関わりを持ってしまっているのだろう。
(ならば、私にできることは少ない。現地に着いた後、如何にして怪異から身を隠すか。それだけが、私にできる唯一の貢献になるのでしょうね)
しかし、それだけという事実は、何とも歯痒くもあり――
「……ううん、どうしたものかなぁ」
「うん? どうしました?」
「いえ、なんでも。……本当、何かあったらお願いするわね」
「はい、お任せください! どんな相手が顕れようとも、ちゃんと始末をつけるので!
――それじゃあ、怪異をぶっ飛ばしましょう!」
少女が己の真意に気付く筈もないと知りつつも、地子は何も言わず朝霧に、そうねと微笑みかける。
そのまま二人は目的地である怪異の住処、滅びた城下町に向かい歩み続けるのであった。
幕間
心優しい人々がいた。主人に見捨てられ空腹のまま途方に暮れるばかりの俺を受け入れる、実に心優しい人々がいた。
俺は獣のように粗暴な人間であり、普通、他人から好かれる筈もなければ受け入れられる筈もない。しかし、あの町の人々は、そんな俺でさえも何も言わず受け入れ、多少の飯と雨風を凌げる小屋を与えてくれた。物も心も、実に豊かな町だった。
傷が癒えた頃、俺は恩を返す為に町に残った。暴力沙汰には多少の自信があったし、俺を粗暴な獣ではなく、憐れな落ち武者としてでもなく、ただ無言で受け入れてくれた彼らに尽くしたかったのだ。
……しかし、俺にできることは何もなかった。恩を返すことなど一つもできず終わりがやってきた。
豪雨。暴風。そして地震。多くの災害が町を襲い、多くの人々が死んだ。自然に人っ子一人で叶う筈もなく、町が滅びに向かう様をただ見ていることしかできなかった。
そして、そんな悲劇に追従するように、更なる理不尽が町に流れ込んできた。
京の都町を守護する武辺者。彼らの中でも特に気性が荒く、粗暴な――まるでかつての俺のような連中が賊徒と化し、町を襲ったのだ。
男と老人は、ただ無慙に嬲り殺された。女と子供は犯され、そして最期に男たちと同様に殺された。
――俺は何もできなかった。賊徒が町を蹂躙している間、俺は一人、羅城門の中で気絶し、転がされていたのだ。皆が藻掻き苦しむ間、俺は一人で眠りこけていたのだ。
目覚めた頃には、既に賊徒は去っていた。町人は皆死んでいた。
実に情けない。実にみっともない。結局その後も、俺は何もできず、ただ絶望し、そのまま町人の亡骸と共に土砂崩れに巻き込まれ淡々と死を迎えた。
……その筈だった。
気が付けば俺は門の中にいた。あの日、俺が眠りこけていた羅城門の中で永い眠りについていたのだ。
門を這い出て見渡してみれば、町も町人の亡骸も跡形もなくなくなっていた。
俺だけが、また残ってしまった。
全ては無情だ。結局、性根の善悪に関係のないところで、人間はあっさりと死ぬ。町人のような善人たちでさえ死ぬときは死ぬし、俺のようなくだらない人間であっても生きるときは生きる。
世とは、実に無情であり――
――ぶっ殺すぞこの糞野郎。
何故、町人があんな屑どもに犯され殺されなくてはならなかったのだ。
何故、町人を犯し殺し尽くした連中の子々孫々のみが、のうのうと生きてやがるのだ。
何故、町人の誰一人を護ることもできず、俺一人のうのうと生きてやがるのだ。
嗚呼、巫山戯るな。糞野郎ども、塵屑ども、コケにしやがって、畜生、畜生、畜生、畜生――
「――絶対に許さねぇ。都の連中一族まとめて、全員ぶっ殺してやる」
怪異とは、斯様にくだらない感情の中からでも生まれる。
屍に怒り降り積もり数百年、がらんどうであった筈の落ち武者は、こうして復讐の鬼となった。
己と同じく、無様に残された羅城門に棲み着き、夜な夜な京の都町に顕れては人々を攫い、報復せんとばかりに嬲り貪る。
所詮、この程度の理由から生まれた鬼であるといえる。しかしこの程度の鬼であっても、浮き世の生者を攫い、犯し、喰らっているのもまた事実である。
