ウサミミじじぃ
朝起きたら、頭にウサギの耳が生えていた。
若者言葉で言ったところのいわゆる「萌えキャラ」たちも、よくこのようなウサギの耳をつけているものだが、私の頭に生えていた物はまさしくそれだったといえるだろう。頭の上の方に、二本のウサギの耳としか思えないような未確認物体が生えていたのだ。そのくせ元の耳はそのままで、音がきちんと聞こえる。対してこの新しい耳は、何の音も聞き取れない。さらには、つねると痛い。耳たぶをつねったときのような感じに、どこか軟らかく痛い。どうやらあるだけ邪魔というわけのようだ。
そんなことはない、と思うかもしれない。ウサミミはかわいいじゃないか、というかもしれない。否、それは若干違う。ウサミミは、それに適したカワイイ二次元キャラがつけるから「萌える」のである。
すなわち仮に、この私のような、五十代半ばの定年退職寸前独身ハゲの頭に付いていても、全く以て何の萌えにも繋がらないのである。
ある種の残酷な運命の悪戯というか、こればかりにはあからさまな悪意を感じる。私の頭になぜウサミミが生えたのか、私は何も思い当たる節が無い。だとすると、恐らくこのウサミミの発生はいわゆる「超常現象」の一種であり、科学的、論理的な説明をすることが断じて不可能な悲劇なのであろう。
ならば、と私は考える。それに何らかの内的要因がない限り、このウサミミの自然発生が私に起こる確率と、そこらへんの美人な女子高生ちゃんに起こる確率は完全に同じだったはずである。
もし、ウサミミが彼女たちに自然発生したのであれば、ひょっとすると周りの男子にアピールするのに使えたかもしれない。もし、彼女たちだったのであれば、それを有効活用できた可能性が十分にあったのであろう。
しかし、繰り返しになるが、私は五十代半ばの、定年退職寸前の独身ハゲである。そのような男にウサミミが生えていても、断じて萌えるはずがない。幾らなんでも、独身ハゲに萌えを求めるのは高度すぎる。
若者言葉というのは詳しくないが、確かこういう状況をああやって表現していたハズだ……思い出せない、もうボケてきたか……いや、そうだ、思い出した。
「誰得」。
そう、このウサミミは、この「誰得」という言葉で表現することができるものであると、私は確信する。それも生半可な「誰得」ではない。それこそ、誰得の境地。これ以上誰得なものなど、古今東西、この惑星のどこを探し回っても、絶対にないだろう。
我が身に起こってしまったこの悲劇。この名状しがたき絶望と悲しみ。それはどこかしら、まるで悪魔が悪質な嫌がらせのために、よりによって私の頭にこの機能すらしないウサミミをつけたかのようにすら思えた。
しかし私はただの平凡な会社員であって、ホームズのような探偵ではない。だから私は、このウサミミという名の忌まわしき暗黒物質がいったいどのようにして地獄の深淵より生まれ、どのようにしてよりによって私のこのテッカテカの頭に生えたのかを知る由もない。
それでもとりあえず、一つだけ言わせてもらおう。
非常に、非常に、恥ずかしい。
そう、このウサミミはいいところが何もないばかりか、非常に恥ずかしいという決定的なデメリットがついてくるのである。仮にもし、私が進んでこの大いなる苦しみを受難したのであれば、恥ずかしくもなんともなかっただろう。だがこのウサミミは、何の前触れもなく、ただある日突然やってきたものであるから、当然すさまじく恥ずかしい。
そして、それ以上に恐ろしいのが、周りからの視線であろう。
たとえばあなたが通勤ラッシュ時、急いで電車に乗りこむとする。周りには、あなたと似たようなたくさんのサラリーマン。一見普通の風景。しかし、そのうちの一人だけ、しかも正直顔が相当残念な奴が、ウサミミを付けているとしよう。
この状態を、若者は、そう――「キモい」、と表現する。
そう、私のこの格好はまぎれもなく、ただただキモいのである。いわばただの変態である。ウサミミを付けた、五十代半ばの、定年退職寸前の独身ハゲというものは、自然の摂理として絶対的なまでに、いや悲劇的にキモいのである。
