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その後一週間は、小説、ドストエフスキーの罪と罰を読んだ中1の冬のように、奇妙な現実感に覆われて暮らすことになった。それは本質がむき出しになった世界だ。たとえば毎日がエブリデイ。つまり『毎、日』は、英語でも『every、day』で繰り返すことができる日々である。それは、死を想い、死の概念を安全装置に封じ込めることによってしか日常生活を送れない人間の叡智だが、ほんとうは今日のこの日は永遠に帰られない日々なのだ。優れた作品に出逢えばどうしてもこのように、生きているってなんなのだろう、ぼくという存在はなんなのだろう、とそんなことを考えない方が楽に生きられる事象と対峙させられる。生きている実感、リアルさというのは求めれば求めるほど遠のいてしまう。それはゲシュタルト崩壊を起こし、『あ』という文字に執着すれば、字面を追うのにも苦労するようなものだ。容赦なくばらばらな横棒や曲線など、各要素に還元されて、立ち往生してしまう。自動化された作業が解体されてしまうのだから、信じていた世界が崩壊していくと言っていい。再構築されるまで、地に足がつかず夢うつつで、宮藤先生への罪悪感と名演奏の余韻に浸って、煙のような固定化されていない別世界をさまよい歩いていた。授業も寮生活もなんだか遠い出来事のように思われた。
ぼくは馬鹿ではない。あの日、寮に帰って湯船につかる頃には、宮藤先生の脳天に強烈な一撃を加えた原因を自分なりに把握できていた。それは文字にすればたったの二文字。『書痙』だ。
左手が利き手なのは、サインをする際、左手に持った万年筆でぼくは気づいていたのかもしれない(万年筆やハンコを持つ姿にアンバランスさを、右綴じの書類を逆手でめくる姿に気だるさを覚えていた)。左利きのピアニストはぼくにとっては珍しい。それが違和感のひとつであったことは確かだ。それにしても無自覚だから始末に終えない。ぼくにアップルレベルの実力があれば、少なくとも先生の心を土足で踏みつける、あんなまねはしなかったであろう。
もっとも左利きとピアノ演奏には何の関連性もない。ただただ左利きを感じさせたのが問題なのである。利き手どころか、指の一本一本の力加減を自在にあやつらなければ、ピアノなんて弾けはしない。ピアノ曲では一般に、右手の小指でメロディーを、左手の小指はベース、両方の親指は内声部を受け持つものだが、初心者は最も音を抑えなければならない親指を、いちばん強く押さえてしまう。
ぼくは「革命」を聴いている最初の段階で、すでに気がついていたのだと思う。急速な左手の動きが、どことなく強調されているような気がして、それはぼくの意識にのぼらない、ほんのささいなものではあったが、利き手とはいえそれはとても奇妙に感じられたはずだ。もちろんよほどの聴き手でなければ感知できないほどに淡く、とりたてて言うほどのものではないのかもしれない。しかしぼくの母はピアニッシモの遅いパッセージはことさら誇示しても、フォルティッシモの速いフレーズは淡泊なほどあっさりとやり過ごす。ピアノという楽器の名称は小さな音を表す『p』からきていて、母はショパンの神髄はそのピアニッシモにあると考えていた。もちろん、分かり切ったことは言わなくなるという言葉の経済性からは、フォルテが前提だからこそ、フォルテピアノ(またはピアノフォルテ)がピアノと呼ばれるようになったとも言える。プロは百十デシベルを優に出せるし、強音こそが私のピアノと思ってもいい。だけどそれを差し引いても余りあったのだ。単なる強打の連続はフォルティッシモではない。感情の抑制が効いていないとまでは言わないが、宮藤先生が母をはるかにしのぐ技量の持ち主だったからこそ、微細ながらも、ぼくの無意識に引っかかってしまったのである。そしてそうやってできた無意識の地下を流れる伏流水が、続く幻想即興曲や愛の夢でも枯れることなく水量を増していったものだから、先生と対話し、なめらかになった口の隙間から、『左手』という言葉が吹き出してしまったのだ。
もっともこれらは幾日も後になって、反省しながら思い出したときにそう理由づけられることであって、その晩の湯船の中でも、それから翌日になっても、はっきりとは分析できなかった。あの日あの時あの一瞬は、無意識裡の作用によって口走っただけであり、なぜあんなことを言ってしまったのだろうかと驚き悔やみまくったのは、誰よりもぼく自身なのである。
