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ナチスドイツにはシュペーアなる人物もいた。人間もパソコンと同じでプログラム(思想)がなければただの箱だ。飛行機に戦略爆撃という概念が結びつき、制空権を奪われた枢軸国は激しい空襲を受けるようになった。しかし戦争がひどくなるにつれて兵器が極端に減少する日本と比べ(おしまいには、あろうことか竹やりだ)、生産量が逆に伸び、ジェット戦闘機、V2ロケットなど革新的な新兵器が多数登場するドイツがぼくには不思議で、小学校の夏休みに近所のこども図書館で調べたことがあり、すると建築家からヒトラーに軍需大臣をさせられたこのシュペーアという人物に出逢った。戦後イギリスからはシュペーア革命と呼ばれ、資源も労働力もない中、飛躍的に生産性を高めた。本来は建築家であったし、シュペーア本人はヒトラーから軍需相に就任させられるまで、自分の驚異的な『マネジメント能力』には気づいていなかった。もっとも戦局を巻き返すことはできず、ドイツの敗戦を半年のばした(だけだ)と評価されたが、システムをそれなりに握った個人の力はけっして小さくないのである。とにかくシュペーアひとりのせいで連合国側は半年も余計に苦しんだわけで、しかも彼が自由に動けていたらもう半年は戦争が長引いていたのである。シュペーアが愛国心あふれるドイツ人女性を労働者として用いるのがベストだと主張してもかなわなかった。ゲーリングとは対立していたし、独裁者ヒトラーの命令は絶対だ。給料どころか財産没収でろくに食事も与えないユダヤ人に強制労働をさせ、費用対効果が極端に悪いV2ロケットの生産が優先され、しかも進撃してくる敵に利用させないよう工場を完全破壊したがるヒトラーのせいで、かなり足を引っ張られたのである。
女優レニ・リーフェンシュタールはヒトラーに見いだされ映画監督になった。ぼくが暮らすドミニコ寮のテレビ室で、レニに関する海外ドキュメンタリー番組が流されていて、長らく映画界で黙殺されていたその名と業績を知った。彼女は二〇〇三年に百一歳で亡くなったようで、それで特集番組がどこの国かで制作され、ずいぶん昔のものだが、それをNHKが再放送していたのだ。特にぼくが興味を惹いたのは、現代の高名な女性監督がレニの作品について次のように解説するところである。
『一作目、愚作。二作目、くだらない作品。こんなもの素人以下の撮影です。しかし、三作目である、あの「意志の勝利」をみて私は愕然としました。才能の差に打ちのめされ、のたうちまわったのです。そして何かひっかかるものを覚え、過去の二作品を見直しました。すると私には撮れない。けっして撮れないことが分かったのです。これら初期の二作品はレニの天才的な企みがことごとく裏目に出て失敗作になっているだけで、どの場面でもいいのですが、たとえば、ここのこの角度、下からのアングルはありえません。でも三作目のこの場面では、このように改良され、兵士の偉容を強調するよう生かされています。驚くべきことにヒトラーやレニには最初からこの光景が心の中にみえていたのです。これがヒトラーでなく私なら一作目でみるのをやめていたことでしょう。彼女の名声を知っているから我慢して次の作品をみただけです。それにしても恐ろしい才能。まさに悪魔の才能です。でも私にとって、優れてさえいれば悪魔の才能だろうとかまわないのです』
嚢中の錐というけれど、実際はその逆で、社会が欲するから生まれるだけで、ナポレオンは革命の申し子なのだ。つまり天才だろうと環境が悪ければ芽は出ない。極端な話、食べ物がなければ飢え死にか、はたまた病死か、とにかく貧乏ならば教育を受けることができず、朝から晩まで農作業に追われて読み書きを覚える時間もとれないのである。小学校の教師に頭が腐っていると言われ退学させられたエジソンだって、その後、母親から基礎学力を授けられなければ発明王にはなれなかったであろう。だからぼくはヒトラーより、ヒトラーを小間使い程度の才覚しかない男だと思い(事実、彼の実力では天才を小間使いにしか扱えない)、毛嫌いしながらも結果的にヒトラーの増長を許し、ナチス政権樹立への道を開かせてしまったヒンデンブルク大統領の方がはるかに嫌いだ。当時はワイマール共和国と呼ばれ、大統領は皇帝ほどの権力を有していたが、ドイツ国民の上に立つべき人ではなかったのだ。しかし無論ぼくはヒンデンブルク大統領を非難できるほどの人間ではない。でもいないと思うからそうなるだけで、ドイツのどこかにはヒトラーをも有能な部下として活かせることのできる天才政治家がいるはずなのだ。
アルキメデスはその偉大さを見抜けなかったローマの兵士に殺されるが、逆を言えば、アルキメデスを登用したシラクサの王は慧眼の士だったということだ。事実、その王はローマの台頭を予言したヒエロン二世で、彼もまた偉人である。日本史なら織田信長が、下っ端の木下藤吉郎をよく見いだしたと思う。豊臣秀吉のその経済面でのすぐれた才能は素晴らしいと思うが、今の日本で、人材がいないと嘆く社長が、その忙しいさなかにどれほどまで末端社員に目がゆき届くだろうか。
ホメロスは天才であろう。情報を記録する媒体、たとえば紙がなければ現代社会は壊滅的に縮小すると思うが、一万数千行にのぼるイーリアスやオデュッセイアが口承叙事詩として、文字化せずに創作されたのだからたいしたものである。ある小説に、世界最古の盗作はホメロスの時代に起こった、と書かれていた。ホメロスについては伝承不詳、なにひとつ記述が残されていないから、たぶん創作なのだと思うが、それはこうだ。
