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High_C  作者: 夏草冬生
第一章 表面世界は日常そのもの
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 そうやってぼくがひとり苛立ちを募らせているとき、宮藤先生はもはやぼくには興味をなくしたらしい。今度はグレープに「あなたはさっきから何もしていないけれど、楽器は弾けないの」と話しかけていた。

「バイオリンなら弾けますよ。オケ部に友人がいますから、ちょっと行って借りてきましょうか?」

 普段から肝が据わっているグレープは、弾けばこてんぱんに批判されるのが分かっているだろうに、マゾでなければ勇者である。

「ピアノは弾けないの?」

「少しは弾けますが、ピアノの音は性に合わないのです」

 気後れしないことはいいことだが、グレープよ、その口調に、わがまま教師へ反発するようなニュアンスを込めて、貴様はどんだけ猛者なのだ。それともおくびにも出さないだけで、ぼくたちのために怒りの抗議をしてくれているのか。

 もっともぼくの予想に反して、宮藤先生は気分を害すどころかグレープの意見に快く理解を示した。

「そうね。私もバイオリンの音はわからないわ。耳うるさくて『ぎ~こ、ぎ~こ』としか聞こえないから」

 その口調からは、率直な気持ちを述べているようで、一切の皮肉を感じさせない。ぼくが思うよりも先生は性格的に悪くないのかもしれないが、だからこそこの発言は致命的だ。つまり音楽的には、バイオリン好きなグレープへの当てつけでなければならない場面である。楽器というものは個性があって、一台一台その音色が異なるものだし、ちょっとした音楽経験者ならば、手垢のついた紋切型の言葉で音を表現するなんて、本能的にできやしないのだ。少なくともこれだけで生きたバイオリンの音色を一度も聴いたことがないとばれてしまう。

 たとえば金額面でみても、世界最高級のバイオリンなら、その弓だけでコンサート仕様のピアノが何台も買えてしまうのである。つまり状態のよいフランソワ・トゥルテ(=バイオリンの名弓だ)あたりが五千万円はするのに対し、世界の名だたるピアニストが演奏するフルコン(=フルコンサートグランドピアノ)は、いくら高くても二千万円止まりである。だからその音色の差も推して知るべし。つまり音の良さはバイオリンの方が圧倒的にまさるとされているのだ。というかそれが当然なのだけど……。弦楽器ほど人間の声に近い楽器はない。そもそもバイオリンがピアノよりその音質で劣るのなら、需要と供給の関係から、そんな高値にはならないはずである。

 もちろん機械式高級腕時計(=誤差が大きい)に対するクォーツ時計(安価で精度が高い)のような反例もあり、たしかにそれ自体が芸術品であるバイオリンと比べ、ピアノは単なる工業製品なのかもしれない。それでもバイオリンはその音を第一義とする。好事家がトゥールビヨンを好むのとはわけが違う。バイオリンは性能こそが重要で、趣味や飾りとして弾いているのではない。最先端の科学者が原子時計を必要とするように、実力第一の世界なのだ。もし『ぎ~こ』などという音が鳴れば、誰もそんな楽器なんて追い求めないから、ピアノよりもずっと値段が安くなってしまう。

 もっともぼくだってバイオリンは苦手だから、数億円はするストラディバリウスよりも、三百万円の最高級国産バイオリンの方が音も見栄えもいいような気はする。それにしてもである、一体どこの世界に『ぎ~こ』と奏でるバイオリンがあるというのか。ここまで無知な人もはじめてだ。錆びたブランコじゃあるまいし、『ぎ~こ、ぎ~こ』という独創性のかけらも見られない、その音楽センスゼロな擬音語には笑えてしまう。いいや、笑えやしない!

――そうか、この先生は馬鹿なのだ。

 ここにきてぼくはすべてが氷解した。オレンジがその美声に反比例して顔や体型が悪いように、先生もその美しい顔が致命傷となって、幾何級数的に頭も耳も性格も腐っていたのである。なるほど、天はそう簡単に二物をお与えくださらぬらしい。

 だいたい偉そうな口をきく奴にかぎって、実はたいしたことないのである。安田先生だってあのプライドの高さにして、聴いているぼくが赤面するほどのピアノ下手なのだ。ぼくので耳がダメになるくらいなら、安田先生のピアノで全校生徒などとっくの昔に全滅だ。聖トマス学園は、ただただ墓標ばかりが並ぶ共同墓地となっていたであろう。それでも安田先生は音大出だけあって、ぼくが去年、中3クラス対抗合唱コンクールでピアノ伴奏をしたときなど、素晴らしい演奏は素晴らしいと正当に評価してくれる。音大卒はダテじゃない。

 いいや、そんなことはどうでもいい。ぼくの矜持は別としても、こんな馬鹿に馬鹿にされたのが許せない。何度もへたくそと言われたものだから、ぼくの妹や、そしてぼくの母までもが侮辱されたような気分になってくる。