とはいえ直感は悪くない。しばしば人の直感は一足飛びに真実へ、正しい方向へと導いてくれる。付け焼き刃だけど進化生物学的に言えば、直感が悪い方ばかり働く種は、瞬時の判断が生死を分ける生存競争において敗退し、子孫を残せないからである。
あの次の日の朝、宮藤先生はわざわざ高1廊下、その入り口付近で、登校前のぼくを待ってくださっていた。歩いて五分の寮暮らしのせいで、いつもチャイム直前の登校となる。流れゆくラッシュアワーの中で先生の姿をみつけ、慌てて生徒の背中を掻き分け、その前へと躍り出たぼくは「すみませんでした」と何度も頭を下げた。その顔から寝不足なのはあきらかだった。
「昨日は取り乱して悪かったわ。あなたは全然わるくない。悪いのは私。もう説明しなくても理由はわかっているわよね。そうよ、そのとおり。それから顧問は引き受けてあげるから、越智先生の息子さんにもそう言っておいて」
先生は早口でそう告げると、ぼくにひと言も返す暇を与えずに、職員室がある二階へと駆け上がって行った。生徒は朝礼がはじめる八時半までに到着していればよいが、朝の職員会議は八時十五分からである。
どうしてぼくを恨み続けてくれなかったのか、宮藤先生はぼくが思うよりもずっと大人だった。そしてそのことが、どれほどぼくを失望させたことだろう。天才タイプである先生の大人な対応は、まさに現状は最悪だという証拠に他ならない。先生自身が、不治の病だと、もう何もかも失っているのだと認めてしまっているのである。そんなことなら、ぼくが罵倒された方がよかった。その方がまだなんとか戦える状況だと予想されるのだから。胸をえぐられるようで認めたくはないが、先生はこんなにも、すべてをあきらめてしまっていたのだ。そして悲しいことに、その最後の切ない一撃をぼくが浴びせてしまった。薄々は気づいていたものの、一介の高校生に皮肉を言われるぐらい、ひどい演奏しか弾けないと、自嘲気味に、そう先生に思わせてしまったほどに。
でもぼくはあきらめてはいなかった。症状はごく僅かなものであったし、それに左手の一本や二本、末期ガンさえ煩っていないのであれば、どうということもないのである。最悪、左手が永久に動かないとしても、片腕のピアニストだっているのだ。何の問題もない。だけど、いや、だからこそ、ぼくが問題にしていたのは先生の心の有り様だった。その精神が敗北しているのなら、事態はより深刻になる。天才がその能力をしてダメだと判断し見限ったものを、凡人のぼくがそうではないと証明してみせるのは不可能に近い。そもそもペシミストをオプティミストに生まれ変わらせるには多大な努力を必要とする。自殺願望がある女性がいたとして、彼女を煽り、「生きていても仕方がない」と自殺させるのは簡単だ。だけどその逆の楽天家に、つまり、最悪の状況下でも笑顔で「まあ、なんとかなるでしょう」と笑える女性にするには、どうすればいい?
それでもぼくは、宮藤先生に対しては、楽観的すぎるぐらいに楽観的だった。才能がありすぎるから大げさになってしまうのだ。先生は些細な泥濘を底なし沼だと、そのイメージを極大化させて、極端に悲観的にとらえてしまっているだけだ。第三者であるぼくから言わせてもらえば、まったくつまらぬところでつまづいただけで、どうにでもなる事柄にすぎない。そう、その通り。何の根拠もないままに、左手よりも心の方が難問だと、その時ぼくはなぜか、先生の左手の健全さを露ほども疑わなかったのである。(ピアノ演奏から左手の症状はさほど深刻ではないと直感していた、といえば聞こえは良いが、それは完全に後づけだ)
文化祭実行委員会に提出すべき書類は昨日ぼくが持って帰っていたので、昼休みに食事をするついでに寮の自室へと戻り、そして放課後にはアップルたちと四人で生徒会室に急行した。高校二年生の真鍋学&白石稔――生徒会長と文化祭実行委員長のコンビは「ギリギリだが、文化祭に参加できてよかったな。それにしてもあの美人先生に顧問になってもらうなんてすごいじゃないか」とねぎらいと賞賛の言葉をかけてくれたが、こうやって終結した一連の騒動はぼくにとって一生忘れ得ないトラウマとなってしまったのである。