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社会経験が乏しくて頭でっかち。学校と寮を往復する毎日であり、勉強、読書、ピアノ練習と、すなわち観念の世界がぼくの生活のすべてである。だけど高校生とはおよそこんなものだろう。脳みそが筋肉なのよりかはましだと思う。もちろんアフリカの内乱に生きる少年兵のように戦闘や食料調達にとサバイバルな毎日を送る身の上であれば、ぼくの性格もかなり違っていただろうし、目の前の過酷な状況に対処するのが精一杯で、のほほんと精神世界に夢を馳せることもないはずだ。身に危険の迫らない平和な日本、その環境への適応とでもいうべきか、理解のない暗記はしないし、体で覚えるよりも、まず先に頭で考えようとする。もちろん世の中の出来事が教科書どおり起こるなんて思ってはいないし、それどころか現実の体験を重視するからこそ、ぼくは自分の身の回りに起きた出来事を頭の中で何度も反芻するのである。何事に対しても予習復習は大事だ。勉学に努めることが、すなわち頭の中でものを考えることが、ぼくのこれまでの人生の大半を占めているから、仮説を立て、定義を導き出し、応用問題を想定したりして、ありとあらゆるものを色々な角度でみる努力は欠かせないのだ。オレンジはぼくと似たような思考の持ち主だが、アップルにしてみればこのようなぼくは理屈っぽいだけで敬遠される。それと同時にぼくの思考が飛躍しすぎてどこか抜けているそうで、それが行動に現れると、例えばトイレが終わって手を洗っているとき、洗面台の鏡に用を足し終えたアップルが近づいてきたから、水を出しっぱなしにしたまま隣の遠い蛇口に寄ってあげたら、そこへ来ようとしたアップルとぶつかってしまったときなどがそれに当てはまる。「レモン、オレにはお前のしたかったことが分かるから一応は『ありがとう』と言っておく。だけどまさか手洗いの最中に動くとは思わなかった。気を遣ってくれるのはうれしいが、何だかとっても馬鹿っぽいぞ」と笑われてしまう。一方でそのアップルにも、徹底的に論理立てるグレープは何か超越したところのある哲学者にみえるようだ。そのグレープからは、ぼくの論理は隙だらけで、肝心なことは置き忘れ、前後のつながりになんの脈略もないし、自己弁護的なニュアンスを多分に感じる、とのことである。
人は小、中、高校と、工業製品のように大量生産されるから、型にはめられ同じようなもの見方、考え方をしてしまうようになる。もちろん労働者としては画一的なのが利点であり、料理を作るにしても質にばらつきのある材料ではかえって扱いにくく、信頼できない。軍隊でも、アメリカ人の司令官、ドイツ人の将校、日本人の兵卒で軍隊を作れば世界最強になるのももっともであって、従順で読み書きができ、言われたことをそのとおり遂行してくれる下っ端の存在はありがたい。日本人は目上の人に意見をするなと教えられるから、自分の中に核というものが育たず、平和な時代には平和万歳と唱えても、戦争に突入したら、みんな戦争万歳になってしまうのも仕方のないことなのだ。真のキリスト教徒は、親兄弟も異教徒である異教徒社会に生まれながらもキリスト教徒になった者で、それはイエス・キリストしかいないものだから、人はいかに周囲の環境に左右されやすいか、悲しくなるほどであり、だから一枚岩はけっして悪いことではないが、力の方向によっては(キリストひとりにしてやられるくらいに)案外もろいものでもある。自己の拠り所が、えらいとされる人への付和雷同、または集団との同一化にあるのだから、クレバーハンスのように空気を読むのが巧みで、それが生きる知恵でもある。馬のハンスだからクレバー(=賢い)と尊称されるが、これが人ならば別に賢くもなかろう、馬鹿である。自分が上の立場にいれば、彼らはご主人の顔色ばかり窺う犬だから、肩書きさえあれば無能な者にも扱いやすく、便利な家畜ではある。