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それにしても、音も人間も同じだ。Aは四四〇ヘルツで物理的な音はどれも同じなのに、周りの環境ひとつで、たとえばAメジャーとFメジャーにおけるAの役割は異なってしまう。しかも厳密な四四〇ヘルツでなくてもよく、アバウトで取り替え可能で、よって立つところがないのだ。さらに五音音階としてうまく回避すれば、Aなしで音楽を奏でることもできる。
家族においては息子、地域においては高校生、世界においては日本人。たしかに平均律で近似した方が扱いやすい。それをたった一人の他をもって替えることのできない人間だと定義したら、その人だけを考えるならまだしも、他との関係性において、とても人間社会を維持できない。映画でもアニメでも名もなき戦闘員は、ただただ消費されるだけだ。いちいちその死に感情移入していたら物語がいっこうに進行しない。ひとつひとつの世界がそこにはあるからだ。子にとって父や母はかけがえのない存在だが、純正律もそんな感じで、閉じていて狭い範囲でしか通用しない。家族ではあるが妻にとってしょせん夫は他人であるし、純正律はハ長調に調整してもその中でさえずれてしまう。ぼくも少年Aだ。自分が思うほどたいした人間ではないし、そもそもぼくはぼくをどうしたいのだろう。
突然、男子校に、うら若き女性の声が響いた。
「純正律に異名同音は存在しない。すべてが違う音の高さ、しいて言うなら異名異音となるわ。まあでもそんな固執は、絶対音感がマイナスに働く罠ね。少しでも音楽を囓れば、この世に同じ音というものは存在しなくなるの。いま響いている音は、いくらど素人なへたくそなものでも、そう、二度とは手に入らないかけがえのないものよ」
奥の準備室から宮藤先生が扉を開けて出てきた。鉄筋コンクリートの分厚い壁はあるが、耳がいい宮藤先生には会話が筒抜けらしい。ぼくの脳裡に天岩戸の神話、そして死と再生の物語がよぎった。
「どうでした? すてきな夢はみられましたか」
寝起き顔だったから、心ここにあらずのぼくは儀礼的にたずねた。しかし先生は吹き出しただけだった。お箸が転んでもおかしい年頃ではあるまいし、宮藤先生は妙なところに笑いの壺がある。
「このへたくそ、へたくそナイトメア! これほどまでに騒音をまき散らしておいて、よくもそんな涼しげな顔で言えるわね」
アップルも同調して「たとえ夢の中だろうと、レモンのようにしかピアノが弾けなくなったら、オレでも恐怖でぞっとしますよ」と心外なことを言う。
「アニメの曲? なかなか良かったわよ。おしゃれで軽快なボサノバも悲しく美しいバラードも、聴いてて心地がよかった。で、へたくそナイトメア。これみよがしに何度もトロイメライ弾いて、まさか私に殺意でもあるわけ?」
「確信犯かしら?」という宮藤先生の問いかけに、アップルは平然と「天然ボケでしょう。レモンはそこまで計算できるほど賢くはありませんから」と答えた。音楽に関してならぼくは何も口出しできないが、学業不振なアップルのくせに生意気だぞ、と思った。
旗色が悪くなったから「ドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』も耳で覚えたけど、フラット六個かな」とぼくがアップルPCで調べようとしたら、宮藤先生が「そうよ。変ト長調。私もシャープいっぱいよりもフラット六つの方が好きだわ。弾きやすいし、柔らかい音が出るわね。これが嬰ヘ長調(シャープ六個)だったら混沌としたイメージに襲われて、弾きにくく感じて、何だかイガイガしてきそう。そうね。異名同音調でもニュアンスは変わるから、演奏時にも作曲者の主張は一応、尊重しないと」
