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High_C  作者: 夏草冬生
第一章 雨の第二音楽室
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 宮藤先生の授業日(月、水、金、土)の昼休みと放課後に、第二音楽室へ顔を出すのがぼくの日課だ。もっとも先生は音楽準備室で、おそらく寝ていることが多かった。音楽室に出ている時はいつもピアノに伏して寝ていたから、ひとり準備室で起きているはずがない。ピアノがベッドになっていたら、ぼくはそのまま踵を返したが、あいていれば勝手に弾くことにしていた。そんな時、先生はしばしば準備室から起きてきて、「へたくそ! 何このへたくそ。あなたのピアノがへたくそすぎて、どれだけ私が悪夢にうなされたと思っているの。おちおち眠ってなんていられないわ」と苦情を訴えてくる。だけどぼくは気にしない。ストーカーはいつだって笑顔で対処するのが基本なのだ。これは先生なりの屈折した愛情表現に決まっているし、それが証拠に先生に怒っている様子はなく、どちらかというとあきらめ顔である。無論ぼくだって先生に迷惑をかけたくはない。そのためにも、へたくそという現状を打破すべく「ぼくのピアノ、どうすれば上達するでしょうか」とたずねるのだが、まったく相手にされない。

「処置なし! あまりにひどすぎるから。とりあえずピアノを自分の体の一部にするため、毎日ハノンとチェルニーを真面目にやりなさいとしか言いようがないわね。自分なりに音色を生み出そうとする意識を持って心の中にある理想の音と対峙させながら、どうすればその音に近づけ……まあどうでもいいわ。へたくそが音楽で食べていくというわけでもないのだから」とすぐに引っ込んでしまう。そういうぼくも生物研究部に所属しているので、放課後はそんなに長居できない。

 それでもぼくの熱心さが宮藤先生に伝わると、「こういう音色が出せる?」と右手でドレミファソラシドと弾いてくれて、ぼくもあとに続くのだけど、どうしても音が毀れてしまう。美術で言えば真円をさっと描いてみせて真似しろという感じだが、荘子の包丁の故事をこの身をもって実感でき、これがなかなか難しい。吉川英治の宮本武蔵で吉野太夫が琵琶を壊す場面もその内容は同じだが、荘子の包丁が『其ノ刃ヲ遊バスニ必ズ余地有リ』というその遊ばせる余地がぼくのピアノにはないのだ。

 聴けばただの音階ドレミファソラシドだけど、リズムも強弱も均等に弾いているのに、宮藤先生らしさをもって揺らいでいる。集中しなければ気づかない、ほんのごくわずかなずれだけど、たしかに宮藤先生がそこにある。そもそも機械でないとまったく八音とも同じようにはならないが、機械にできないことを達人は軽々とするのだ。スーパー職人と呼ばれる人たちは原子五個分の誤差で金属を真っ平らにするという。だからきっと宮藤先生がやろうと思えば、機械以上の正確さをもって、機械的にスケールを弾けるはずである。

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