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それはぼく自身の心の傷とか先生への感情的負い目とかですまされる種類のものではなかった。犬や猫じゃあるまいし、ぼくにとって、普通の人が何故か重きを置く人間同士の感情面のやりとりなんて、どうでもいい。それどころか無意識にしろ書痙の件について見抜いたことは自分自身を褒めてやりたいくらいだ。いつ遭遇するか分からないセレンディピティを逃さぬよう、ぼくが絶えず察備心を働かせていたことの証明、そしてその成功例なのだから。たしかに先生を怒らせたことは申し訳ないが、万能である先生に、ある種の限界を知らせたことは、長い目で見ればきっといいことだとぼくは信じている。そもそも、感情はあとからいくらでも埋め合わせることができるので、ぼくはあえて気にしない。自らの行いが正しければそれでよい。しかし今回は間違ったことをしでかして、つまり先生の左手の指摘よりも、それ以前のぼくの行動にこそ問題があったのである。また、それによって自分の才能や可能性、その限界をはっきり思いしらされたことがショックなのである。ぼくは人の上には立ってはいけないタイプの人間で、自分が思うよりもかなり矮小な人物だったのだ。常に成績が学年トップでうぬぼれが強かったから、それを直視する苦しみはつらく、かといって逃げることはできなかった。
宮藤先生にたいしては、天才を見抜けなかったという絶望なのだろうか、自分の凡庸さかげんには泣きたくなるが、例えばラボアジエほどの大化学者を「共和制は科学者を必要としない」と言って断頭台に送った馬鹿を、それまで「じゃあ共和制に何が必要なんだよ。貴様らのような愚民こそが必要なのか。笑わせるな!」とぼくは馬鹿にしていたが、他ならぬぼく自身がその大愚民の大馬鹿者だったのだ。自分が得意なはずのピアノ分野で、それも宮藤先生ほどの逸材がこの世に、たとえ二人はいても、ふた桁いるようには思えないというのに……。