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第二音楽室に「ひいぃ」という奇声がこだました。
それがぼく自身の声だとは信じられなかった。これだから凡人のぼくが真正面から天才にぶつかってはいけないのである。この季節に学園内のアスファルト上でよく見かける、雨でふやけ、足で踏みつぶされたミミズの気持ちがよく理解できた。晴天になれば日干しになるだけだ。無論、愚妹もそこまで意識して作曲したのではなく、母の面影を追い求めたら、たまたま、そうなったというのが真実であろう。いや、ぼくの失態は置いといて、問題は宮藤先生の左手だ。課題の左手曲を故意に抜いたというのに、これでは逆効果ではないか。「すみません、本当にすみません。ぼくの知らない世界です。ぼくはピアノの海、そんなに深くは潜れません」と平謝りに徹しながらも、先生の左手だけが気になった。
「この曲が小娘のお遊びだとは傑作ね。曲のうわべだけをみて、いかにも分かったような気になって、でもそのために表層ですらへたくそは理解していない。いちばんよくないパターンだわ。正しくは、愚妹でなくて愚兄かしら」先生は鬼の首を取ったかのように楽譜をぼくの目の前に突きつける。
「すみません、愚兄バカ一代です。ぼくは人生そのものがお遊びなんです。一生、愚兄やっていきます」そう所信表明して、ひたすら詫びるしかなかった。
だけど、すこぶるご機嫌な宮藤先生をみて安心した。何も物理的に左手を酷使させたわけではないが、もともとぼくは調子の良いときの宮藤先生の演奏から左手自体に損傷があるとは考えていなくて、先生が心の中に持つ、左手の心理的なイメージにこそ問題があると思っていた。そこへケガの功名である。先生の脳内左手は完璧で、どこにも支障はなかったと、はからずも妹の右手曲で判明されたわけだ。結局、世の中結果オーライだ。左手の不具合はその境界面上にあったのである。先生は精神も肉体も健全だけど、その境目の連絡が何かの原因でうまくいかなくて、左手に書痙という症状が現れるのだ。
今回はうまくいってよかったが、確かに目に見える事柄だけを追い求めるのは二流のあかしだ。片手曲だという先入観に溺れてしまったのもあるが、妹だと侮っていたのも事実である。双葉よ。言ってくれよ、最初に。右手は左手のための曲だと。そうすれば兄さんはここまで慌てなくてもすんだのだ。
何事も、その奥に潜む事象(=事実と現象)を見据えなければならないというのに、ぼくは表層だけしかみなかったのである。レオナルド・ダ・ヴィンチは人物画を描くために人体解剖を行い、当時の常識人からは狂人だと思われたが、人間を描くために彼はそうしなければ、表面だけをなぞって表面すらなぞれない羽目に陥ると知っていたのだ。とはいえ現代でも、解剖からはじめる人物画家がどれほどいることだろう。
「もっとも、それらは些末なこと。片手とか両手とか、そんなことはたいしたことではないの。ただ単に魂を込めて弾きなさいというべき所だけど、それでは分かったつもりになって素通りしてしまうだけ。音楽には奥行きが必要なの。彫刻のように、立体感を伴って演奏しなければ」話の途中から宮藤先生は両腕を組んで、ぼくの目の前を行ったり来たりしはじめた。
頭が悪い人は議論ができない。単語の連発だったり、テレビか新聞の受け売りだったり、偏屈な独り善がりだったり、自分の主張を言語化して相手に伝えることができないのだ。けれど宮藤先生は違う。ぼくは宮藤先生に対し、どちらかといえば口べたな印象を抱いていたが、それは大きな間違いだった。ピアノと関わりなく、確固たる信念を持った聡明な女性なのである。
