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帰りに、ノートと鉛筆を買うと言ったアップルに付き合って、ぼくも消しゴムと修正液を買った。そして黙ったまま「それじゃあ、また来週」と別れた。購買部のある体育館北側から寮までの近道である狭いプール裏を横切ったら、その白いモルタル壁にもたれるようにして真っ赤なアジサイが雨の中に咲いていた。その昔、生研の植物班が花色素の実験のために挿し木した山アジサイだと聞かされたことがある。夏休み中の干ばつを避けるためあえて日当たりの悪い場所に植えたのだ。鮮やかな深紅の花色だが種はほとんどできない。リリカルな人なら、詩情あふれるアジサイの花言葉とか(移り気、高慢、美しいが実も香りもないetc.)、この花のそばにきれいな女性を佇ませてみたいとか、そういう連想をするのかもしれない。宮藤先生なら、先生自体が赤いアジサイだから、その傍らを飾るのなら青アジサイが似合うと思う。
生研植物班は学園のあちらこちらに草花を植えてある。一般的にアジサイといえば、装飾花ばかりの手鞠状の西洋アジサイ(=ハイドランジア)を思い浮かべるのだろう。たしかに豪華で見応えがある。ぼくは寮の正面玄関を通り過ぎ、第二グラウンドとの境であるブロック塀、群生する青アジサイまで足を伸ばしてみたが、ここは日当たりがさらに悪いのか、咲いている花はなく、つぼみのままだった。塀の向こうの少し高台になる第二グラウンドには、アガパンサスの青紫色の花が雨雫に濡れて咲いていた。
青いアジサイはアルミニウムの色だ。植物の生長を阻害するアルミニウムを多く取り込む希有な花で、青という希少な花色のためにそれだけの労苦を負うている。
白、赤、青とアジサイの花は色々でも、色素は同じアントシアニン(のひとつ、デルフィニジン)だ。でも単独では色がでない。アルミニウムと補助色素が必要だ。アルミが少なければ赤色、アルミが多くても補助色素が働かなければ真っ白だ。日本は酸性土壌だから絶えず畑に石灰を撒いて中和させる必要がある。酸性だとアルミニウムが溶け出してしまうことがその大きな理由だ。すなわちアジサイのアルミニウム耐性機構が解明されれば、遺伝子組み換え技術によって酸性土壌でも野菜が育つようになるのかもしれない。アジサイはその美しさに見とれてしまうが、遠くからみつめるだけでは科学は発展しないのだ。
剥き出しのコンクリートが積み重なったブロック塀にはたくさんのカタツムリが這っている。それに対してアジサイの葉は虫食いがなくてきれいだ。花の蜜が好きなメジロならいざ知らず、昆虫を主食とするウグイスが積極的には梅の木に止まらないように、カタツムリもアジサイは食べない。食べないどころか葉の上に置いたら逃げ出す。人間だってアジサイの葉やつぼみや根を食べると食中毒をひき起こす。美しい花には毒がつきものだ。スイセン、スズラン、スイートピーと『ス』で頭韻を踏んでみたが、みな毒草だ。食そうと思わなければ、普通に触れる程度なら被害はない。だけど科学者(特に化学、医学者)とは、毒と分かっていても、つい口に放り込んでその味や匂いを確かめてしまう因果な人種なのだ。致死量でなければ、いや致死量(=LD50、半分の人が死ぬ目安)であっても、そう簡単に人は死なない。運悪く死んでしまっても、そう、死ぬだけである。
いまはただ遠くからみつめているだけ。どれだけつらいのかぼくには分からない。そりゃあ書痙は、天才ピアニストにとっては致命傷なのだろう。だから四国のこんな片田舎の学校に都落ちしてきた。いっそピアノから離れられた方が楽になれるだろうに、宮藤先生にはそれができない。『健康のためなら死んでもいい』という健康教徒のようなおかしみはあるが、ピアノのせいで死んだ方がましなくらいなのに、ピアノなしでは苦しくて生きていけないのである。
シェークスピアとか、カタツムリは西洋では怠惰の象徴とされるが、黙々とその歯舌でコンクリートを削り取っている。ブロック塀にできる白い斑点は白華といって、コンクリート内に浸透した雨が蒸発する際、溶けた(=水酸化された)カルシウムが表面に集まり、大気中の二酸化炭素と反応して水に不溶な炭酸カルシウム(=貝殻の主成分)となって浮き出てくるのだ。石の上にも三年で、カタツムリの、カルシウムをせっせと摂取している姿にぼくは感動すら覚える。堅い殻を維持するのは大変なのだ。その苦労を思えば、かえって殻の退化したナメクジの方が身も軽く気楽なのかもしれない。でもそれができないからこそ、こつこつとコンクリートを削っているのだ。
いつのまにか雨は止んでいた。鬱陶しがられてもいい。ぼくも何か宮藤先生の助けになれればいいのに。超一流のピアニストとただの高校生。妙な組み合わせだけれど、それもまた一興だ。梅雨も悪くないとぼくは思った。