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High_C  作者: 夏草冬生
第一章 表面世界は日常そのもの
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「ふ~ん、一応、耳はついているようね」

 張本人である宮藤先生は、いかにも得意げだ。

「あいにくぼくは、そんな立派な耳を持ち合わせてはいません」

 これは謙遜ではない。本心だ。たとえば紙に描かれた模様を日本人なら美しいひらがなとして読み取れるように、音楽もただの空気の振動で終わらせないためにはそれなりの素養が必要である。隠微な情感を露わにできたか、一流の音楽を聴くには、受け手も一流でなければならない。ぼくにどれだけ先生の実力を見極められたのか、それは定かではなかった。

「どう? これで満足してくれたかしら。何ならへたくその好きな曲も弾いてあげるわよ」

「ほんとうですか? ありがとうございます。ぼくはそのために有り金全部をはたいても惜しくはありません」

 軽口でもなんでもなく本気でそう思った。これは現実では起こり得ない稀有なチャンスである。宮藤先生クラスの演奏はお金を積んだからといって、おいそれと手に入る代物ではないのだ。手の施しようがない末期がん患者は死ぬのが通常で、ぼくの母がそうであった。どんなに頑張ろうと、健康をお金で買うことはできない。だからこそ健康は銭金の問題ではなく、お金で買える時には全財産をなげうってでも手に入れるのが本来の姿だ。音楽だってそれと同じであろう。母が夢見たピアノがぼくの目の前で実現するのだから、どんな代償だって払えるのである。

「ハンマークラヴィーア、ベートーヴェンのピアノソナタ第二九番か、シューベルトのさすらい人幻想曲を」

 ぼくはそう言いながら、どうしてもそれらの曲目を演奏する宮藤先生の音色が頭の中に浮かび上がってしまう。すると致死量オーバーの麻薬を脳内に直接打たれたかのように、極上すぎてこの世のものとは思えない天上の調べに誘われながら、恍惚の世界へと旅立ちそうになる。

 ピアノの性能やその演奏技術は時代とともに向上している。たとえばベートーベンはハードとソフトその両面におけるピアノの進歩を見据えて、このハンマークラヴィーアを制作した。そのため当時は誰も、作曲した本人でさえも弾くことができない難曲となった。だが現代のピアニスト宮藤先生ならすらりと、作曲者が思いもしなかった以上の名曲として弾きこなしてくれるはずだ。

「大作ね。両方とも弾けるかしら」

先の三曲で調子が上がってきたのか、ピアノの椅子に座ったまま教室の壁時計を見つめる宮藤先生はやる気まんまんである。

「いえ、別に今日弾いてくださらなくても」

 口がきけないまでに驚愕したぼくは、遠慮がちにそう告げるのがやっとだった。たしかに部活を休めば完全下校時間まで二時間以上はあったのだけれど、聴く側としての心積もりができていなかったのである。インスタントラーメンじゃあるまいし、まさか三分の用意で足りる注文だったとは思いもよらなかったのだ。とにかくぼくにとっては一生に一度、口にする機会があれば生まれてきた甲斐があったというもので、たいへん豪華なごちそうなのである。至高の芸術作品であり、東西ふたつの大帝国を従えた皇帝ならば話は別だろうが、そんなフルコースのフランス宮廷料理とまぼろしの満漢全席を、半年後になるか一年後になるか、ぼくは近い将来に食せる奇跡を願って、ずっとずうっと幸せな気分に浸っていたかったのである。

「何よ。まさかこの私が、準備なしではまともに弾けないとでも思っているの? まったく馬鹿にしないでよね。私が演奏すると決めたら、それが私にとってベストな状態なの」

挑発されたと受け取られたのか、先生は勘違いをされている。それは天才ならではの思考方式なので、凡人のぼくにとって理解できる範疇を超えているが、これらの大曲を弾いてくださいとお願いすれば、すぐその場で弾いてもらえると思う人は、宮藤先生のような雲の上の人か、音楽の素養すらなくハンマークラヴィーアやさすらい人幻想曲を知らない人である。乱暴なたとえ方だが、何か本を読んであげようと言われて、「戦争と平和」と「カラマーゾフの兄弟」を今すぐ続けて朗読してくださいというような感じだろうか。先生のレパートリーの一つだったとは思うが、とにかく楽譜を頭に叩き込んで、それなりの事前練習をしなければ、絶対に不可能なことなのだ。

 ぼくだって超一流のピアニストが弾いてくださるというのなら、どん欲にとことんまでむさぼりつく。先ほどとは矛盾するが、先生の曲を今すぐ聴きたいし、今すぐ聴けるのなら死んでもいい。だけどふと気になることがあって、自分でも何故だか分からないが、せっかくの先生の好意を退けてしまったのである。

「ぼくたち四人だけで聴くのは、あまりにもったいないというものです。できればアップル邸にあるようなフルコンで、もちろん弘法は筆を選ばないでしょうが、こんなセミコン(=セミコンサートピアノ、学校のグランドピアノ)ではなくて、いえ、せめて完全なコンディションで弾いてもらいたいのです。

 それに、そこまでの腕です。懇意にされている調律師の方がいらっしゃるはずです。それに先生のご自宅には丹精込めて飼い慣らしたピアノがおありではないでしょうか」ぼくはそのまま続けて、しかし唐突に言った。「そうだ、それよりも先生、ラヴェルのピアノ協奏曲ニ長調、そうです、『左手のための協奏曲』をお願いできませんか。それでしたらこの音の外れたおんぼろピアノで十分です」

