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なぜショパンなのか、革命のエチュードなのか、迷わず弾く先生の意志は分からなかったけれど、そんなことはどうでもいい。雷鳴だ。迫力そのものが根底から違うのだ。最初の四小節で、いや、はじめの和音で、いや、両腕を振り上げたその瞬間その勢いに、第二音楽教室は灼熱の炎で一気に燃え上がったのだ。
――なぜこれほどまでの人を、ぼくは今の今まで見抜けなかったのだろう?
無論その答えは簡単だ。それは先生のおっしゃるとおり、ぼくがへたくそだったからである。しかしそんなへたくそなぼくだけど、弾く前から鳥肌は立っていた。頭よりも体が先に感じていた。何かが起こるという直感、期待、恐怖。まさに青天の霹靂というべき突き抜ける衝撃、ぼくの心の中で青い稲妻が駆け抜けたのである。このピアニストは化け物だと。
風圧はまさしく巨大台風並み。ぼくは二分三十秒の間、一度も呼吸ができなかった。教室のセミコン(=セミ・コンサートグランドピアノ)の調律が救いがたいまでに甘い。そもそも第二音楽室のピアノは、一昨年前まで体育館倉庫部屋に放置されていたものだ。かなりくたびれ果てていて、これでは楽器というよりもハードルだった。疾走する先生のその気高き精神、その足だけを引っ張る障碍物である。自分が弾いたときは全然、そうではなかったというのに、「こんなのゴミだ、石ころだ」と先生は愚痴っていいぐらいなのに、弾く前にピアノの質については少しも言及しなかった。ぼくはここまで間近で母以上に優れた演奏を聴いたことがなかった。これを聴いたら即死だ。一発で生演奏支持者になってしまう。完敗だった。心地がよいほどの完敗だった。
「オレはショパンなら幻想即興曲の方が好きだな。お願いできませんか」
それでもオレンジとグレープは比較的冷静で、しかもグレープなんかはジュークボックスじゃあるまいし恐れ多くも宮藤先生に次の曲をリクエストする始末である。なのに天才ならではの気安さなのか、先生はひとつももったいぶることなく「わかったわ」と、あっけないほど簡単に承諾した。
「嘘だろう? 何故これほどの人がここにいる?」
ぼくが声を出せたのは、優に十分は経ってからだった。雷の直撃を喰らったせいで体全体が麻痺し、生命維持のため呼吸するのがやっとで、口などとてもじゃないが動かせなかったのだ。アップルはさらにその次の曲、オレンジが頼んだリストの愛の曲第三番が終わるまで押し黙ったままだった。
近年、天才という言葉は、第一次世界大戦直後のドイツマルク並にハイパーインフレーションだが、宮藤先生は正真正銘、桁外れの天才だった。しかしどう考えても場違いなところにいるのだ。それは百六十キロ超のストレートを自由自在、思いのままに投げられるピッチャーが、野球部すらない田舎の進学校で体育教師をしている、といえば理解してもらえるだろうか。そんな人からみれば、いくら百四十キロの球を投げられても、数センチ誤差範囲以内で、ピンポイントのコントロールがきかない投手など、へたくそ以外のなにものでもない。桁外れの天才にとっては、そんな田舎高校に、たとえ甲子園優勝どころか(アップルとオレンジのような)プロ一軍に匹敵する速球投手と凄腕のキャッチャーがいたとしても、別段、驚くに値しないのである。宮藤先生は百年に一度誕生するかどうかという不世出のエースだ。人類の宝だ。アップル程度の人間なら、その存在数からして宮藤先生よりも四桁も五桁も多いのだから、世界中を探さなくても毎年日本だけでも数人は登場するわけで、それこそ掃いて捨てるほどにいるというものだろう。
そんな桁外れの天才が興味本位から彼らの投球を見てみたら、しかしアップル&オレンジの黄金バッテリーは、その最大の武器となる速球を捨て球にして、いや、そもそも彼らの長所を生かす上投げの投球フォームですらないのである。初めから下投げ勝負で、しかも女の子が投げるような時速六十キロの超スローカーブをウイニングショット(相手から三振を奪う決め球)としているのだから、「どんなド素人だよ。恐ろしい」と腹を抱えて笑い出すのは必然なのだ。天才からしてみればまったく予想もつかないことなのだから……。
いやそんなことより問題なのは宮藤先生だ。なぜ今ここで、ぼくたち相手に油を売っているのか。先生はこれからのピアノ界を背負って立つ名ピアニストであり、世界中で活躍しているべきで、こんな所にいてはいけないのである。
音大出を誇りにしている安田先生のバイオリンだが、こちらも歴史に残る一流奏者のCDを聴き馴染んでいるから、授業中に生演奏を披露してもらっても月とスッポンポン(すっぽんは高級食材)だ。何の音楽的才能も纏っていなくて、ごちそうされても、あまりの異物にぼくは吐き出すばかり。なんだ裸の王様かと失望してしまう。だが、この宮藤先生はそれとは正反対なのである。所詮、CDやレコードは記録音楽であり、まがい物だ。こんなにも素晴らしい演奏を聴いたあとでは食べられたものではない。ピアノ史上に残る名盤なら、そのほとんどを頭の中で奏でられるまでに網羅し、奢っているはずのぼくの耳が悲鳴を上げている。それどころか気を確かにしていなければ一瞬であの世に連れ去られそうになるくらい、宮藤先生は圧倒的な実力の持ち主なのだ。亡き母に逢えるのは悪くないが、齢十五にしてぼくは死にたくはない。
何という音の迫力だろう。間違っていたのはへたくそのぼくであって、宮藤先生は正しかったのだ。
「どうしてこんなにも弾ける?」
リストの愛の夢が終わってもぼくは日本語にならない言葉をうわごとのようにつぶやくことしかできなかった。もう何がなんだかわけがわからなかったのだ。
「すごい、すごすぎる。いや、ありえない」と首を振るのはアップルである。「これほどの演奏ができる人が世界にいったい何人いることか……、いや、いないだろう。いないはずだ。だいいち人間わざではない」
こんな場面に出くわすなんて、心不全で今、死ぬ確率よりも、格段に低い出来事だった。その衝撃はまさに、今この瞬間に巨大隕石が地球に衝突したというインパクトに匹敵する。ぼくはこの期に及んでなお、夢ではないかと疑うほどなのだ。