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High_C  作者: 夏草冬生
第一章 表面世界は日常そのもの
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 苦節三年、やっとのことで生徒会の文化祭実行委員から許可がおりた。今年は下働きをしなくてもすむかもしれない。それなら恥を忍んで女声でプレゼンし続けたかいがあったというものだ。

 文化祭の任意グループでの出展希望者は、企画書だけでなく、実際にその文化的意義を先生の前で呈示しなければならない。全国学生運動の余波を受けて、一九七〇年以降、文化祭や体育祭は生徒が運営するようになったと、受付に積まれてある入学案内のパンフレットには記載されているけれど、生徒会は傀儡だ。審査面接に付随する教頭先生と各学年主任の計七名こそが実権を有している。入学案内や学校ホームページの表紙を飾る『生徒の自主性を重んじる校風』なんて嘘もいいところであろう。

 まあそんなわけで五月の連休明けに、アップルが担任から審査通過を証明する茶封筒を受け取った日、ぼくらは放課後の廊下で顔を見合わせて笑った。よくぞ、こんなふざけたバンドを通してくれたものだと。

 だが、まだ安心はできない。色々と煩雑な手続きが残っているからである。参加登録のための各種書類は二週間以内に提出しなければならない。そこでぼくたち四人のリーダーであるアップルが発言した。

「顧問は安田先生にお願いしよう」

 グループ展参加者は、ただの文化祭だというのに自分の親だけでなく先生の誓約書まで必要なのである。そしてこれこそが大変なのだ。保護者の署名捺印なら容易に偽造できる。だが、先生のサインや印鑑になると話は別である。

 善は急げということで、そのままぼくたち四人は、騒音対策のためだと思う、体育館よりも遥か向こうにある、平屋建ての音楽棟へと向かった。

 真夏の熱気のように、耳がおかしくなりそうな大音量が降り注いでくる。音楽室は放課後の部活タイムだった。オーケストラ部員がめいめい勝手気ままに楽器を奏でているのである。先生は音楽準備室にいた。チェロパートを円陣状に集め、弓の動きをそろえるよう楽譜にボーイングのアップダウンを書き込ませていた。

 安田先生は中年のかなり頭髪が薄い先生で、ぼくたちは入学した当初からずっとこの先生に音楽を教わってきた。

「忙しくて、とても手が回らない」

 文化祭の、とアップルが言ったか言わないうちに先生の返事だけが返ってきた。けんもほろろとはこういうことなのだろう。とりつく島がなかった。

 もともとぼくはこの先生が好きではない。授業でクラッシックを鑑賞させるにしても、とにかく先生は「オーケストラは生でないと意味がない」と耳にたこができるほど言う。一度きけばわかるというのに、何度も「生、生、生、生」とうるさいのだ。CDなら聴かない方がまし、と言い張るくせして授業でCDを聴かせるのは矛盾である。だいたい「生だと音が違う」なんて、くだらない。音質に差があっても、頭の中で変換すればいいだけのことだ。安田先生のおっしゃるようにCDだと音楽の心が伝わらないのであれば、悪いのはCDではなくてオケの方である。演奏さえ本物なら、雑音でさえ、心がけしだいでいくらでも美しい音楽へと変わり得る。それどころか、ぼくは美しい音色とは常に心の中にしか存在しないと信じているくらいだ。物にこだわっては、目や耳にとらえられるものだけを固執しては、枝葉末節に陥りやすい人間になってしまう。主客転倒をさけるためにも、まずは感受性をみがくこと。そして音の善し悪しを批評するより、全体の印象から生まれる想像力を養うこと。もともと聴覚なんて頼りない。その時々の気分ひとつで変わる、実にいい加減な代物なのだ。

 かたわらに言葉を失った四人が立ちつくしたままなので、先生はユーモアのつもりなのか、「申し訳ない。女の子にもてるためのバンドはことごとく断っているんだ」とチェロ譜をみつめたまま言った。

「ぼくたちのは女の子に嫌われるバンドです」とアップルは粘ったが無駄だった。数分間無視されたあと、それでもめげずに、再びアップルは問いかけた。

「はやりの曲ではなく、クラッシックならOKでしょうか?」発起人とはいっても、もう三年前のできごとなのに、彼なりに責任を感じているのだろう、アップルはあきらめなかった。「アンサンブル、四重奏団です。ロックバンドみたいな反社会的なものでは一切ありません。主にCM・アニメソングです。バイオリンとヴィオラとクラリネットとトランペットです。生演奏です。楽器さえ都合がつけば、弦楽四重奏も完璧です。それにぼくたちは、母親が皆先生と同じように音楽大学を卒業していて、幼い頃からその手ほどきを受けていますから……」

 苦しい言い訳だ。アップルが母親のことまで言及したのは安田先生が音大出であることを誇りにしていたからで、しかしぼくたち四人が誰ひとりとしてオーケストラ部に入っていないことから分かるが、その腕はアップル以外たいしたものではない。アップルはまさに音楽天才児で多種多様の楽器を指先ひとつで弾きこなせるのだけど、ぼくはせいぜいヴィオラとチェロぐらいだ。そのふたつの楽器は弦の音が一オクターブ違いだから何とか操れる程度で、それがバイオリンになると途端に怪しくなる。ぼくはヴィオラは寮に持って来ているが、それは母が音大の第二必修で使用していた形見の品だからで、実際は実家においてきたチェロの方が得意だ。

「お手数はかけません。サインだけでも」と、挫けないアップルは誓約書を差し出す。

 反省会の実施、指導日誌など、顧問の先生には何の役得もなく、煩わしいだけである。そのうえ何かあれば責任者として学園理事会から始末書まで要求される有様なのだ。

 先生ははじめてこちらへ顔を向けた。

「なぜ、前もって言わない」

 なかなか引き下がらないぼくたちに気分を害しているのは明白だった。

「ぼくたちは高校一年生ですし、まさか許可されるとは思ってもみなかったものでして……」

「私が断れなかったバンドは、去年断ったから、今年はしかたなしに引き受けたものばかりだ。高校二年生は文化祭に参加できる最後の年だからね。だから来年は約束しよう」

 先生は再びスコアに視線を戻した。「オケ部顧問である私がいくつも受け持つのは特例なんだよ。私はそうは思わんが、文化祭にはバンドがつきものだそうで、教頭に言わせるとそれなしでは対外的にすこぶる体裁が悪いらしい。他校の先生方から、生徒を締め付けていると邪推されるのは心外だというのだ。まあ、私に言わせれば単に父母会を恐れているだけのことだと思うがね。何を考えて教頭は次から次へと許可しているのか知らんが、私の許容範囲をとうに越えている。文化祭のコピーバンドはひとつもあれば十分だ」

「はあ」

「それでは来年、がんばりなさい」

 安田先生の態度が尊大なのはしかたがない。音楽は受験に必要な科目ではないので、ことさら生徒にみくびられないようにしなければ、この学校で先生は務まらないのだ。

「どうやらダメらしい」

 やれやれ顔のアップルにつき従って、ぼくらはとぼとぼと音楽棟から引き退いた。

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