故に、降魔師はこの羅城門に来る。京都の平穏を取り戻す為に、この無慙な事件に終止符を打つ為に――
五
――亥の刻。真夜中の空に三日月が浮かぶ。
朝霧と地子は、既に山道を離れ獣道――否、獣道より一層荒々しい道なき道を進んでいた。
初めの内は奇妙な足跡がある、という程度のものであったが、それでもある程度進んでいけば、朝霧が人外の気配を感じるには充分であったようで、今の彼女たちの歩みに迷いや躊躇いといったものはない。
周囲を警戒しつつ進んだその先に、漸くその地は発見された。
木々に囲まれていた筈の道なき道は、いつの間にか開けた場所になっていた。月照らす夜の下、半ば崩れつつもその羅城門は、かつて栄えていた町の唯一の名残として淋しくも建ち続けている。
そして、そんな羅城門のもとに、その鬼は一匹座り込んでいた。
色の抜けた白髪、瞳は怒りの真紅に染まり、ぼろぼろの甲冑の隙間から見える肌の色は浅黒く、そして皺だらけであった。見る限りであれば、とても力のあるような身体付きには見えない。
しかし……。
「誰だ。誰がここに立ち入ることを許した? この場から立ち去れ。
……否、立ち去ることは許さん。ここで去ね」
朽ちた刀は刃毀れが酷く、その刀身は今にも砕け散りそうな――そもそも、何故砕け散っていないのかが不思議なくらい惨めなものであった。
そんな刀を構えながらも、鬼はぽつぽつと独白のように言葉を零し続け、静かに立ち上がりながら刃の切っ先を朝霧と地子の二人に向ける。
真紅の両眼は、真っ直ぐ朝霧と地子の二人に向けられている。
「死ね。死ネ、死ね死ね、死ね死ね死ね、皆、皆皆死んでしまえ」
気が狂っている。そういう他ないだろう。怒りと憎悪、そして虚無感と奇妙な使命感に駆られている鬼の両眼には、空虚だが確かな力が宿っている。
人外たる鬼、その怨念を正面から受け、地子は今にも泣きそうな表情のまま、腹の底から湧き上がる恐怖と嫌悪感を押さえ込み、身体を僅かに震わせている。
しかしそれに対して、朝霧の様子はとても静かなものだった。微塵とて恐怖や嫌悪感といった感情が出ているようにも見えず、むしろまるで鬼のことを憐れむような、もの悲しい視線を鬼に向けている。
「なんと憐れな。その目に宿る怒りの念は、他者に対してというより、むしろ自分に向けられているものでしょうに。
貴方から感じるのは、ただひたすらの無念。都町の人々を襲うのは、怪異に成り果て、理性から解放された人間本来の獣性故であり、貴方自身は誰も恨んではいない。
――貴方はきっと、誰かを愛する心を持ち、それ故に誰かを憎む心も持ち合わせていた優しい心の持ち主だったのですね」
「黙れェッ!! その奇妙な眼で、俺を見るなぁぁあああアアア!!!!」
朝霧の憐みの視線を怒りの視線で遮り、その言葉には怒号を返す。相互理解は元より不可能。鬼は怒りのまま刀を振り上げ、そして朝霧に向かって跳び上がる。
これより始まるは鬼退治。かつてただの落ち武者であった筈の鬼は、今や人外の輩である。その腕力、脚力は人間の時とは比較にならないほどに飛躍しており、木の根を掘り上げることも木から木に跳び移ることも可能であろう。
さながら、猿の身軽さと獅子の怪力を身につけた、とでも言おうか。
さて。怪異とは本来、生身の人間には討伐が困難と云われている。身体能力は人間を遙かに超え、更には超常の力を振るう者も多い。怪力、飛翔、火炎、雷電、えとせとら。これらを狩るには、普通の人間には些か荷が重いというもの。
――しかして、これらを狩ることを生業とする者たちがいる。
鬼が跳び上がった。鬼が刀を振り上げた。鬼が激情のまま、人間の少女である朝霧に向かい斬りかかった。
――そして鬼は、気が付くと先程まで朝霧がいた筈の誰もいないその場所で、首と胴、手足が四分五裂になっていた。
「――あ?」
怒りの表情は呆然としたものに変わり、不可思議な存在である怪異でありながら、現状こそが正に不可思議であるとばかりに、今現在の己の状況を理解できていない。
