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High_C  作者: 夏草冬生
第一章 表面世界は日常そのもの
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 先生の顔をぼくが見上げたままだったから、先生は勘違いされたのか、「なによ。生意気にもその腕で私の感想が必要なわけ?」と鼻で笑われた。

 確かに鼻先で笑ったのだ!

 ぼくにすれば「もうこれでよろしいですか?」という意思表示のつもりだった。勝手に立ち去るのは非礼であるし、けなげな仔犬のように先生の指示を待っていたのである。注文したのはそちらなのだから、『ありがとう、もういいわ』でも『お疲れさま』でも、ひとこと声をかけて欲しかった。

 それでも先生はふう、と大げさに息を吐き出してから、ぼくのピアノ演奏に対する感想を述べてくれた。「へたくそ」と、たったひと言、真顔でそれだけを発したのである。

 ぼくの耳はその言葉をはっきりと聞き取ったが、ぼくは聞き取れなかった。だから何を言われたのかは、まったく分からなかった。そのまま凍りついて固まってしまっただけである。するとぼくのそんな反応を確認した先生が親切にも「へたくそ」ともう一度、今度はゆっくり丁寧に発音してくれた。おかげで、ぼくはその言葉の意味をじゅうぶんに理解できたし、体中の血液が逆流してカッとなったりもした。言うに事欠いて、と思ったが、ぼくは大人である。聖トマス学園が目標とするところの学生紳士である。軽く笑顔で受け流して、冷静に対処した。

「ええ、先ほどの二人の演奏に比べたら、ずいぶんと下手ですよね。歌はとくにひどいですし」と一応は同意さえしてみせた。これ以上ない甘いケーキを食べた後、ふつうに甘いケーキを口に入れても何の感動もないのとおなじことだ。それぐらいのことはぼくだって自覚しているつもりである。

 なのに先生は心底あきれ顔で、「あなたの裏声なんかに興味はないわ。私が言っているのはピアノのこと。曲そのものはかわいらしくていい曲だけど、演奏はひどすぎる。まったく聴けたものじゃない」と、心体二重の上から目線で宣ったのだ。ぼくはそれが嫌でせめてピアノの椅子からは立ち上がったのだけど、いったい先生は何様のつもりだろう、「今まで大好きだったピアノの音があなたのおかげで大嫌いになったわ。実際、私のこの耳が悪くなったらどう責任を取ってくれるのよ」と言い放ったのである。ぼくは自分が被害妄想狂にでもなって、聞き間違えたのではないかと本気で危懼したほどだ。(その前から教室が少し薄暗くなっていたことにぼくは気づいていたのだが、それまで隠れていた太陽の一部が雲間からいきなり顔を出したにちがいない。音楽室の窓から突如として、幾条もの斜光が差し込んできたのである。一瞬にしてまばゆいばかりに照らし出された宮藤先生の姿は、あまりにも厳かで神々しすぎて、それはまぎれもなく一枚の絵画だった。ぼくのピアノを下手だと嫌悪する、ある種一心不乱な様子、それさえもあますところなく表情に表れていて、ぼくが思わずドキリとさせられたのは、だけど多分気のせいだろう)

 たしかに高校一年生にして一流のプロとして通用しそうなアップルのピアノ演奏である。その間に横たわる歴然とした差は否めないが、ぼくだって一流音大のピアノ科に一発合格するくらいの、いや、大学側から「是非うちへ来てください」とお願いされるほどの腕は持ち合わせているつもりだ。いきなり命ぜられて暗譜で弾いてノーミスということだけでも、もちろん演奏力があるのなら弾き間違いのひとつやふたつどうということもないけれど、けっこうスゴイことなのだ。だからこそ宮藤先生のは、運動神経ゼロの酔っぱらいがプロ野球中継をみて「なんでここで三振するんだ、阿呆が! ホームラン打てよ、このへたくそ!」と罵るようなものだろう。甲子園経験者とか野球を少しでもかじったことのある人物ならば、そうむちゃなことは言わないものだ。それにしても、あまりの動揺に二の句が継げないぼくに、先生は再び追い討ちをかけてくる。ぼくが落ち込む様子を見て、根っからのサディストなのか、うれしそうな顔までする。

「これは意外ね。その程度の実力で一人前にショックを受けてしまうんだ。ならば言ってあげましょう。へたくそ、ピアノキラー、騒音製造器、鼓膜デストロイヤー、殺人音波発生マシーン……」

 奏でるような軽やかなリズムで、ぼくの心をえぐる、というか言っている本人の語彙力を、そしてその知能レベルまでを疑うような悪口ばかりを連発するのである。

――何だ、この人は。少し頭がおかしいのではないか。

「自分でもけっしてうまいとは思っていませんが、でもそんな幼稚園レベルの稚拙な単語で切り捨てないで欲しいものです。『ど変態』とか、『そんな曲を真剣に女声で歌うなんて、きっと頭の働きにどこか不具合でもあるんじゃないの』とか言われるのならまだしも、ピアノがひどいだなんて……」と強気に、と言いたいが、かなり弱気に抗議した。ぼくが自分でピアノが下手だと自覚しているのは無意識に母と比較してしまうからである。免許さえ持ちえない臨時音楽教師風情に言われたくはない。それも音楽の授業が生徒たちの休息時間と化している私立の進学校で、やっとのことで採用される程度の先生なのだ。そんな下っ端人間、ぼくの方で無視すればいいものを必死で反論してしまうのは、それだけ傷ついたからだと分かっていた。

 ぼくの反抗が気に入らないのか、いくぶん不満顔になった先生は、もうじゅうぶんだというのに暴言を浴びせてくる。

「なによ、えらそうに、へたくそのくせして……。あなたはへたくそ。へたくそはへたくそなの」

 先生にとってぼくの名前はいつの間にか『へたくそ』に決定していた。美人だと無駄に迫力があるので、そこまで自信たっぷりに断言されると、なんだか自分が本当にへたくそのような気がしてくる。ぼくは、こういう時こそ強くなければ生きていけない、と自らに言い聞かせ、正気を保つしかなかった。

 本来なら、「進学校になぜこんなにピアノが弾ける生徒がふたりもいるの?」と、アップルはもちろんのこと、ぼくに対しても先生は腰を抜かさなければならない状況だ。それがプロ超えのアップルやオレンジにして『ど素人』のひと言である。たとえ女声だろうとアニメソングだろうとそれぐらいのことが分からなければ節穴もいいところ。真にど素人は宮藤先生の方である。箸にも棒にもかからない人物とはこのことだ。まったく、音楽の先生を目指すのはやめたほうが身のためだし、ひいては社会のためだ。音楽の臨時教師などさっさと辞めて、その顔が若くてきれいなうちに結婚という永久就職をして、少子化を阻止するよう、たくさんの子を産んで社会貢献でもしたほうがいい。こいつ、本当に顔だけで、頭の中からっぽの見かけ倒しだな、とぼくは心の中で徹底的に見下した。もはや顧問になってもらったことですら軽蔑の対象にしかならない。音楽教師失格者が、このぼくに対し、へたくそとは何事である!

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