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High_C  作者: 夏草冬生
第三章 The One Hundred One-Handed Music
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 先制攻撃はその日の放課後、鞄にいつも入れているものを取り出すだけだ。

「宮藤先生に助けていただきたいことがあるのです」

 ぼくの妹が作曲した『片手曲』集、全79作品を宮藤先生の前に差し出した。

「小娘のお遊びみたいな曲ですが、愚妹が困っているのです」

 先生は、「何よ、急に改まって」と言いながら、それでもぼくが渡す、丁寧にメンディングテープで製本した厚手の楽譜を受け取ってぱらぱらとめくった。「それにピアノ嫌いがいるなんて珍しい」

 グレープは軽く会釈した。グレープを連れてきたのはぼくだ。ぼくがやりすぎそうになったら足で突いて知らせてくれと頼んである。本来ならアップルが適任なのだが、彼は英語の×5で忙しい。

「美声がいるのはあいかわらずだけど」

 オレンジは「えへっ」と大げさに頭の後ろを掻いてみせた。

「ところでレモン、双葉ちゃんを愚妹呼ばわりするとはひどいよ。でもいいな、妹。ぼくも欲しい。きっと、あんなことやこんなことができて萌えるんだよな」

「他人の妹だから萌えるのだろうが、代わりに姉がいるだろう、オレンジ。これから大事な話をするんだ。混ざるな、会話に」

 オレンジはただのおじゃま虫である。頼むからどこかへ消えてもらいたい。

「それでどうしたの?」

 宮藤先生がぼくの方へと向き直る。

「実は妹がニューヨークのある音楽学校に通っているのですが、それは愚妹が課題で作曲したものなんです」

「綺麗な譜面ね。へたくそと違って妹さんはかなり才能があるみたいよ」

 たくさんの名曲をさらってきた人間は、音符が織りなす幾何学模様をちらりと眺めるだけで、その曲の水準が分かるものだ。

「それで妹さんはどこに通っているって?」

「ユリアヌス音楽院です」ユリアヌスは音楽大学だが、週末には小、中、高校生にも門戸を開いていて、レッスンを受けることができる。命知らずのオレンジが「ハードだな、百合であそこ使わずアヌスかよ」と突撃してきたが、「男性名ジュリアンの由来となるJulianusをぼくがラテン読みしただけだ。usは男性語尾で、GracchusとかAugustusとかAfricanusとかローマ人は皆usがついているだろ? 解剖学的に肛門もついているのかもしれんが、英語のanusはエイナスと発音するんだ」とだけ答えて(黒板まで使って)、無視した。「父の妹、つまりぼくの叔母がアメリカ人男性と結婚していて、ニュージャージー州はウェスト・コールドウェルに住んでいるのです。妹は今年十四ですが、幼い頃から天才ピアノ少女といわれ、といっても作曲部門ですが、小学校高学年の時には国内外の子供コンクールで優勝しました。そんなわけで、小学校を卒業すると同時にアメリカへ渡って、人生のそのすべてを音楽にかけているのです」

「で、私へのお願いとは?」

「楽譜に黄色い付箋を貼っていますが、その作品番号78を先生に演奏していただきたいのです。そして手だけでいいので、撮影させて欲しいのです」

「ふ~ん」という、その表情からは興味があるのかどうか到底うかがえない。

「課題は楽譜だけでなく、実際に録音したものを提出しなければいけないのですが、妹が鍵盤楽器科の友人に頼んだところ、誰も片手では満足に弾けなかったそうです。それで仕方なしに自分で両手で弾いて提出したのですが、結果はAマイナスでした。妹はこの曲ならAプラスの評価でないとおかしいと抗議をしました。しかし作曲科の教授によると、課題に反して片手で弾けないものを作曲しても意味がないとのことです」

 ぼくは先生の顔色だけが気にかかる。宮藤先生はどことなく逡巡した口調なのだ。

「右手のためのコンポジション……。両手でも大変そうなのに、楽譜の指示に従って右手しか使えないとなると、相当に超絶技巧を要する曲ね。それにしても分からないわ。右手だけで弾かせる意味が……。いったい何なのかしら?」