変ト長調や、その異名同音調である嬰ヘ長調はフラットやシャープが六個になって楽譜の上では複雑になるが、運指において黒鍵を多く用いるから「てこの原理」で白鍵だけの時よりも演奏は楽になる。
それにしてもフラット六個とシャープ六個。物理的にはまったく同じに指を動かすのに、心理的な弾きやすさが変わるのは興味深い。
そういえば聴覚に関する現象も例外ではなく、視覚や先入観に左右される。マガーク効果といって、「ガ」と言っている映像に「バ」と言っている音声を組み合わせると、「ダ」と聞こえるというのがある。また別の現象に、同じ音量でも演奏を目の前にすると、楽器を見ていないときよりも大きな音だと知覚してしまう錯覚もある。それから、「わんわん」、「にゃあにゃあ」といった動物の鳴き声も、わんわんだと思えば、本当にわんわんと聞こえる。それとこれはぼく自身の経験だが、小学二年生の夏休みに家族でサイパンに出かけた時、はじめての海外旅行で頭の中はサイパン一色だったから、博多空港へ行く地下鉄の中で「サイパンはたいへんらしいよ、友人がね……」と話している大人たちがいてびっくりしたのだけど、「訴えられたら、勝っても負けても損しかしない」という後の会話で、サイパンではなく裁判の話だと分かったというのもある。つまり人にとって視覚や先入観は情報分析をする際に基礎となるもので、知らず知らずのうちに他の感覚器へ重大な影響を及ぼすということだ。
「雨の日は鬱陶しいわね。六月初めだけれど、もう梅雨に入ったのかしら」
なんの前触れもなく、ピアノに向かった宮藤先生は雨だれの前奏曲を一心不乱に弾いてくれた。五分強の曲で弾くだけなら意外と弾きやすい曲だが、情感を込めて歌うのは難しい。どうしてこんなセミコンで多彩な音色が奏でられるのだろう。まるでキラキラ輝く色とりどりの宝石だ。葉の緑や黄の雨傘それに真っ青で真っ赤なアジサイの花。モノトーンだと思っていた風景を、雨の雫に光を閉じ込め、こんなにも色彩感あふれる曲にしてしまうなんて。鬱陶しいと言っていた宮藤先生は、雨がお嫌いらしい。物憂い雨だれを、本当に宝石として表現している。あまりにも斬新な解釈だったから、もしかしたら、ピアノには一音として同じ音はなくすべてが別の音なのだと、ぼくに見せたかったのかもしれない。
それから、トロイメライも拝聴できるという僥倖に恵まれた。その曲調は心静かな、優しい眠りに誘うものだった。宮藤先生のトロイメライは母の胸に抱かれたような、暖かでぬくもりのある、それはやさしい、やさしい曲だった。だけど同時に、周囲のものをその底知れぬ深みにどこまでも引きずり込んでいく迫力があった。浅瀬で気持ちよく泳いでいるつもりが、実はその下に暗く深い海が潜んでいることに気づかされ、足つかずなぼくは吸い込まれそうになる。事実、一度沈んだら二度とは浮かび上がれない内なる闇の存在に恐怖して、背筋が震える。普通に生きていると、自分の知り得る範囲、到達できそうな所が、ぼくの世界のすべてで、その外側を思いもしない。紙と鉛筆だけで何も見ずに世界地図を描けば、それがその人にとっての世界の形だが、それは本人が思うよりもはるかに矮小だ。たとえ完全に再現できる人がいたにしても、それすら地球の表層をなぞったに過ぎない。それなのになぜ人は宇宙にあこがれるのだろう。星降る夜を見上げれば簡単に手が届きそうだし、空想ならば輝く星々まですぐにでも飛んで行けそうだが、その真の苦労を、不可能性を、ぼくは何も知らない。先生の左手、その色白な手先が鍵盤の上でしなやかに舞う。ぼくは自分の輪郭を保ち続けるのがやっとで、不安定に揺らぐ床にしっかりとしがみつき、くらくらとするめまいに耐えながら必死で立ち続けるだけだった。