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ぼくは感情でなく理性で動ける人間でありたい。感情を行動原理にしてはいけない。いざという時、感情を優先せず、敢えてないがしろにする人間になりたい。やさしさならすべてが終わった後にフォローしても遅くはないが、秩序や道理や正義などは、一度曲げてしまったら取り返しがつかなくなるのだ。だからこそ逆説的な話になるが、感情に従って生きても正しい生活が送れるようでないと、それは成熟した社会とはいえないだろう。人の感情は社会秩序に沿った形で形成されないといけないし、またそうあるように社会が築かれている。ひとたび習慣化されると歯磨きをしなければ気持ち悪くてしかたがないのと同じだ。孔子のように、羊を盗んだ父親を訴える少年ではなく、父をかばった少年を正直者と感じるように、目ではみえないのだけど既に世界は形作られているのだ。
南方のとある島では女性は普段から上半身裸で生活している。そのため絶えず乳房をさらけだすことになるが、それでも両脚は布で隠してある。彼女たちにしてみれば水着姿で太ももをあらわにする女性の方が信じられないくらいに恥ずかしい存在なのである。日本人もかつては裸に寛容で、江戸時代では銭湯での男女混浴禁止令がわざわざ出されるくらいに混浴がありふれていた。そして戦後しばらくまでは、電車の中などの公共の場でも若い女性が赤ん坊に乳をあげるために胸をはだける光景が普通に見られた。こんなことは厳格なキリスト教社会ではありえないことである。
明治に太陽暦が導入され、カレンダーは大幅な簡素化が起こり、生き残った暦注(=大安、仏滅とか)は、六曜と呼ばれるようになった。無論それらは非科学的な俗信だ。しかし現代でも、大安に結婚式が多く、友引に葬式が少ないという現象は起きている。病院の入退院の日取りに、仏滅等を避けようとする行動は、ベッド数が足りない現状を見ても、社会的に憂慮される問題だ。社会全体だけでなく自分にとっても不利益なことでも、感情が優先されると、これこそが利益なのだと疑うことすらできなくなってしまう。だけど人の感情など、周囲の環境、慣習でどのようにでも変えることができる。社会人として、よりよい安寧秩序を保つのに最適な感覚こそが望ましい。
自分さえよければそれでいいという近年の風潮の中で、どれだけ通用するかは分からないけれど、私利私欲のための金儲けは恥ずかしいと感じる、その感情だ。もちろん孔子は商売を奨励した。個人の利益を追求することで社会全体が豊かになり、そして他人をも幸福にするからである。環境を破壊し、人々を不幸にし、世の中を混乱させているのに、「金儲けをしてどこが悪いのでしょうか」はないのである。人に迷惑をかけないかぎり、たしかに自分勝手は許されると思う。いやもっと正確に言うならば、社会全体の利益になるから、個人の自由は尊重したほうがいいとぼくは考えている。自然科学は個人主義の中で発達したのだ。
つまりぼくのトラウマは宮藤先生の気分を害したことにあるのではなく、その天才性に気がつけず、そればかりか恥をかかせてやれと害意を抱いた点にこそある。もちろん生き延びるための自己保身なら生存本能として仕方がない。しかし、卑小なプライドを守る、ただそれだけのためならば許されない。まったく取るに足らないプライドなのだ。しかしそれは、何の取り柄もないだけに、ぼくのような愚人は必死になって死守してしまうよりどころなのである。その恥ずかしい精神構造をぼくは身をもって知ることになった。
それでも人を選抜するなどの、システムを握る人間ではないから救われた。今回はたまたま生徒という目下の立場だったからよかったものの、本来ならは死ぬほど詫びてもあとの祭りなのである。自由意志による個人の行為において発生するのに、その個人ではつぐないきれないほどの大きな責任が生じること、それも自覚なしにいとも簡単に起こりうることが恐ろしいのである。
脚気と玄米と森鴎外がよい例だ。日露戦争で脚気の死亡者が皆無だった海軍のように、理由が分からなくてもよい結果になるのなら麦飯やパンを食べさせればいいものを、鴎外は、英国式の実証主義的ではなくドイツ観念論的に、当時の科学的知識からかえって間違った判断をして、白米で押し通した。当時はビタミンなんて知られていなかったので、白米の栄養価がけっして小麦に劣らないことは医学、栄養学的に正しかった。そのため陸軍では二十五万の兵士が脚気にかかり、三万人近くが病死した。ちなみに戦死者の方は四万七千人だ。ロシア兵に日本兵は千鳥足で攻撃してくると不思議がられたほどだったから、脚気のせいで戦死したものも多かろう。ここまでくれば個人が責任をどうこうという問題ではない。なのに、いやだからこそ鴎外は、その日露戦争直後に陸軍軍医総監という最高位にまでのぼりつめた。あの悲惨なノモンハン事件でも、作戦立案者たちが敗戦責任を部下に押しつけ自害させ自らは立身出世を果たしたように、それが日本陸軍の栄光ある伝統なのだ。もちろん医者になってガン治療の研究者になりたいぼくは、小説には全然興味がないので、森鴎外なんて尊敬していない。英語圏以外の作家でも、トルストイやトーマス・マンなどの有名どころは全員、英英辞書に載っているというのに、漱石も鴎外もその名が見あたらないので、日本で文豪とありがたがってもそれが通用するのは地元だけだ。所詮、日本語は方言みたいなものだし、客観的にそして公平にみれば、それは本人の努力実力というよりも欧米に生まれたかどうかという環境の違いでしかないような気もするが、まあどちらにせよ、世界の誰でも知っている大作家ならば、日本兵の大半が脚気で死のうと、ぼくは森鴎外が大好きになったであろう。
いや、鴎外はすごいのだが、日本語はそれほどまでに欠点なのだ。まるで世界的に有名になるには、英語だけで日本語などは知らない方がよいと思われるくらいに……。そもそも欧米人は日本にまったく関心がない!
とにかくである。論争好きの鴎外にはこてんぱんに批難され、誰からの賛同も得られなかった海軍軍医、高木兼寛だが、彼に救われた脚気患者も多いはずなのに、しかし日本人は鴎外を褒め称えても高木兼寛の名すら知らないのが普通だ。ということは、脚気は見ていられないほど苦しんで死ぬ病なのに、それでも鴎外好きなのだから、それは無意識にしろ、自分の命よりも文学を大切にするという意志の表れだ。そんな日本人をぼくは誇りに思う(=無論、皮肉的な意味でだ)。