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High_C  作者: 夏草冬生
第一章 雨の第二音楽室
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 あの日のことをとりたてて話すことはなかったが、一度だけアップルは先生に告げたことがある。

「レモンはピアノに関して、弾くより聴く方が三倍すごいんです。レモンのお袋さんはプロピアニストで、それこそオレのお袋があこがれるほどの腕前だったそうです」

 ぼくはアップルの発言にあわててつけ加えた。

「端くれ、本当に恥ずかしいぐらいに端くれです。本業は主婦業で、ピアノはアルバイト感覚の副業でした」

 いくら母を持ち上げたくても相手が宮藤先生では、月とすっぽん、恐れ多い。

 オレンジも宮藤先生が気になるらしく、毎日のように第二音楽室で顔をあわせるようになった。もっともぼくやアップルとは反対で、宮藤先生が準備室に引っ込んでいればさっさと退散してしまう。どうやらオレンジは毎回、宮藤先生の寝姿を携帯カメラで撮影しに来ているようだ。ほんとに困った変態さんである。成績不良のアップルは課題に追われているため三日に一度くらいの頻度でやってきたが、その時には彼にピアノの個人レッスンを頼んだ。それから、グレープはめったに来なかった。昼食は寮の食堂だし、この広大な聖トマス学園の敷地において音楽棟は寮から対蹠的な位置にある。気軽に行こうとは思わないほどの距離があった。

 ぼくは寝ている宮藤先生の安眠を妨げないよう、シューマンの「トロイメライ」やドビュッシーの「月の光」など、静かな曲を好んで弾いた。宮藤先生が聖トマス学園に来てから二ヶ月が経ち、あれほど賑わっていた見物人たちはいなくなった。雨が降る日には「雨だれの前奏曲」や「雨にキッスの花束を」、晴れた日には「ある晴れた日に(世界三大オペラのひとつ、長崎を舞台にした『蝶々夫人』から)」や「ハレ晴レユカイ」を、その他の天気なら「雨のち天晴れ」や「晴れのちハレ」や「曇りのち晴れ」などをピアノソロで弾いた。クラッシックの曲は主にぼくが弾き、知らないアニメソングはアップルが弾いた。

 アップルには楽譜の収集癖があって、手に入れた原本はスキャナーでスキャンした後、ビニールで厳重に封をしてから保管する。電子化された楽譜データはノートPCや携帯端末に入れて持ち運び、暗譜していない曲をリクエストされたらそれをチラ見しながら演奏するのだ。High―Cで練習したり、紙の楽譜のやり取りが必要なときには自宅にあるA3プリンターで印刷してくる。もっともゲームやアニメのサウンドトラックは、楽譜自体が市販されていない。だから書籍からスキャンしたものよりも演奏を聴きながら浄書ソフトで楽譜に起こした曲の方が圧倒的に多くなる。バンドスコア、ピアノ、ギターと、弾き語りやソロを楽器別に忠実に再現するだけでなく、アルペジオバージョン、シャッフルバージョンのようにリズム・バッキングパターンに手を加え、ボサノバ風、ジャズ風と代理コードを多用してコード進行自体をアレンジするので、同じ曲でも種々のバリエーションが生じることになる。そしてそうした古今東西のアニメやゲーム音楽の楽譜こそがアップルコレクションの神髄なのである。

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