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High_C  作者: 夏草冬生
第一章 表面世界は日常そのもの
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 ところで他校の文化祭はどうなのだろうか。会場は足りているのだろうか。もしかしたら有志一同によるグループ参加そのものがないのかもしれない。

 中高一貫教育の進学校、聖トマス学園(正式名称は聖トマス・アクィナス学園で、通常はこう略される)では受験を間近に控えた高校三年生は文化祭どころではなく、そのぶん高Ⅲの五教室にあきが出るが、しかしそれでは焼け石に水だ。中1から高Ⅱまでの普通教室は、クラスでの出し物があるため、つけ込む隙がない。特別教棟は文化部が占領する。体育館は演劇、舞踏、オーケストラ、合唱部が舞台として使用し、柔剣道場や運動部部室は当然かれらの練習風景写真や試合結果報告などの展示で埋め尽くされる。野外仮設ステージは青少年たちの主張の場と称して放送部が独占するし、第一グラウンドは教室の机や廃段ボール箱を利用した巨大迷路と化す。残るは、中庭、第三グラウンド、そして正面玄関付近であるが、そこは文化祭と言えば真っ先に連想されるであろう模擬店によってあふれかえってしまうのである。

 聖トマス学園では模擬店がことさらに奨励されているが、それは数年前、世間を騒がせた必履修科目未履修問題に端を発している。うちの学校は(もちろんうちの学校だけではないのだけれど)それまで、学習指導要領において必修だが、大学受験には関係のない科目(具体的には音楽や美術、それから地理選択者における世界史や現代社会が挙げられる)の授業数を削り、主要科目である数学や英語に割り振っていたのだ。判例によれば学習指導要領は法的拘束力があるそうなので、音楽だろうと世界史だろうと決められた授業数を受けて単位を修得しなければ法律上、卒業は認められない。それでは困るので学校は長年の間、教育委員会にどの科目も規定通りに授業をしましたと虚偽の申告をしていたのである。もっとも、この手のものは内部告発でないと外には漏れない。ぼく個人としてはそちらの方に関心があり、あくまでもぼくの想像だけど、とある高校生が高校卒業後、就職するためにでも提出した成績証明書に、おそらくは面接の時にばれたのだろう、本人が履修したはずのない科目が記載されていることに会社側が疑問を持ち、それを学校ではなく教育委員会にでも相談してこの問題が発覚し、そして全国の高校へ飛び火したのではないかと思っている。マスコミなどは原因にも対策にも興味がない無責任体質で、表層的に事件をあおるだけだから、未履修問題は乾いた油紙のように一気に燃え上がり、私立である聖トマス学園にも飛び火して、調査の手が及んだというわけだ。しかも聖トマス学園の場合、削減されていた教科はまだましなほうで、超進学校の男子校だけに、家庭科なんて授業そのものがなかった。つまり世界史や音楽や美術の先生はそれなりに(=各一名ずつ)存在していたが、我が学園は開校以来、家庭科の教師などひとりも存在していなかったのだ。中学三年間に百七十五時間と定められた技術・家庭は必修なので、本来なら聖トマス学園の出身者はすべてその卒業を取り消されなければならない。とはいえ本校第一期生はすでに八十歳を越えているから、義務教育だというのに中学の卒業資格まで失われるとなれば社会は大混乱に陥る。過去の卒業生たちはみな進学して、たとえば医師や教師や新聞記者、あろうことか法の番人である裁判官や検察官として勤めているわけで、法を厳守して全員が小卒となれば、学校教育制度どころかこの国を根底から揺るがす大事件になろう。よって結果的に何事もなかったことにならざるをえない。つまりは誰も責任の取りようがないし、何のおとがめもなしということになる。学校にはすぐさま文部科学省から改善指導があったが、せいぜいこれからは技術・家庭の授業をきちんとしなさい、という程度である。過去においては、数学の授業が理科の授業で、その理科の授業が実は技術・家庭だったとか、そういう超法規的な落としどころで落ち着いてしまう。もちろんこれはぼくが大仰に言っているだけで、昔のことは時効だろうし、また規定通りに単位を修得し高校を卒業したといっても小学生レベルの学力しか持たない大学生が全国に大勢いることの方が、実質必修を修めていないという明白な証拠だし、教育とは、ただ決められた時間、生徒を教室に拘束するだけなのかと突っ込みたくなるし、まったく、私立のカトリック校につまらない形式を押しつけるな、ですむほどのことである。ぼくなら「くだらん」のひと言ですませる問題だ。もっともぼくたち四人のうちで唯一、文系であり、将来哲学者か何かを目指していてもおかしくはないグレープに言わせれば「人はいつの時代でも表面的な信用や格式を維持するために非常なコストをかけてきた。そういう制度にはそれだけの価値がある。そしてそれこそが人間的なのだ。くだらんと言って無視すれば国家の安寧は危殆に瀕する。むろん個人の幸福も遠のく。社会を維持するためのコストだ、甘受しろ」だそうだ。ぼくにはグレープの言わんとすることがわからないが、それにしても人間の尺度やたてまえというものに深く考えさせられ、結局ぼくたちはできることをできる範囲でするしかないわけで、もう文化祭など小さすぎてどうでもよくなってくるが、だからこそ文化祭では人として学校として、たこ焼きからフランス料理まで、こんなに家庭科の技術が身につきましたとアピールする必要があるのだ。「そんな包丁さばき、とても無理です」と、料理の腕前にからっきし自信のないぼくたちは門前払いだが、けっこう高い確率で料理好きの男子はいるもので、何の話だったかわけがわからなくなってしまったが、要は有志一同にとって文化祭で出展する『枠』が悲しいほどに足りないのである。

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