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High_C  作者: 夏草冬生
第四章 そしてBach Goldberg-Variationen
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 えっ、へたくそは越智先生にピアノをみてもらったことがあるの? と驚くから、そうですよ、中1の時からずっと習っています、と答えた。アップル母とぼくの母が知り合いだったことを伝えたら、そういえば前に聞いたような、たしかへたくそのお母様もピアノが弾けて、音大でご一緒で、とありがたくも覚えてくれていた。そして、越智先生の前でバッハは? とたずねてくるから、そういえば弾いたことはありませんね。やりたい曲はぼくが決めるので、それにせっかく教えてもらうのですから(本人は得意なつもりでも、母の領域には近づけなかったショパンが多くなり)自然とバッハ以外になります、と答えた。

「ふ~ん。それならバッハでいいから、ひとつ大作をお願いしたいわね。これなんかどう?」そう言って先生がぼくの前へ次から次へと引き抜き出した楽譜本はすべて同じ、『ゴールドベルク変奏曲』だった。「できれば私ではなく越智先生の前で弾いてほしいのだけど。まあ、今日はその予行演習ということで」

「初見になりますが、弾くだけでよろしければ。ぼくは先生みたいに歌えませんよ。だからって、ぼくを責めるのはお門違いですからね」

 あらかじめ言い訳から入るぼくも情けないが、先生を失望させるのは心が痛すぎる。

「初見? バッハ弾きのくせしてゴールドベルクも知らないの?」と目を丸くする。

「知りません。それにぼくがバッハ弾きでないことは先生もご承知でしょうに」

 CDは? というから、聴いたことがありません、と答えた。

「おかしいわね。ピアノ弾きならバッハ嫌いでも知っている名曲なのに」と何やら腑に落ちない様子である。「小学生には難しすぎて弾けない曲かもね。知らないのなら弾かなくてもいいわ。どんな演奏か予想がつくから」そして愚痴をこぼしはじめた。「だいたい私はへたくそがバッハならたいてい知っていると思って、それで急いで家までマイナーなオルガン・コラールを取りに戻ったのに……」

 だが、すぐに小首を傾げて黙り込む。「クラヴィーア曲集を苦もなく暗譜しているあなたがこの曲を知らないなんて絶対にない。それは世界を股にかけた食通が、フォアグラとは言わないけれど、複雑な香りを醸し出すトムヤンクンを知らないぐらいおかしなこと。この楽譜をよくご覧なさい。聴いたことぐらいはあるはずよ」

 けっして薄っぺらな楽譜ではなく、それなりに厚みがある。先生が勧めるのなら名曲だろうし、愚作ならともかく、このボリュームで知らないとなると、ぼく自身が不思議に思う。だから恐々と一冊手に取ってみた。赤い表紙だ。最初の目次にはアリアとあったが、いったいどんな曲だろうと、ぼくは譜読みを試みた。しかし次の瞬間、猛スピードの車にいきなり正面からはね飛ばされたような、耐えきれない衝撃がぼくの体を走り抜けた。

「うわぁ!」

 ぼくは声を張り上げる。切羽詰まった大声だったので、目を見開いた先生も何事かと椅子から飛び上がっていた。ぼくは自分に何が起こったのかまったく分からなかった。「どうしたの?」とぼくの顔をのぞき込んだ先生が本気で心配しているから、ぼくは黙って状況判断を急ぐ。

 冷静になるまでもなく、体の異変はただひとつのことを伝えていた。ゴールドベルク変奏曲そのものが灼熱のマグマとなって、ぼくの体を焦がしながら流れ込んで、いや逆だ、内部から外へと溢れ出してきたのである。つまり事ここに至るまで、ぼくはこの変奏曲がこの世に存在していることを忘れていたのだ。