もっとも先生のこの場合は、議論ではなくて演説といった方が近いのかもしれない。「メロディーを形作る輪郭がそのすべてではなく、奥行きをもった存在、それが音楽というもの。人が感知できるその表面だけを表現するのではないの。人物彫刻なら、皮膚の下に広がっている骨、筋肉、血管をも感じさせるものでなければいけない。う―ん、その逆ね。内部の器官によってあらわになったのが人間の表皮なのよ。そしてメロディも、リズムやハーモニー、そのすべてを内包していて、それらによって浮かび上がった存在そのもの。だけど私たちの耳まで届く音は、極限まで表面化されている。だからやせ細った表面だけをとらえようとするのではなくて、浮き彫り全体を考えるのは当然のことなの。見目麗しい花にたとえるのなら、外見に惑わされず、目に見えない内部構造をしっかりと頭に入れて、内から外に向けて咲かせなければいけない。子供にお絵かきさせると必ずどこかにチューリップの絵が入るそうだけれど(小説や映画で風景描写が不可欠みたいに、それは人間の本能かしら)、行き交う人々に『チューリップの絵を描いてください』と街角でお願いしてみればわかるわ。一種の記号ね。たいていの人が花びらだけで満足してしまうの。茎や葉を描けばまだましなほうで、地面の下の球根や根っこにまで届く人は滅多にいないわ。球根だって単なる表面なのにね。人はチューリップのそのすべてを知った気になって、細かく指摘されるまでその存在に気づかない。絵は子供のお遊びではなく、世界を自分の中に取り入れる姿勢がその程度のものなら、たかが知れているわね。つまりピアノ曲があって、その根っこどころか内部細胞のひとつひとつにまで思いを馳せるのがピアニストという人種なの。逆に商品デザインとしては、その特徴ある花だけを簡略化させた方がチューリップとして認識させやすいということになるのだけれど、芸術家はそこに溺れてはダメ。なぜなら芸術は商品ではないから。そんなわけで私たちが耳にできるのは、曲のほんの先っぽ、表面化された先端部分にすぎない。森羅万象、そのほとんどの部分が氷山みたいに水面下に沈んでいる。リリカルな夢見る乙女が星空を見上げて、きれいとつぶやくのと、古典力学を創始したニュートンがきれいと感動するのでは、発した言葉が同じでもその性質や度合いが異なるの。『無常だ、万物はすべて生滅流転してはかない』と嘆く鴨長明の方丈記と、『変化するという立場から見れば、この天地のすべては一瞬たりとも不変でありえない。逆に変化しないという立場で見ると、万物も私も不変で、尽き果てることはない』と主張する蘇軾の前赤壁賦。おなじ自然現象、その表面を見てもニュートンは、慣性の法則といって『外から力が加わらないかぎり、物質の速さや向きが変わらない』と看破したわ。この世のすべてのものは関係しあって響きあっているので、たとえば空気抵抗などの摩擦とか熱伝導とか外力がまったく働かないという世界は頭の中だけで現実にはあり得ないわけで、だから鴨長明のいうことも正しいの。もとは孔子の言葉なのだけれど、ゆく河の流れのように、絶えず変化して元の水はどこにもない。でも移ろいゆくこの世界から、人の想いを省いて表面化して、自然科学をここまで発展させたのはニュートンの功績なのよ。
音楽も河の流れと同じこと。世界の解釈が異なるのだから、鴨長明と蘇軾ではずいぶん違った演奏になるでしょうね。目に、そして耳に現れたものだけをとらえるのではなく、その奥に形作っている音楽というものをきっちりと心に描かなければならない。けっしてその場限りの、おざなりな演奏ですませてはいけないの。目の見えない人たちが象をなでて、たとえば尻尾を触って蛇だと言っている、または足を触って木の幹のようだと言っている、まさにそれがあなたの音楽よ」
宮藤先生は本物だ。ぼくは背中がぞくぞくする。そしてありがたいと思う。だけどぼくのためにここまで真剣になってもらうのは正直もったいない。方丈記、前赤壁賦、運動の法則は、普通科高校ならば教科書に載っていて必修だが、ピアノ一筋の宮藤先生もちゃんとマスターしていて、しかも受け取り方がユニークだった。
宮藤先生はしばし沈思黙考した後、考え直したように「だけどバッハは弾けていたじゃない。もしかしてアニメソングが悪いのかしら」と空中で器用に頬杖をつき、歩きながらつぶやく。
