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宮藤先生を見抜けなかったことが、そこまでつらいのか、ぼくはいくらでも言い訳が湧いてくる。自分でも笑いたくなるほどだ。しかし他人が人を判断する、その恐ろしさについて、いくら強調しすぎてもしすぎることはない。人間は、自分だけは特別だと思い込む動物で、しかも安易になりがちである。だから直感ではなく、判定する前にひと呼吸もふた呼吸も置いて、心してかからなければならないのだ。現実において人を判別しなければいけない場面は多数おとずれる。たとえ、その人材を採用しない時でも、完全に切り捨てて再起不能にさせるのではなく、いつでも取り返しがつくように保留しておくのは最低限だ。宮藤先生に「恥をかかせてやれ」などと、あんな態度をとる必要性はどこにもなかったのである。
ぼくは理科系を専攻している。だから天才の恐ろしさを、科学者を例にいくらでも挙げることができる(息の長さは大切で、あえて一呼吸おいた紹介の仕方にしてみよう)。
ところでぼくは論語や老子など、有名どころの中国古典を、初心者向けに分かりやすく書かれた啓蒙書を多数読んで身につけていった。そのなかには小川環樹という京大教授が著したものも数多くあった。
存命中の権威や大家は、政治力さえあれば虚名を博しやすい。だから未知の分野では誰が優れているのかわからない。そのためひとりに絞らず、著者が異なる、最低でも三冊以上の入門書をぼくは一度に目を通す。権威同士の見解の相違に注意を払い、自分自身がそこに生じた多角形や立体の中心となって、比較検討しながら学んでいくのがぼくのスタイルだ。だから小川環樹は、死後になお中国古典の権威で有り続けていたので手に取った次第である。そして、普通そういう専門書的なものは著者の略歴で済ますものだが、小川環樹の本には巻末に、彼の家庭環境や家族関係についての文章まで載っていることがあった。たとえば、小川環樹の父は、地質学者で京大教授の小川琢治であるとか、そしてその小川琢治は、もとは浅井家の次男で、小川家の養子となり、小川家の娘と結婚した、とかいった内容である。
そんなことは、中国古典を学ぼうとしている読者にとってはどうでもいい。でもぼくは、著者のプライベートな話に、のぞき見趣味というか、興味があった。そんなわけで、文章にはみな、目を通したのである。
地質学者の小川琢治には、五男二女の子供がいて、特に「四樹」と言われる四人の息子が有名らしい(五男、滋樹は石原家の養子となり、第二次世界大戦で若くして戦死している)。即ち上から順番に、芳樹、茂樹、秀樹、環樹であり、中国古典の小川環樹は四男である。ちなみに長兄の芳樹は冶金学者で東大教授、次男の茂樹は東洋史学者で京大教授だ。つまり、小川兄弟は「学者兄弟」として知られていた。よって、その父である小川琢治は優れた教育者でもあったのだ。
ところが三男、小川秀樹は無口で、父親の琢治からは頭が良くないと思われていた。何を考えているのか分からないと疎んじられていた。事実、三男には大学進学は無理だと、かわりに専門学校へ行かせようとした。するとその話を聞いた高校の校長が「彼は数学ができるから」と父、小川琢治を説得し、進学を勧めたとのことである。そうして三男は京大に進むことになる。とにかく小川環樹の紹介には、なぜか兄である秀樹が登場してくる。秀樹に関しては、小川環樹本人のエッセイが載っているくらいだ。
戦前の大学受験の難易度は知らないが、京大に合格するくらいだから、三男秀樹は賢いのだと思う。そして大学卒業後、彼は阪大の講師となるわけだが、それは実力ではなくてコネだ。事実、彼が勤める物理学科の教授からは、「君の兄さんから依頼されたので、やむなく君を採用したのだから、しっかり勉強してくれなければ困る」と人前で叱責された。