生態学における群れの効果をぼくは否定しないし、個人という存在がいつ生まれたのか、ギリシア神話の悲劇のヒロインに法を破るアンティゴネはいるが、個人や個人主義がどのように発生してきたのか(教会における個人的な懺悔とかからか?)ぼくは寡聞にして知らない。人はけっしてひとりでは生きていけないし、理屈を介さなくても感情だけで通じ合うし、自己責任と切り捨てられないのなら、いい大学に入ればいい会社に入れる権威主義の日本も案外すてきな国なのかもしれない。もっとも、国民のすべてが信じていた神話は、つまり終身雇用や年功序列、右肩上がりの成長などは、もはや崩れ去ったといっていいような今のこの状況なのだけれど……。
ものごとは中立で、すべてはとらえ方しだい。ピアノだって演奏者の思想ひとつでまったく違った楽器になる。もっとも時代のニーズが多品種少量生産になれば個性を伸ばそうという声が聞こえはじめるが、それでも現社会体制の要請としては、やはり企業や消費者の立場からみても、脊髄反射的対応とマニュアル的作業による、均一なサービスを求めるものだ。医療保険制度で、同じ治療なら全国一律に料金をとられるのに、医者の腕に雲泥の差があっては困るのである。将棋でも定跡をおぼえれば、何も考えずにすぐ指せて、その変化手順するまでは名人と差がないわけで、無敵である。常識破りの天才が相手でないかぎり、定跡中に破れることはない。ぼくは教科書を、マニュアルを軽んじてはいない。人ひとりの命よりも(大勢の賢人たちが人生のすべてを捧げて建てた記念塔なのだから)『型』の方が本質的に重いものなのである。
心理学の実験によると、集団心理とは恐ろしいもので、ビルの一室にもうもうと煙が立ちこめても、誰も逃げなければ、そのままじっとその場で待機してしまうそうである。専門用語でいえば、みんながそうしていたからという多数派同調バイアスと、火災なんてそんな非日常的なことが起こるはずがない、という正常性バイアスが働くのだ。無作為に集められた集団に対し、ある部屋に待っているようにと指示をする。火災報知器や避難誘導などのアナウンスがされず、異状を知らせる何の情報も入ってこなければ、不思議なことに人は危機を感じない。はたから見たら喜劇のようにありえない現象だが、ぼくには笑えない。自分だってそうすると認識しているからだ。安穏と寮生活を送っていて、時間割どおりの退屈な毎日で、周囲を見回してもみんな一緒だから、よもや宮藤先生に強襲されるなんて夢にも思わず、なんの危機感も抱かなかったわけである。でも、ぼくの頭には知識がある、ぼくの心には理想がある。この状況下では、じっとするのではなく、もがいた方がいいような気がするのだ。すでに手遅れかもしれないが、このまま焼け死んで十代の大切なこの時期を終わらせることだけは避けたい。死? そう、死というか、死の観念にぼくはいつだって覆われている。息苦しくて封じ込めようとしても、煙のように隙間からとめどなく入ってくる。先ほどのビル火災の心理実験もそうだが、人間に無駄なものはない。生きる上で必要なものばかりである。ぼくは社会制度に従って、きちんと学校へ通う毎日を送っているからこそ、死の恐怖を忘れ去ることができる。もちろん妹のためにガンの画期的な治療法を研究したいという気持ちは一日も忘れたことはないのだけれども(妹はまだガンには犯されてはいないが、ぼくの母方の家系で、記録が残っている五代前からだけでも、すべての女性が二十、三十代でガンらしき病気にかかって死んでしまっているのだ)。
過剰な自意識から地下室や屋根裏部屋に引きこもっているわけでもなく、社会と折り合いをつけて普通の高校生活を送っているのだから、どちらかといえば何をしているかよりも何を考えているかの方がぼく自身であり、外見ではなくて内実に特異性(=ぼく自身)があると信じたいのである。何を言っているのか自分でもよく分からなくなってきたが、以上が宮藤先生遭遇事件に対するぼくの反省点および感想である。