「大量生産された大衆音楽もそのすべてが愚劣な商品ではなくて、そこには時代性があり、特有のパターン、法則性が生まれ、そこから色々な選抜を経ることでクラッシック音楽となって百年後の世界に生き残るのだけれど、クラッシックは断じて退屈な音楽ではないの。それは内部から噴き出さんばかりのパッション、どうしようもない衝動が表面に押し出されて顕在化されたもの。地中のマグマが押し上げられて、何もない地平に昭和新山ができたように、それこそ人間の内に沈む奥面を浮かび上がらせようとしているのが音楽なのだから、その膨大なエネルギーが退屈だなんてとても私には信じられないわ。何も見たくないのか、へたくその死んだ演奏を聴いたのか、それか、その人にはまだ受け取るだけの力が備わっていないのだと思う」
先生の話の邪魔にならないよう無声で、ぼくのは死んだ演奏ですか、と苦笑したら、すかさず先生はぼくの目を見て立ち止まった。「ヘレンケラーの水のように、水は水であって、決してあなたが思い描くような水ではないの」とおそろしく真摯な態度で迫ってくる。当惑しながらも、ぼくはひたすらご高説を拝聴する。
宮藤先生は腕を組み、かなり考え込みながら、また行きつ戻りつ歩み出した。
「針金の線で人形をつくったような、肉体を極限までそり落とされたジャコメッティの人物彫刻。それが強烈に人間の存在を浮きだせるように、ピアノ曲だって突き詰めていけば、旋律も拍子も和声も何もなく、そこにあるのは音楽という本質のみが残される。そんな地点が必ずある。でも私たちは媒体なくして感じることはできないの。精神的なものを把握するとき、どんな場合でも物質を介在させているでしょう。紙がなければ思想を書き留めることはできない。空気がなければ音を伝えられない。もちろんそういうことだけではないのだけれど。それに小説や絵画だって、その平面に描かれたインクとか絵の具とか目に見える物質は必須だけどそこに意味があるのではなくて、ありていに言えば、その奥から垣間見られる人の心でしょう? 心とか愛とか感動とか、そういう言葉自体がチープで陳腐な商品で、現代では叩き売りされているけれどね。とにかく人間の美しさとは皮一枚の美醜ではなくて、その人の生き様にこそ永久不変の価値がある。なのにほとんどの人は美人とかかっこいいとか肌がきれいとか、どうでもいいことだけでこの世界をみつめ、それが全部だと思っている」化粧品じゃなくて、そのお金で、私の、いえ一流ピアニストのCDを買いなさいと叫びたいわ。先生はそうも宣った。先生がCDを出しているのならぼくも欲しい。「もちろん、肌がきれいなのは健康な証しであって、いちど否定した先に存在できる肌はすべての先端部分。それは人間そのものとなるのだけど」そんな風に先生はひとりごちた。
「宇宙は、その存在を感知するすべがない暗黒物質で満ちているというわ。水素やヘリウムや光など、人間が見知ることができる物質&エネルギーは全宇宙のわずか数パーセントほどなの。『秘すれば花、秘せずば花なるべからず』だったかしら、私は秘するものがない演奏は演奏ですらないと信じているわ。だけどそれは大切なものは隠しておかなければならないとかいったたぐいのものではないの。表現するには、どうしてもその背後にその何千、何万、何億倍も、表現できないものが影として存在してしまう。それは人が人である以上どうにもならないこと。別に隠したくて隠しているわけではない。暗黒物質と同じで大部分を占めているのに手の出しようがないの。私は無力を痛感するばかり。だって、どんなに表現したくても、ほんのごく一部しか表現できないのだから。そうね。稚拙だけれど、これが私なりの風姿花伝。そして私にできるのは、未来でピアニストを目指す人に、膨大な過去の遺産をなるべくこぼさず次世代に受け渡す、バケツリレーの一員となることぐらいかしら。私のピアノが今以上に上手になれば、多少は効率よくリレーができるでしょう」