 左手だけで弾く難技巧を要する曲だが、それにしてもどこから左手とか、ラヴェルとかいう言葉が出てきたのだろう。楽譜がなくても先生なら当然弾けると確信していたようだし、ぼく自身が首を傾げてしまう。こんなことを言うつもりは直前まで、いや、言っているその瞬間においてでさえ、さらさらなかったというのに、まるで何かに取り憑かれたようにすらすらとその曲名が口から流れ出してしまったのである。

(ぼくの発言が、失礼にも『先生のその左手なら、調子外れのピアノでじゅうぶんだ』という解釈が成り立つことに気づきもしなかったのだ! 無意識にそう思っている自分がそこにはいたはずなのに。ぼくはハンマークラヴィーアにしろ、どうやら完璧な演奏を求めていたらしい。だからその後の宮藤先生の反応は極端ではなくて、極めて正しかった……)

 とはいえ途端に宮藤先生の顔が曇りだすのをみて、さすがにぼくは慌てた。

「あのぅ、さわりの部分だけでいいんです。協奏曲をピアノだけで弾いてもらうのはたいへんに失礼なのですが、そうですね、この曲は最初ですね。テクニカルな難所はピアノが入っていくところで、そこが要点ですから、それだけで分かります」

 何が分かるのかぼくには分からなかったが、思考するよりも先に口から飛び出してしまったのだからどうしようもない。

「なるほど、そうきたわけ。あくまで私を試そうというのね」

 ぼくに向けて投げつけた言葉のはずなのに、先生はピアノに座ったまま何もない譜面台を凝視していた。どうやらぼくはひどく無神経なことを言ってしまったらしい。宮藤先生は相当に気分を害された様子で、みるみるうちに顔つきがひどく不機嫌になり、それがどうしたはずみか一瞬にして反転し、顔を心持ち天井に向け、人を喰ったように「あは、あはははっ、たしかに私はポンコツなの。この音外れなピアノがお似合いなぐらいにね」と、朗らかとはほど遠い笑顔で大げさに笑い出した。こちらは先の(まるで地球と、地球の直径の半分の大きさである火星クラスの惑星がぶつかる)ジャイアント・インパクトな演奏が頭にこびりついてしまっている。ぼくはぎょっとするどころか、地震か何かでこの世界が崩壊しはじめたのかとさえ思った。アップルたち三人も身じろぎひとつできず、ただ見守るだけの、それはそれは壊れた笑い方だった。

 そして椅子に座ったまま先生は徐に上半身をぼくへ向けてきた。その気迫に気圧されて、ぼくは二、三歩ほど後ずさりをしてしまったほどだ。

「そうよ、分かった? しょせん私はこの程度の腕なのよ」

 そこまではまだ抑制のとれた声だった。しかしものの数秒で発火点に達したらしく、突然先生はピアノの椅子を後ろへ乱暴に倒して立ち上がり、「何よ、へたくそのくせに!」とヒステリックにリノリウムの床を『バン』と鳴らした。足音は倒された椅子よりも大きかった。ぼくはその踏みしめられた左足の黒いヒールから先生の顔へ視線を持ち上げると、下唇をかみながら歯軋りして、ネメシス宮藤先生はすさまじい目でこちらをねめつけていた。ぞっとするくらいに美しかった。それまで先生はぼくたちを軽くあしらうような素振りしかみせなかったというのに、長い髪を振り乱したその形相は全身全霊をささげた『祈り』そのものだった。(蛇足だし聖トマス学園みたいなミッション系スクールに通う者なら誰でも知っていることだが、祈りの本質とは、『お願い』ではない。全知全能で永遠なる神との全人格的な交わりなのである)

 時間は止まっていた。が、不意に先生の目から涙があふれ出してきた。きいっ、と顔を後ろに振り向かせた先生は、そのまま「くやしい!」という悲鳴を残して足早に去った。音楽室奥にある準備室へと籠ってしまったのだ。乱暴に閉まるドアよりも、カチャという鍵の音の方がぼくの背骨に響いた。とりあえず倒れた椅子は元へと戻したが、ピアノに対して一切の妥協すら許せない確信犯のくせして、無意識だったぼくは、この期に及んでも何が何だか分からなかったのである。ぼくは何も間違ったことはしていないはずだった。だからこそ余計に宮藤先生を傷つけたのだ。

 悲痛な叫び声の残響のように、天板に置かれてあった文化祭申請書類が、一枚、また一枚と、ちらばりながら舞い落ちていった。オレンジとグレープは茫然自失の体でアップルは非難顔で、みつめてくるものだから、すべてが破壊され尽くしてしまわないように、書類もそのままそっとしておいた方がよかったのかもしれない。でも同時に、せめて書類だけでもぼくが拾い集めるしかないと思った。あの恐怖と絶望と憤激が入り交じった表情、宮藤先生のダメージを思えば、まるでナイフで胸をひと突きされた上に生きたまま心臓をえぐり取られたようなイメージに襲われ、ぼくだって申し訳ないという気持ちはあったわけで、いっそのこと先生に殺されたほうがましだった。

 この三年間ふざけた顔しかみたことがないアップルなのに、ぼくが書類をなおしたクラフト封筒を手渡そうとしたら、心痛な面持ちで首を左右に振って受け取らなかった。先生の心を絶望させただけで、せっかくの音楽会はぼくのせいでお開きになった。

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