『盲目の詩人ホメロスの名を騙って、食事と宿を手に入れていた盲人がいた。しかしある島でふたりのホメロスが同時に現れた。島民はどちらかが偽者だと考えた。そこでふたりに詩を創作させた。すると一目瞭然、偽者がばれて殺された』
ぼくが思うに本物と偽物とはそうそう見分けがつけられるものではない。しかもその究極のところでは両者は区別できないと考えている。そもそも本物というものが普遍的で未来永劫に不変であるのなら、良いものは良いと、その時代の雰囲気に影響されることもなく誰からも絶賛されるわけで、ゴッホ、ゴーギャン、モディリアーニと、死んでから崇拝される芸術家なんて皆無になってしまう。そもそも素人が簡単に判断できたとしたら、それこそダイアよりもガラスでできたイミテーションの方がより光り輝くように、そちらのほうが偽物なのだ。本物はとかく分かりにくいもの。ワインでも安物の方が(味に深みがなく)口当たりがよかったりするし(高校生にアルコールは厳禁だ)、ぼくだって勉強しているときにはイージーリスニングの方を好み、宮藤先生のピアノ曲をBGMとして軽く聞き流そうなんて思わない。贋作づくりには、人の信号刺激をうまく利用することが肝要であり(アニメ絵のヒロインは、目と胸を大きく描いて、くびれを強調すべし)、偽物だとばれぬよう、そのための努力を惜しまない。それに対し天才には凡人の気持ちが理解できないところがある。道ばたで肖像画を売って小銭を稼ぐのなら、依頼された女性を美しく描けば、芸術作品を追求するよりも簡単で効率がよく、しかもお客に喜ばれる。なのにゴッホだろうがゴーギャンだろうが、それすらできない偽物の画家なのである。実際、彼らは「タダでもいらない」と言われるような絵しかかけなかったのだ。
ちなみにゴッホの場合、生前に売れたのは『赤い葡萄畑』の一枚だけ。だから他の作品は自然と人にあげることになるのだが、もらってくれる人も、それは鶏小屋の穴をふさぐのに便利だったからである。それから、せっかく患者が描き上げたプレゼントを医者はその治療のためにも受け取り拒否しないものだ。そういうわけで、ゴッホはかなりの数を入院先でお世話になった精神病院の院長に贈っている。さすがは病院長、患者からもらった作品を捨てなかった。だが、その遺産を相続した、院長の弟はゴッホに対し何の義理もないので、そんな「狂人の絵」などは当然のごとく焼き捨ててしまったのである。ゴッホは画家ですらなく、絵を描くのが趣味の変人というのが真実に近い。だから猟銃で自殺したくもなるだろう。絵の具も買えないほどで、三十七歳の若さで亡くなったのである。
知能指数は百を平均とするが、その平均の人が創作活動に励むとき、よほどのことがないかぎり、下限の四十あたりの人に好まれる作品作りを目指したりはしないだろう。だから商品として制作するのなら別であるが、知能指数上限である百六十の人が芸術作品を、平均の人を念頭において創作するのか、ぼくには甚だ疑問であり、いわんや天才をやである。ホメロス騙りだって、偽者で凡人だからこそ、人にいちばん喜ばれそうな詩を熟知していたはずだ。なにせそれで食べているのだから。つまり彼とって大切なことは、自分が朗読する作品の文学的価値なんかではなく、ただひたすらに聴衆の反応なのである。そうやって内実ではなく外面を最優先に制作される偽物は、その外連味が分からぬ者には、往々にして受けがよい。
愚かなアップルなどは、『IQ一六〇の天才である』と書かれたライトノベルの主人公の、ただ奇行癖があるだけでその思考・言動の愚かさからしてどうみてもIQ六〇でしかない天才性を疑わないくせに、そういう記号的なことは何ひとつ書かれていないせいか、「頭がいい人が主人公の作品ならこれを読め、面白いぞ」とぼくが貸してあげた地下室の手記などは、最初の数ページをめくっただけで、「こんなの読めるか! だってこれは小説ではない。しかも独り言ばかりで馬鹿だ、この主人公は」と投げ出す始末である。アップルは会話も思考も単文が主なのだが、彼に言わせると、分かりやすい文章を書く方が難しいのだそうで、複文や重文を多用するのは頭が悪い証拠なのだそうだ。確かにぼくは、オレンジやグレープにアップルの意志を伝えるときは、単文で受け取ったくせに単文では表現できなくて、勝手に改変してしまう。つまり、ぼく伝えのアップルの会話はすべて複文になる。「簡単な話を難しくしてどうする」と言われても仕方がない。人間の思考とその行動との間には必ず矛盾があるから、『二二が四』ではない精神世界を反映しようと、ぼくは自分勝手に主述のねじれた文を好んでいるし、本当に頭が痛い話だ。平易な訳文で相手が世界的な文豪であろうと「悪文は悪文だ」と怖じ気づかないアップルは素晴らしいし信頼できるとぼくは称賛したのだけど、ドストエフスキーの名を知らないというのはガックリときたし、世界的教養人を標榜する聖トマスの生徒としてそれは問題だと思う。
そういえば本物は一発でわかると軽く書いていた作者は、実際彼の作品は二匹目のドジョウばかりを狙ったものだった。ぼくはそのような(自分のためではなく)読者のために執筆する作家を否定はしないし、(いい意味で)それでこそプロなのだろうが、そういう人ならば迷わずホメロス本人を偽者だと信じて、なんのためらいもなく殺せたであろう。同じ小説家でも「贋金つくり」を著したジッドクラスになると話は変わるが、それでも本物のホメロスが助かりそうもなく、むしろふたり仲良く偽者呼ばわりされ、一緒に殺されるのがオチである。