これらは宮藤先生の本心から出た言葉で、何か役に立つのではないかとぼくのために(もしかしたら愚妹のためにも)アドバイスしてくれているのだ。
「へたくそにとって、アニメソングがいけないのかしら。ミクストメディアではなくてメディアミックスだし。他の作品が、その作品を支えるよりどころとなってしまって、自律していない。もちろん他の作品に依るのは当たり前だけど、あまりに他律的なの。自身に裏打ちがなくて真似しすぎというか、パッヘルベルのカノンのあとにG線上のアリアが生まれるのならいいの。でも現実はその逆でしょう?」
クラッシック音楽では素材の味を生かすために塩分控えめで、たっぷりとかけたマヨネーズやケチャップのようには使われていないけれど、どぎついアニメソングの、そのリズム、旋律、和声の黄金パターンは、そのほとんどが古典作品のどこかで既に使用されたもので、初出ではないということだ。もちろん優れたアニソンもたくさんある。組み合わせの妙、斬新なコード進行、不思議なリズムと、枚挙にいとまがない。だけど古典というものは懐深く幅広く、すべての物語のパターンは既に聖書に登場していると言われるぐらいで、クラッシック音楽でもあからさまに連打されていないだけで、短いパッセージながら既出されているのである。
「完全なオリジナルはこの世に存在するはずもないけれど、といって自己完結してしまうだけの作品はそれこそ無意味。だからといって一般受けする音楽の存在を否定しているわけではないの。紙幣は兌換紙幣というのかしら、金や銀によって価値を保証されないとただの紙切れなはずだけど、金による価値の裏づけがなくても、不換紙幣は安定して流通している。それは人間の叡智と呼ぶにふさわしい型というもの。日常が芸術の基盤になっているし、芸術によって日常が信用保証されている。芸術が基盤となって私たちの生活が、文化的に人間的に花開いている。そちらの世界で私は生きていきたいの。そしてこれこそがピアニストという職業。現実生活から乖離した、穀潰しではないということ。もちろん、分からない人は死ぬまで分からないものよ」
ぼくは思う。たしかに『罪と罰』を換骨奪胎して『刑事コロンボ』が生まれたとしても、それはテレビドラマにおいて倒叙ミステリが犯人役を大物俳優に演じさせるのに好都合なだけで、商品としては大成功でも、これが小説だったら劣化版の模造品と思ってしまう。それとぼくはアンナカレーニナとか男女の恋愛ものには関心がないが、しかしその作品の中でいまだに心に残る部分がある。「あの人はいい人」と何の疑問も持たずに我々は口にするが、善良な人というものがどういうものか、そして人間にとって善とはなにか、それは理論や理屈を超えて誰にでもはっきりと理解できる種類のものである。言葉ではあいまいにしか表現できなくても、心の奥底でその意味することを共感できている――そんな風に書かれてあったと記憶しているが、それはたしかに奇跡である。音楽とは人為的な行為だが、自然界というか、この世界と完全には切り離せない。ぼくは漠然となのに、疑いもせずにはっきりと音楽とは何か、言葉以前の世界で把握している。人間が生み出せば、ランダムなんて難しく、無機質ではなくて生きたリズムになる。適当に鼻歌を歌うにしても、規則性のない曲にはならない。秩序、基本的にそういったきれいごとは、それ以上のきたないものによって成り立っているのである。耳障りな音を本能的に刻み込んだように、それが進化の過程で有利だったということだろうか。新陳代謝を取り入れたことで、永遠の寿命を得たはずの生物が、しかしアポトーシス、テロメアと、種の存続のために、わざと個体レベルで老化させ、死を与えたように。といっても安易な自由は、それはがん細胞で、全体を省みず自分勝手に振る舞う。芸術とは真逆で、寿命がなく、好きなだけ増殖し、プログラムによる細胞死とは無縁だから、逆に体全体をむしばんでゆく……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。