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High_C  作者: 夏草冬生
第一章 雨の第二音楽室
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 ある雨の土曜日、ぼくは三時まで部活にいそしんだ後、第二音楽室へ向かった。公立では週休二日制なのかもしれないが、私立である聖トマス学園は土曜日も通常営業だ。平日だろうと土曜日だろうと、六限=三時までは学校があって、土曜の午後は部活タイムだけどそれだって強制だから授業なのだ。

 そんないつもと変わりない土曜の放課後、予想通り宮藤先生は準備室のようで、音楽室の鍵は開いていた。そこへ剣道部帰りのアップルがやって来たので、ピアノをみてもらうことにした。雨天だけに、ショパンの雨だれの前奏曲だ。雨だれを表す連続音の上で、いかに綺麗なメロディーの花を咲かせられるかがポイントである。

「雨だれに微妙な強弱をつけて、そこは感情を込めるのはいいがアウフタクト気味にならないように。それとここは表現が甘い。もっと歌う。雨だれを表すGis(=ソ♯)がAs(=ラ♭)に戻るところ油断するな、大切に。連続される雨だれ、同じ音だからといって同じに弾くな、心を込めろ。しかもこれは全般にいえることだ。和声が変わっているのだから、コードごとにその色に染まれ。雨だれは同じ音だけど、けっして同じ音ではないのだ。それぞれに意味合いが違う。せっかく心情を表現できるチャンスだというのにもったいないだろう? それと楽譜は前後するけれど、雨だれがGis、Fis(=ファ♯)、Gis、A(=ラ)という変化をもっと聴かせろ。レモンのはかなりばらつきを感じる。違う音の時は逆に同じ音のように雨だれを表現しろ」 

 化学で「PH」を「ペーハー」でなくて「ピーエッチ」と発音するように、ぼくは音階は英語名を心がけているが、それでもアップルのようにドイツ音名は♯や♭がついても一音節で言えるので便利である。

 途中、卓球部のオレンジが体育館の方から傘もささずに走り込んできたが宮藤先生がいないことを確認すると、ぼくとアップルが熱心にピアノに向かっているものだから、黙ったまま傘を開いて寮へと帰っていった。

「レモンは打てば響くぞ。けっして、へたくそではない」

 アップルはアップル母と同じで褒めて伸ばすタイプだからありがたい。

 こんな具合にアップル先生から一時間以上の特訓を受けていたのだが、一段落つくと、アップルはアニメソングを、ぼくはトロイメライを弾き始めた。アップルが弾いている間は、彼がノートPCを放置していたから、頭の中でピアノを弾きながらその電子楽譜を眺めていた。有名どころの曲は暗譜しているアップルだけど人に教えるから、雨だれの前奏曲を開いていたのである。ショパンの雨だれは、途切れなく続く伴奏の一音が雨だれを連想される前奏曲で、それらがすべて同じ音だと何度もアップルに指摘されていたというのに、ぼくは遅ればせながら、そのとき楽譜を参照してやっと気づいたのだ。

「本当だ! 全部ラの♭だ!」

 作曲の妙というべきか、ぼくが抜けているというべきか、間断なく(というか間断があるからこそ、連続性を人に喚起するのだが)連打される雨だれの音は、その表記こそ違えどどれもが同じで、鍵盤でいうところのラ♭だったのだ。

「美はいつだって『ずれ』の中にある。いつもいつも予定調和なのはおもしろくない。といって、めちゃくちゃなのは理解不能なだけだ」唐突なぼくの叫び声にアップルはピアノの手を休めてこちらをみていたし、あまりに恥ずかしかったので、ぼくはそんな意味不明なことを言ってごまかした。「ところでアップル。『雨だれ』で連打される嬰ト(ソ♯)=変イ(ラ♭)、ぼくには嬰トの音の方が、ほんのわずかに高く聴こえるな。しいて言えば別の音だ。ただの錯覚だけど、思うに純正律なら音の高さ(周波数)はすべての音において違うから、それはつまり脳が欲する錯聴だな」

「異名同音のことか? 音名が違っていても演奏される音は同じだし、同じだろう。純正律だろうと、長音階、短音階とも雨だれの音である完全五度音程は同じ周波数になるはずだ。まあ長調と短調だからレモンは違う印象を受けたのだろう。明と暗、これだけ対比させられたら、誰だって別の音に聴こえるよ」