もちろん部下などもこれを見たら驚く、いやドン引きするはずだ。今まで私が積み上げてきた労力、威厳、そして何より退職金。それが全てゼロへと還元されていくのを感じる。やはり、刑事ドラマでも現実世界でも、「定年退職寸前」というのはいわゆる「死亡フラグ」なのだろうか。この耳のことが知られれば、私が社会的な死を瞬時に迎えるということは火を見るより明らかである。
となると、私は外に出られない。だが、出勤できなければ、私はいずれかクビになるであろう。いつかはこの事実を世間に公表しなければならない――そう、私が、実はただの五十代半ばの、定年退職寸前の独身ハゲではなく、ウサミミを付けた五十代半ばの、定年退職寸前の独身ハゲであるという、この恐ろしき真実を。
まずは会社に連絡すべきだろうか。いや、警察か。いやいや、医者だ。
そうだ、と私は思い出した。丁度、近くに住む、学生時代のよき友人が医者をやっている。恐らくこれは新種の奇病か、精神病かのどちらかだが、どちらにせよ診断してもらって損は無いはずだ。私はそこに電話を掛けることにした。
プルルルル、プルルルルと私の(人間の)耳に音が響く。しばらくすると、受話器をどこか慌てて取るような音とともに友人の声が聞こえた。
「あ、あ、お前か! いや、それがさ、え、なに、え、診断……? いや、あのさ、オレ実は今日たぶん病院いけないんだ。ちょっと……そう、用事、用事! でさ、ちょっと……ああ、でも……いや、いいや……今、……と、ともかく、大変なんだ! ちょっと……後にしてくれ! すまない! また後で!」
ガチャッ。
プーッ、プーッ、プーッ……
……なんだこの神様の嫌がらせは。
なにか得体のしれない、我々人類には想像もつかないような異的な暗黒の勢力が、私に全力で嫌がらせをしにかかっている――そのような気がした。
まったく! なんなんだ!
私がいったい何をしたというんだ!
最早私は絶望に駆られて泣き叫びたくなっていた。こうなったらヤケだ。私は今日から、妖怪・ウサミミじじぃとして生きていこう。マスコミに特集してもらえれば、ギャラぐらいは貰えるハズだ。それを頼りに生きていけばいい。
だがせめて今日ぐらいは休みたい。一度思考を整理したい。コーヒーを沸かし、好みの分量の砂糖と牛乳を入れ、一口、ゆっくり、ゆっくりと飲む。
……すこしパニックが収まってきた。ひとまずは、感情を紛らわせ、落ち着かせることが先決だ。私はリモコンを手に取り、テレビをつけた。
するとたちまち、おびただしい数の絶叫や悲鳴が、画面から溢れ出してきた。思わず、コーヒーを口に運ぶ手が止まる。
「お伝えしている通り、今、世界全体が大変なことになっております!」
記者が必死で叫んでいる。後ろには数えきれない程の老若男女。舞台は街中、一種の暴動のようだ。しかし、何かがおかしい。
……いや、こんなはずはない。
「私の後ろの人たちも……ほら、見てください、ご覧の通り、このような事態になっております! なぜこのような現象が起きているのかは依然全く不明で、政府も未だに混乱の中明確な動きを示せていませんが、とにかく……みなさん、新情報は届き次第連絡いたしますので、どうかチャンネルを変えずに!」
画面がスタジオに移ったが、そのスタジオのキャスターたちもみな、未知への恐怖を隠せず、焦った表情で、しどろもどろにしゃべっている。
「いやぁ、どうですか藤岡さん……本当にひどいですねぇ、これ……いったい何でこんなことに……これ、私に似合いませんよね、絶対……気持ち悪いですよね……もう四十にもなって、こんな……」
「いや、に、似合ってますよ、田中さん!」
「藤岡さんはまだ二十代のさわやかピチピチなお天気お姉さんだからいいだろうけどさぁ! 私に! この私に! よりによってこんな四十代の若ハゲの小太りなおじさんにウサミミだなんて! あぁ、もう! 死にたい!」
「た、田中さん! 生放送……」
私はただ唖然として画面を見つめていた。だが、しばらくすると、なんとも言えない笑いが込み上げてきた。私は今まで何をあんなに嘆き、焦っていたのだろうか。あの絶望と苦悩は何だったのか。今この瞬間までの無駄な思考時間は、一体何のためにあったのだろうか。
ああ、本当に誰得な時間だった!