そう。鬼は今、朝霧に斬り捨てられたのである。
「一刀両断。夜も更けていますからね、長引かせませんよ。
貴方がどういった過去を生き、何故現在のような怪異に成り果ててしまったのか。私にそれを知る術はありませんが……。
貴方は、多くの生者を殺め過ぎた。最早私たちは、相容れることのできない存在なのです」
"どうか、ゆっくりとおやすみなさいませ"
そんな小さな囁きと共に、いつの間にか鬼のいた位置にいた朝霧は、いつの間にか手にしていた――抜刀していた剥き出しの刃を鞘に収める。
勝負は一瞬。多数の行方不明者を出し、その全てが鬼に嬲られ貪られていたという怪事件。
しかしその幕引きは、実に呆気のないものであった。
六
「……いつものことながら、随分と呆気ないわね。怖がったり色々考えてた私が莫迦みたいじゃない」
「怖いのが普通だと思いますし、色々考えていたのも正しいと思いますよ。ああいった輩をどうにかできるのは、降魔師か現代兵器くらいでしょうしね。
……まぁ、瞬殺したのは、あれ以上聞ける話しもないだろうなーっていう、細やかな理由からなのですが」
大事件。怪事件の終わりに対し、少女たちの反応は淡々としていた。
いつもこうなのだ。どんな難事件、大事件、怪事件であったとしても、この少女朝霧に暴力を振るわせれば――刀を抜かせてしまえば、いつも一瞬で片が付いてしまう。
地子は数瞬、今まで朝霧と共に解決してきた怪事件を思い返し、そして怪異との接触に幾度経験しても慣れることがないのは、この少女がいつも瞬殺してしまうからなのだろうと、小さく溜息をつく。
「どうしました?」
「いえ。貴方のあまりの強さに、感嘆の溜息を吐いていただけよ。
……それより、拉致された人たちを探しましょうか。もしかしたら生存者がいるかもしれないし、いなかったとしても遺体くらいは確認しておかないと」
「そうですね、探してみましょうか」
――結果、生存者は誰一人としていなかった。あったのは鬼に嬲られた際に飛び散ったであろう血痕と、貪り喰われ、半端に残っただけの遺骨などであった。
しかし鬼が退治された以上、これより犠牲者が増えることはもうないだろう。鬼は死んだ。事件は終わったのだ。……否、残された遺族、事件の後始末のことを思えば、まだ終わったというには早過ぎるかもしれない。
しかし、彼女たちの仕事は確かに終わった。ならばこれで一件落着、見事解決を果たし、終わりを迎えたといえるのである。
――だが、しかし。
(……やっぱり、おかしい。あの鬼は間違いなく強い怪異だった。
朝霧と出会った頃にはまだわからなかったけど、怪異や他の降魔師、『柊』のことを知った今だからこそわかる。
朝霧の強さは、他の降魔師たちとは比べものにならないくらい強過ぎる)
地子は普通の一般人だ。しかし探偵である。探偵である彼女の洞察力は並み大抵の人間と比べ研ぎ澄まされており、故に朝霧の異常性については、一般人の中では誰よりも理解していた。
出会った当初は、降魔師とは皆、朝霧と同程度の力を持つものだと思い込んでいた。先入観であり、無知であったからこそありのままを受け入れたのだ。
しかし、今では違う。朝霧の強さはおかしい。
怪異の振るう超常、降魔師が振るう怪染と呼ばれる力にはカラクリがあり、それは無闇矢鱈と発揮されていいものではない。
(朝霧のことは大切な友人だと思っている。だからこそ知りたい。
怪異には、怪異と接触する人間に少しずつ感染する性質がある。強い降魔師とは怪異に近づいた降魔師のことであり、そういった降魔師は大抵、自らが怪異に成り果て理性を失ってしまう。
――朝霧。貴女は今、どのくらい怪異に近づいているの?)
不穏。不安。……極めて純粋な、友に対する心配。
事件は終わりを迎えたが、朝霧の物語は終わりを迎えた訳ではなく、それを見届ける地子の探偵としての物語も、まだ終わってはいないのだ。
――羅城門の鬼、了。
一刀両断と言いつつ念入りにばらばらにする女、朝霧