「知っています。ぼく、この曲知っています」焼けただれた気管で息をするように、必死で声を振り絞った。叫ばなくてもいいのにフォルティシシシモ(=ffff)の声量で先生に伝えながら、ぼくは慄然とせずにはいられなかった。いくらなんでも異状である。ごっそりと記憶が欠落していたのだ。脳に腫瘍ができているのか、アムネジア(健忘症、記憶喪失)に陥っているのか、自分で自分が分からなくなる。そういえばこのゴールドベルク、楽譜だけでなく演奏者ごとに何種類ものCDを持っていたはずなのに、今はどこに消えたのか、まさか捨てるはずもあるまいし、手元には一枚も残っていない。

 信じてもらえないかもしれませんが、と前置きして、ど忘れしていたことを説明した。先ほどまでタイトルをみても何の反応も示さなかったというのに、「なるほど、そういうこともあるのかもね」と妙にうなずいて納得してくれた。だけど、そんな訳知り顔な先生の方が、ぼくにはかえって不気味だった。それこそ「馬鹿にしているの!」と罵倒された方が安心するし、それが正しい。とはいえ、これが素人相手になら、ぼくだって言い分がある。同じ曲の楽譜を七、八冊ほど渡されたが、そのすべてがドイツ語で『Bach Goldberg-Variationen』とあるし、これらは全部外国の出版社のものだった。この曲は母は赤い表紙を愛用していたはずだけど、ぼくは母のピアノで暗譜したのであって、楽譜で覚えたわけではない。

 ウィーン原典版は真っ赤と、表紙の色をみるだけでどこの出版社かぼくでも分かるものもあるが、ヘンレ原典版やらベーレンライター原典版やら、バッハの代表的な原典版だけでなく、ブゾーニ、トーヴィ、バルトークあたりの(作曲家兼ピアニスト)校訂版まで多種多彩に取りそろえてある。もっとも音大でバッハを少しでもかじったことがあれば誰でも知っている基本的な本ばかりである。それはピアノ経験者が、実際使用したかどうかは別にして、バイエルやハノンやツェルニーの存在は知っているようなものだ。宮藤先生のどの楽譜にもページを開けば、アナリーゼ(楽曲分析)の跡がみられ、色々と赤鉛筆や万年筆で走り書きがあった。無論、学校の付属楽譜ではない。ぼくのために自宅から持ってこられたのだろう、まったく申し訳ないと思う。

 原典版とは可能な限り忠実に作曲家の意図を再現した楽譜である。その原典版をもとにピアニストは独自に解釈を重ね、より感動できる演奏をするために、自分だけの楽譜を、つまり『解釈版』を作るのだ。バッハを超えるためにも、正しいバッハを押さえるのである。そしてその解釈が世界的に認められれば、宮藤沙和々校訂版が登場するのである。

 バッハ本人が演奏した音(音源・録音)が残っていない以上、楽譜こそが宮藤先生の言う立体の表面、先端部分である。形だけ真似して原典をありがたがるのではなく、原理を理解するために型(能における型のように、規範とされる動作・かたちなどの方式)を取得するのである。楽譜が表現できないものを何とかとらえて表現した、その記録であるのならば、どうしようもなく秘められてしまう部分を自分なりに想像、そして創造しなければならない。

 同じ曲なのに、複数の楽譜を集めることは何も奇異なことではない。ひとつの権威にすがるのは危険である。英語の先生が色々な出版社の辞書を持つような感覚だろう。宮藤先生クラスなら、英語圏最大の辞書、オックスフォード英語辞典を当たり前に揃える一流の翻訳家にたとえるべきだろうが、ぼくは生物研究部で英語論文を読まされるので、固有名詞に強いリーダーズ英和辞典を重宝しているけれど、学生なら三つばかりオーソドックスな学習用辞書を持っていればじゅうぶんだ。

 普通に楽しむのなら、プロ用の木製バットよりも金属バットのほうが便利で丈夫で使いやすい。どこの本屋にも置いてあるし、ぼくは必要なとき楽譜は日本の出版社のものを利用している。クラッシックピアノだと自動的に全音か音楽之友社となるのだが、どちらも校訂版で、後の研究者による実績が反映している。例えばバッハの場合は、ピアノではなく二段チェンバロのために書かれた楽譜なので、運指を考えないと、鍵盤が一段しかないピアノでは両手が衝突してしまう。そのため校訂版では、右手、左手、どちらで押さえるべきか音符ごとに左右への割り振りを指示してくれる。これが原典版だと、バッハが望む装飾音等の演奏法が譜面に並べて書いていることもあるが、基本的に、それぐらいのことは自分で考えろ、である。