現代人は「自分とは何か」と個人で完結していて、自分探しに夢中だが、昔の人は儒教的な考え方で、父、自分、子供というように、先祖と子孫の流れの中で自分の存在意義を見いだしたようである。お家の断絶は自分の命を失うよりもつらく、自らのよりどころそのものを失う、怖ろしいことなのだ。戦前の日本は、家父長制を基本とする家族制度を採用して、家督を継がせるために養子縁組は頻繁に行われていたらしい。小川家の事情はよく分からないが、次兄の茂樹は貝塚家に養子に、三男の秀樹も湯川家の婿養子となった。
小川環樹のエッセイをはじめて読んだとき、彼の慎ましさなのだろうか、それとも誰もが知っている常識なのか、文章中に自分の実兄がノーベル賞を受賞した湯川秀樹だと強調しないから、ただ兄・秀樹と書かれても、「兄だから当然小川秀樹さんで、誰、それ?」という感想であり、ぼくには小川一族のすごさなんて分からなかったのである。
優秀な人を養子にやるのは、ある意味では、とても滑稽だ。戦前生まれの人は、貧乏で無名な家柄ではなければ、ぼくが理解できないぐらいに家名を重んじる。もちろん湯川秀樹がノーベル賞を受賞して、小川家の人たちは非常に悔やんだそうである。たしかに小川環樹の実兄があの湯川秀樹だなんて、ぼくは想像もつかなかった。「湯川秀樹はお兄さんだ」と小川姓に言われても、ピンと来ない。「えっ?」と思うのが自然な反応だ。湯川秀樹は湯川家の人間で、湯川家は、湯川城主の末裔で、その一族には日本初のノーベル賞物理学者、湯川秀樹がいる、ということになり、湯川秀樹は湯川家の誉れであって、小川家の実績と言われても、誰も養子だなんて知らないから、すぐには信じることができないのである。
中間子理論という、輝かしい物理学上の業績、それは、父、小川琢治や弟で中国古典の大家、小川環樹の名前などかすめてしまうほどである。だけど、小川琢治は京大教授まで務めた地質学者なのだ。そんな一流の学者でさえ、父と子として暮らしていても、三男・秀樹が天才だと分からないのである。ぼそぼそと、まともに返事すらできない者だと見なしていた。そして天才なんて容易につぶせるのだ。大学に進ませてもらえなかったら、ノーベル賞科学者・湯川秀樹は誕生しなかったであろう。
(家長制度の時代、子育ては、大切な跡継ぎを得るため、主に父親の役目・責任であって、現在の日本みたいに、父親は仕事一筋で家庭を顧みず、母親だけが子育てをしていたわけではない。湯川秀樹は三男だったけれど、父が祖父にお願いして、五歳の時には祖父から漢文を教わっていて、放任されていたのではないのだ)
なんと怖ろしいことだ。天才は見分けられない。同じ屋根の下で毎日暮らそうが、理系の専門家である学者が、世界一の学者になる息子を、物を言わないから他の兄弟に比べても能力が低いと見下すのである。たまたま校長先生が大学進学を勧めてくれたからよかったものの、どんなに秀才で、かつ肉親であっても、世界一流の天才を選別することはできなかったのだ。無論、弟であった環樹も兄がそこまで賢いとは夢にも思わなかった。優秀な学者の中で学問に励み、人生経験の豊富な父親でさえ見抜けないというのに、それを求めるのは酷というものであろう。何度でも言おう。同じ理系専門分野の人間がこいつはダメだと見切りをつけたのである。天才はひと目で分かるなどという考えは、怖ろしくてぼくにはとても持つことができないし、福翁自伝の「門閥制度は親の敵」という言葉を借りれば、そんな奴らはぼくにとって親のかたきなのである。(しかしその親のかたき的なものの考え方をする人間が、他でもないぼく自身であったのだ)
なのに人の上に立つ人は皆「自分はエライ」と自己催眠に陥ち、自分の下にいる者を、「コイツは馬鹿だ」とか「賢い」とか、一発で分かると思い込む。そのせいで、ぼくの母は死んだのだ。