「片手ならではのぎこちなさに深い味わいがあるのだ、と言い切れないのが悲しいのですが、ぼくには分かります。作曲した妹の気持ちが。コンピュータなどに打ち込むのなら別でしょうが、たしかに片手だと、人間の肉体や精神の限界を超越しなければ弾けない曲になります。作曲科のクラス討論でも言われたそうです。『自分が弾けないならまだしも、人間に無理な曲を作ってどうするんだ』と。それに対し妹は『そんなことはない、私の母が生きていたら、これぐらいの曲は簡単に弾けた』と主張して、引っ込みがつかなくなっているのです。たしかに妹は母を過大評価しています。亡き母への理想、こんな具合に弾いていたはずだという幻想を勝手に抱いているのです。ところで先生の疑問点は、なぜ片手で弾くのか、ですよね。これは父から聞いた話ですが、ぼくもおぼろげながら記憶があります。まだ赤ん坊の妹がぐずったとき、母はいつも妹を片手に抱え、もう一方の手でピアノの練習をしていました。腕が疲れないように交互に替えながら……。おそらくぼくも同じようにされていたのでしょう。ピアノの柔らかな調べを聴けば穏やかな気持ちになります。ぐずっていた妹も泣きやみます。育児で煩わしくても、手が足りなくても、人間、心の持ち方ひとつでなんとでもなるものですね」

 最後の一文は余計だ。言葉足らずな説明しかできないくせに「手が足りなくても」とぼくは口を滑らせた。もっとも先生はぼくの失言には気づけなかった。ぼくの言葉に嘘、偽りがほとんどないのが効を奏したのだと思う。ぼくが妹に泣きついただけで、妹が困っているという点以外、すべて事実なのである。この片手曲だって、我が愚妹ながら珠玉の作品集で、なかには演奏時間にして三十分という大作が混じっている。先生にお願いした曲は、その中でも最新作なのだが、『The One Hundred One-Handed Music』というタイトルの冊子にして、その他77作品を割愛しなかった。宮藤先生に出逢ってから一ヶ月あまり。いくら天才宮藤先生といえども、ぼくの本心は見抜けまい。妹が課題として提出したのは左右一曲ずつだが、当てこすりだと思われては心外なので、左手は攻めない。右手曲だけだ。もちろんこれが起死回生の妙薬になるとは思わないが、だからといって別に害にもならないだろう。軽いリハビリにでもなれば丸儲けだ。

 なのに予想に反して先生の様子がおかしいのである。「へたくその言っていることは分かるけれど……、なぜ片手なの? 赤ちゃん抱えてまでピアノを弾かなければならない理由なんてどこにもないでしょう? 気休めにはなっても何の練習にもならないわ。私にはやっぱりこの曲の本質がつかめない」と、いつまでもぐずぐずと、ぐずるのである。ぼくはすっかり怯えてしまった。即時撤退の用意はできていた。しかしそれは現状を死守するためで、よもやこの程度の攻撃で深刻なダメージを与えてしまうとは予期していなかったのである。ぼくは死刑宣告を受ける囚人のようにグレープの顔を何度も確認したが、その度にグレープは大丈夫だとうなずいてくれた。さらには「天才に作品理解を迫るのだから、レモンの妹もたいしたものだな」と涼しげに答えた。グレープには先生の書痙のことなどひと言も話していないけれど、先生は思ったことがすぐ顔や態度に出るし、普通に洞察力がある第三者的立場の意見は信頼できる。いつだって最悪を考えて行動するぼくだが、音楽棟横のトイレまで用を足しに行けたくらい、杞憂だった。もしもグレープが悲しく首を振っていたら、ぼくは冗談ではなく、その場でズボンをはいたまま放尿していたことだろう。寿命が縮まった。双葉の奴め、おどかせやがって、と悪態でも吐かなければ格好がつかない。ぼくの見立ては正しかったのだ。意味もなく片手弾きさせる曲ではない。だから先生を傷つけることもないわけだ。

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