 母の楽譜類はピアノで生きていく妹がすべて受け継いだので、自分用のは安く手に入る物ですませている。場合によってはネットでダウンロードできる無料楽譜で間に合う。だけど、ぼくのこのこだわりのなさはピアニストの子として褒められたものではない。一冊の楽譜に頼り切ると視野が狭くなってしまう。作曲者が望んでいる姿、音楽像が全然見えていない状態なのに、それに気づくことすらできない。娯楽なら良いが、ピアノ演奏を芸術としてとらえる場合これは致命的である。無論、いくら原典版だからといって、それに固執するのでは意味がない。ただ様に依りて葫蘆を画くのであれば、つまり独自に音楽を再構築せず、物まねの域に留まるのなら、趣味としては高尚だけど、プロならば失格だ。その個性を超越し天才を模倣するなんて不可能であり、模倣できたとなればエキスの抜けた劣化版になるだけで、映画スターのファッションを真似て本人気分に陥るようなものだ。わざわざそんな人の演奏にお金を出して聴く価値はない。

 たしかにCDよりも生演奏が好ましいが、要は聴き方である。レプリカ本来の意義はオリジナル製作者によって作られたコピーだが、つまり原作とまったく同じように作られた複製名画を、それと知って学習するのなら害はない。聖トマス学園の安田先生は音楽の先生だから音楽で食べていっていることになるのだが、その授業やピアノ、バイオリンの腕前をみていると、そんな技量で聴き比べなどできるはずもなく、「生だと音がちがう」とか「文化祭のコピーバンドはひとつもあれば十分だ」とかおっしゃられるのは何も本人が分かっていないだけに(そこに核がなく、おそらく権威かなにか、他人の受け売りで、何の咀嚼もしない鵜呑みであろう)、非常に片腹痛いのである。

 とはいえ、プロもそんなにハードルが高いわけでない。アップルクラスでじゅうぶんにお金をもらえる演奏だと思う。宮藤先生にいたっては、いくらお金を出しても聴けるだけありがたい希有なレベルのピアニストだ。裕福だったぼくの母はヨーロッパや日本のコンサートでその実演を何度か耳にしたそうだが、一九八九年に亡くなったホロヴィッツの、ピアノを歌わせる生演奏は、今となってはどんなにお金を積んでも聴けるはずもない。

 ピアノが趣味なら、原典版を手に入れて、一流のピアニストの、原典そのままではなく原典離れした演奏を数多く聴くだけで、さらなる高みへと踏み出せるだろう。楽譜でなくCDの場合、作曲者本人の演奏が残ってあれば原典版、他のピアニストによるものならば校訂版ということになる。もちろん楽譜やCDは利用するものであって、頼りきるものではない。自分の人生を他人のいいなりのまま生きるのでは、本人が楽しいというのならしかたがないが、しかしそういった人物は何も見えていないので、いずれ自覚ないままに、いらない自信を持って他を弾圧しはじめるのが常である。悪貨は良貨を駆逐し、このような基本的な心得のなさこそが、社会に対し甚大な損害を与えてしまう諸悪の根源なのだ。ぼくが楽譜にこだわらなくなって、それも一因で精神の腐敗が我知らず進行し、宮藤先生との最初の邂逅でその天才性を見抜けず恥をかかせてやれと思ったわけで、これこそ激しく自戒となすべきところである。

 謙虚になりさえすれば、どんなものでも模範となり得る。恵まれたのは宮藤先生と楽譜だけではない。ぼくには生きたお手本がいつだってすぐそばにあった。いや、今もある。まぶたを閉じれば母のピアノが鳴り響く。バッハならば、もっぱら母の感想がぼくの演奏の指針となる。

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