科学の発展は、たとえば顕微鏡や電子顕微鏡などの実験器具がなければ次の段階にいけない場合もあるが、そんなハード面ではなくてソフト面がネックになって先に進めなかった分野も多い。遺伝学がそれである。論文発表が一八六六年なのに、そのレベル以下の論文が一九〇〇年に立て続けに三本出たわけで、再発見されるまで三十四年間もロスしてしまったのだ。遺伝分野においては道具の制約がないので、メンデルによる遺伝の概念さえあれば、現在、医学でも薬学分野でも三十四年分は先に進んでいる。天才メンデルがやる気をもって実験を続けていれば(アルキメデスが殺されなかったら、あと一歩で到達できる、微積分を発見する可能性があったように)、彼一代でさらに十年は進めていたかもしれない。つまり遺伝子の変異によって発生するガンなんて、治療技術が確立されて、母の命も助かっていたはずなのだ。
物の見方、考え方がいかに重要か、道具があってもそれだけでは何もならないのである。逆に幾何学のように、コンパスと定規だけで作図するという制限さえできるほど自由だ。
ロシアの植物学者ミハイル・ツヴェットが一九〇三年にクロマトグラフィーの方法を発表した(彼の死後かなり経ってからその重要性が認められた)。クロマトグラフィーとは物質を分離・精製する技法だ。抗生物質ペニシリンは一九二九年にフレミングによって発見されたが(彼自身はペニシリンの単離はしていない)、抗生物質という発想さえあれば、ツヴェットは一九〇三年にペニシリンを精製できていたのだ。梶井基次郎が結核にかかったのが一九二〇年(そしてその十二年後に死ぬ)だから、ツヴェットに抗生物質の概念を伴っていれば、ストレプトマイシンなど日本でも安価に出回っていて、檸檬という小説は生まれなかったことになる。
勿論そんなことを言えば何でもアリだ。紙クロマトグラフィーなら必要なのは濾紙ぐらいで簡便である。抗生物質の原理や抽出の仕方さえ知っていれば、一八四九年に結核に悩まされて死んだショパンも、当時の道具だけで助かってしまうのだ。
フレミングは天才だ。ツヴェットも天才だ。凡人は天才のじゃまをするなと叫べても、とてもじゃないが、フレミングより前に抗生物質を思いつけなんて、言えない。ぼくが恨む筋合いでもない。でも抗生物質の、その発想のもとは、細菌が知られていない紀元前の人が思いついてもおかしくはない種類のものである。察備心さえあれば、アレロパシー(Allelopathy)=植物の他感作用など、生物は生き残るために他の生物の発育を阻止したり死滅させる物質を出しているのではないかと、気づくことができる。もちろんそれを言えばメンデルの法則を導き出すのも、エンドウマメを数えるだけだから、人間であればいつの時代の誰であっても実験可能だ。
そのメンデルだが、理科の正式教員の免許を取得しようとして何度も落ち、結局は教員免許をとれなかった。のちに二年間ほどウィーン大学に留学しているが、経済的な理由で大学には進学していない。それでもメンデルの所属した修道院は、哲学者、数学者、鉱物学者、植物学者などを有し、学術的な研究や教育が行われていた。
学歴を信用すると痛い目にあう。肩書きとは本人の努力というよりも、運や環境、社会の気まぐれから与えられる種類のものである。進化論を裏付けようとエンドウを使ったメンデルをネーゲリは、けっして無視したり冷遇したわけではない。だけど、メンデルの業績を正しく把握することができなかった。ともかく田舎の子供がスイカのタネを数えて喜んでいるような感じに受け取ったのは間違いない。いくつかの業績はあるのだが、現在ネーゲリの名が大きく残っているのは、無論メンデルの才能を見抜けなかった(無能な)科学者だからである。でもネーゲリは、当時は一流どころか、世界一の大植物学者であったのだ。