ピアノのことはなにひとつ分かっていないから、表面的なこと、つまり思春期の男子が必死になって少女向けのアニソンを歌っているから、本能的に何とはなしにピアノ下手だと判断したのだろう。しかしそれが命取りなのである。ぼくは少し困らせてやれ、と思った。

「あのぅ、先生。ちょっとよろしいでしょうか? 宮藤先生がおっしゃられるとおり、へたくそのぼくにはピアノというものがどうもよく分かっていないようです。そこでお願いがあるのですが、是非とも後学のためにも、先生の生演奏による、つまりお上手なピアノのお手本というものを拝聴させていただきたいものですね」

 ぼくは慇懃無礼な態度に精一杯の皮肉を込めて言った。日本では目上の人を試すような行為はたいへん失礼にあたるから、先生はぼくのささやかな逆襲を微塵も予想だにしていなかった。

「えっ、私? 私が弾くの?」

 宮藤先生はいきなり表情を一変させ、滑稽なほどに狼狽してみせた。そしてなんと、その場で氷結したまま、立ち尽くしてしまったのである。目だけが泳いでいて、それでも弾こうという意志はあるのか、つまり視線が、顔の前で静止した左手と、少し離れたピアノ鍵盤との間を何度も往復していたのである。

 なるほど。身のほど知らずにもすぐさまピアノを弾けてしまうほど愚かではなかったらしい。ぼくは少しは見直してあげたが、先ほどまであれほどの大口を叩いていた宮藤先生なのだから、その腰を抜かした姿は傑作である。ぼくは「してやったり」と心の中で快哉を叫び、思いっきり冷嘲して溜飲を下げたのである。

「あれれれれれ、どうされたのです、もったいなくて聴かせられないとおっしゃるのでしょうか? そりゃあ先生の非常に優れた演奏は、へたくそであるぼくのような馬の耳にはありがたすぎる念仏のようで、豚には真珠で、猫に鰹節でしょう。まったくへたくそどころか、目くそ鼻くそを笑う程度で済めばよろしいのですが……。さあさあ、はやく弾かれてみてはどうです?」

 ぼくは丁寧な言葉遣いにふざけた日本語をちりばめ馬鹿にした。これで終わりにするものかと、傷つけられた自尊心は容赦という言葉を知らない。弱った獲物にはとどめを刺すのがぼくの流儀だ。しかし、無表情なのはいつものことだがグレープは眉をわずかばかり顰めた。美人には極端に弱いオレンジも「なにもそこまでからかう必要はないよ」と言って、いかにも興ざめしたそぶりを見せる。そしていつもなら口数が多いアップルが沈黙を守り、その失笑気味だった顔をしだいにこわばらせてきたのには、さすがにぼくも少しやりすぎたと反省し直した。思い詰めた表情でピアノを前にフリーズしているビッグマウス宮藤も、罠にかかったハツカネズミのようで、そのおびえた姿は、ある意味可哀想である。

 天啓なのか、ぼくの脳裡に想いが走る。

《ピアノも満足に弾けないのに自分はここにいる。しかしそれは許されない》

 あまりに悲愴な表情だから、どうやら先生は、なぜか深刻にも、自身の存在そのものを全否定されたように受け取ったみたいなのだ。ぼくはようやくそれに気がついて、非礼を詫びようとした。先生の打たれ弱さにも驚いたし、ピアノなど弾けなくてもたいしたことはない。

 しかしそれよりも速く、「まあ、いいでしょう。お上手なピアノ演奏というものをお見せするわ」と、清水の舞台から飛び降りる覚悟を決めたのだろう、宮藤先生は一瞬にして気持ちの切り替えを済ませたようで、「もっとも、そこのへたくそが言うとおり演奏レベルに差がありすぎて、あなたたちの良いお手本にはならないでしょうけど」と相変わらずえらそうだが、それでもぼくの皮肉を嫌みなく返し、そして幾分かリラックスした足取りで――ピアノへと向かったのである!

 ぼくは判断を誤ったのか、この絶体絶命のピンチに誰がこんな勇敢な行為ができるというのだ。教室の雰囲気ががらりと変わったような気がした。肌寒いのか、ぼくの真横に立つアップルの身震いは止まらない。確実に急所を突いたはずなのに、単なる勘違い女だと信じたいのに、ぼくの顔もひきつりはじめていた。アップルのその険しい表情の意味をやっとぼくも理解できた。嫌な予感しかしなかった。

「本物を聴いたことがないあなたたちには猫に小判で、まさにお金をどぶに捨てるようなものだけど」

 椅子に座った宮藤先生は静かな減らず口をたたいて呼吸を整えた。その声の響きには、ぼくに対する怒りとか憎みとか、そんな取るに足らない感情などは皆無で、つまりすべてを超越していた。

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