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High_C  作者: 夏草冬生
第一章 表面世界は日常そのもの
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 宮藤先生には自己紹介だとは分かってもらえなかったようだ。「何をやっているの?」と奇異の目で見られただけだった。とにかく顧問の先生には、ぼくたちがどのような出し物を文化祭でするのかを知ってもらわなければいけない。

「楽器を持ってきていたら、どんなことをするのか、軽く演奏をしてみせるのですが」と四人のリーダーであるアップルが口頭で簡単にひと通りの説明をした。

 宮藤先生は興味なさそうに聞いていたが、ぼくはこの音楽の先生を本気で嫌いになりそうだ。そばにいて、あまりお近づきになりたくない人物だと、さらに悟ったのである。というのも、そのけだるく物憂い表情は、美人不美人以前にぼくへ恐怖に近い嫌悪感を突きつけた。不意に、『強い抗がん剤を投与すると、人によっては身の置きどころがなくなるほどのだるさや、すべてを投げ出したくなるような倦怠感が生じるそうだ』と医師の言葉を語る、父の静かな声が耳元に浮かんできたぐらいである。もちろん先生のは健常者らしいごくかすかなレベルにすぎなかったが、ぼくには骨の髄まで母の姿が染みついているので、どうしても過剰反応してしまうのである。

 もちろんこれはぼく自身の問題であって、先生には何の責任もない。その宮藤先生だが、無関心そうに見えて、それでも多少はぼくたちの活動が気になるご様子で、アップルから書類をクラフト封筒ごと奪い、左手で企画書をつまみ上げては眺めていた。ぼくも先生の顔色を窺うよりも申請書をのぞき見している方が楽だった。


《うたごえ喫茶『High―C 』》

・お茶無料。ビタミンCたっぷり。一応ジャンルは模擬店です。メニューはお茶しかないけど(爆)。

・メインは模擬店だけに、とりあえずバンド組んでみました。コード押さえてます、てな感じで。

・男子校なのに、いや男子校だからこそ、ガールズ・ボイス。

・当時を生き抜いて、振り返ってこそ分かる。七、八十年代こそが日本の最盛期だった――って、その頃ぼくたちはまだ生まれていないって。

・テーマ――人と音楽とのかかわり。飲食店におけるBGMの重要性。女性の声の素晴らしさ。

・七、八十年代の大衆音楽文化、すなわちCM・アニメソング、アイドル歌謡を考察する。いわゆるJ―POPと呼ばれる以前に注目してみました。

・生徒ではなく、保護者向き。青春時代を思い出してもらう。七、八十年代は両親の中・高校生時代。父母会受けの良い企画です。

 ……等々。


 念のためだが、オレンジ、レモン、グレープの、ぼくたち三人「健一」組は書類作成に一切関与していない。こういうのが好きなただひとりの「賢一」君に一任したからだ。つまり頭の悪いそうな文章の羅列はアップルならではのものであり、深読みすればある種の天才的な思考の痕跡が垣間みられるのかもしれないが、アップルはただの馬鹿だからそれは徒労に終わるというものである。

「どんなものなの? 演奏してみせて」

 アップルは「ですからそれは今度ぼくたちが楽器を持参した時に」と言ったのだが、先生は聞いてはいない。それに顧問としての責任感なんてはなからなさそうで、しかも物好きというよりは気まぐれのようだった。準備室にも古ぼけたアップライトは一台あったのだが、宮藤先生は教室の方へ、つまり音楽第二教室へと戻り、そのピアノ(こちらはセミコンサートグランド)の前に歩いていくと、両手に書類を携えているとはいえ、「あなた弾きなさい」とアップルにあごで命令した。

 そこに山があれば登ってしまう登山家のように、それはピアノ弾きの悲しき性だ。アップルは即座に椅子に腰掛け、たしか『愛、おぼえていますか』という題名の曲だったと思うが、いきなりイントロ部を弾きはじめた。何の前置きもなしに、だ。歌うは当然、著名な声楽家を母に持つオレンジだが、歌詞を覚えているとかいう以前に、アップルは発声練習もなしに高音を出させるのかとぼくとグレープは心配顔でオレンジをのぞき込んだ。しかし数秒で歌う体勢を整え終えたオレンジは、「大丈夫だ」と不敵に笑ってみせた。場慣れしているのもあるが美人の前だからだ。

 美しい声だ。とても男性の声とは信じられない。伸びやかな透明感ある高音は、この世のものとは思えない美声だけに、歌に描かれる女性はいまにも消え去りそうな感じさえする。なんとも形容しがたい、けがれなき至高のファルセットである。もちろんそれを支えるピアノの響き、これもまた絶妙で、その主張は強すぎず弱すぎず、それにしても存在感あふれる演奏だ。さすがはアップル、うまいな、と感嘆するより先に同じピアノ弾きとしては嫉妬を覚えてしまう。

 アップルとオレンジの『デュエット』は分厚いテクスチュアを織りなし、第二音楽室に漏れ響いてくるオケ部の騒音など、完全に消し去った。読解力のないぼくにアップルはいつも歌詞の解釈をしてくれるのだが、それによるとこの『愛、おぼえていますか』という曲は、男女の恋愛を謳うもので、詩には時代を超えた普遍的なメッセージが込められ、言外に、歌という文化を通して人々は互いに理解しあうことができることを示していたはずだ。楽譜さえあれば、現在夏風邪気味のグレープは別として、ぼくだけでもコーラスに参加するのだが(ピアノならともかく、言葉をともなう人の音声はその音階がダイレクトにはぼくの頭に入らないので)過去に軽く聞いた程度では記憶に残っていない。ピアノを弾いているアップルだけが伴奏に、バックコーラスにと孤軍奮闘している。

 男性が歌うと太い声帯に緊張が走るため、より高い音のように錯覚する。男がどんなに頑張ってもドロドロと迫力ある女心は歌えないが、生活感を感じさせない清浄な声を表現するという点においては、オレンジは女性以上に女性の声である。女の情念は女性である以上ぬぐい去れないものらしく、女性が歌うとどうしても生々しい『オンナ』の部分を感じさせてしまうからだ。

 一般に男が女声で歌うという行為はギャグか変態行為でしかありえないが、ここまでくればもはや芸術である。それなのに宮藤先生は、歌が済みアップルが後奏を弾き終えるやいなや「ほんと、ど素人ほど恐ろしいものはないわね」と、まるで吐き捨てるかのようにつぶやき、それでも表情はゆるめて「こんな予想もつかないことをしでかすから、さすがの私も驚いてしまったじゃないの」とぼくたちに言い訳をしてから、吹き出したのである。

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