 ぼくは弁解した。

「物理的に違う音に聴こえてしかたないんだ。基音が同じなら完全五度の距離は一緒だというのは知っているけど、その基音が、つまりレの♭とドの♯の高さが違っているのではないかと思うんだ。その二つの音は平均律ではどちらも二七五ヘルツだけど(ぼくはすばやくアップルのノートPCの統計ソフトで計算した)、たとえばレの♭が二七〇でドのシャープが二八〇にしたらより美しくなる、とかじゃないのかな。モーツアルトの時代では四三五前後だったラの音は現代では国際的に四四〇ヘルツと決まっているけれど、ピッチを上げると少し華やかに聴こえるから曲によっては四四四にチューニングするだろう? そのラの音だって、古代ギリシアの古い弦楽器がラを基準に(最低音として)作られただけであって(だからラの音はアルファベットの最初の文字Aだ)、そのため現代の弦楽器でもラが開放弦になっているのだけど、べつに基準の周波数はなんだっていいはずなんだ」

 アップルはこんな理屈に興味を持たない。従って話はおのずとずれる。「つまり物理的に同じ音なのに、レモンの頭の中では違う音に響いてくるんだろ? だけど同じ鍵盤を押しているのだから、まぎれもなく同じ音だ。でも何の問題もないよ。ショパンもそのように味付けしているのだから」

 そして「音の物理的な高さよりも、心理的表現に留意して弾かなければ」と言う。「心の中の音階、それを描かせ震わせるショパンは偉大ではないか」と。

 それはその通りだ。ぼくだって純正律とか平均律と些細な周波数の違いなんて気にしない。多少のずれは、ぼくの心の中で無意識に補正ができる。音の波長が整数比という簡単な比になると人間には心地よく感じるという事実は、物理の授業でなければどうでもよく、ピアノにおいて問題なのは心にどう描かせるかということである。平均律という近似的な代用でも、純正律に負けないどころか、極上の音に聴こえるはずだ。ぼくはけっして物理的な音に神経質ではない。だって生演奏にこだわる安田先生を軽蔑するくらいなのだから。いずれにしろ、言い合いなど、どうでもよくなってきた。考え方は違えど、ぼくとアップルは同じことを主張し合っているのだ。

 そこで、ぼくは別の話題を振ってみた。

「プッチーニの『ある晴れた日に』は母と楽譜で練習したし、西村由紀江の『木漏れ日の中で』は香椎セピア通りの喫茶店で流れていたのを耳で覚えて弾いているのだけど、どちらもフラット六個、変ト長調(G♭メジャー)の曲だと思っていた。でもこの前アップルの楽譜で知ったのだけど、木漏れ日の方は嬰ヘ長調(F♯メジャー)なんだよな」

「たしかにシャープは堅い感じ、フラットは柔らかい感じがするな」アップルも同意する。

「ぼくもそうだ。シャープはシャープな音に、フラットはふわっとした音に聴こえる。同じ曲でも調が違えば違う曲になってしまう。ラ・カンパネラもそうだ。ぼくには『ミ♭』でないと鐘の音は響かない。母の演奏を直に聴いて育ったせいか、楽譜なんて見ず勝手に解釈してしまっていた。それが中2の時、瑞穂さん(=アップル母)にレッスンしてもらうために楽譜を購入して、『レ♯』=シャープ六個の曲と知った日には(精神的に)三日ほど寝込んでしまったよ。だいたい金管楽器、トランペットのドはピアノのシ♭だし、ぼくにとって金属質な音はみんなフラットなんだ。だから意地でも『ミ♭』の鐘として弾いているけれど」なまじ器用なものだから、何度も耳にする曲は自然と弾けてしまい、楽譜なんて見ない。ぼくにとって音楽は生活の一部で、母の姿をみて鍵盤の位置をおぼえたし、和音だろうと音を聴けば反射的にその鍵盤が押せた。別段なんの不思議もない。日本は論語によって漢字が入ってくるまで文字がなかったのだし、それまで話し言葉だけで事足りていた。書き言葉の必要性を感じなかった。とにかく紙の楽譜と頭の中の楽譜は一致するが、たまにずれてしまう。そうなるとぼくは、ぼくのtonality(=調性、騒音と差異化し音楽を音楽としてたらしめるもの)が信用できなくなる。

「ラ・カンパネラが『ミ♭』でもいいんじゃないかな。レモンの表現力では聴いている側に違いは分からないし」

 重要なことなのに、アップルとはかみ合わない。表面的なものに終始して、どうしても奥底まで響き合わないのだ。ぼくにとってこの世界が違って見えるくらいの衝撃なのに、アップルは何も変わらず、うまく伝わらない。もどかしい。赤を青、青を赤と逆に見えていたとしても、色の区別さえできればなんの問題もない。本質的に赤がどんな色に見えているなんて人には説明がつかないからだ。大事なのは区別であって、ものの本質の方ではないのかもしれない。

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