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High_C  作者: 夏草冬生
第一章 表面世界は日常そのもの
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 脳内でフーリエ変換でも起きているのだと思う。聴覚には選択能力があり、雑音の中からでも特定の音だけをクリアに聞き取ることができる。そもそも男子校では女性自体の声が珍しくて第一音楽室周辺で始まったオーケストラ部の騒音もどうということはない。「ここのゴミ捨てが終わったら帰っていいわ」という宮藤先生らしき声がしたから、ぼくたちはこぞって第二音楽室へと向かったのだ。

 アップルがさっそく先生をつかまえ、アップル母の息子であることをここぞとばかりに強調して、文化祭でやるバンドの顧問になってくださいとお願いした。

「名義貸しを要求しているみたいで恐縮ですが、せっかく練習したバンドです。困っています」

 宮藤先生は聞いているのかいないのか、こちらに無言の一瞥をくれただけで、さらに奥へと続く準備室へと入っていった。ドアを開けたままにしておいてくれたから、しかたなしに後をついていったぼくたちだが、不意に左手を突き出してアップルに誓約書を差し出させた先生は、教員用の机の引き出しを開けて、おもむろに万年筆と印鑑を取り出すと、中腰姿勢で黄色い附箋がある箇所へ次々とサインと捺印をしてから、こちらに返してよこした。あまりに安請け合いだったから、ぼくらはあっけにとられた。どちらかというと図々しい性格のアップルでさえ呆然と立ちつくしている。

「先生に引き受ける義務はないのです」不安になったぼくは翻意するよう切言した。「顧問はたいへんなだけの仕事です。ひとたび不祥事があればあとあとまで残ります。文化祭終了後、総括反省報告書を提出するまでが文化祭といわれる所以でして、書類作成ひとつをとっても面倒なことだらけです。来年正式に先生になられるご予定でしたら、この誓約書、なかったことにされたほうが絶対にいいと思います」

 顧問になってもらいたいはずなのにぼくも変である。でもこの先生は何も分かっていないのだ。その美貌でいい思いばかりするから、いつでも社会を肯定的に受け取っているのだろうか。無知な人を騙してはいけない。グレープも「ひとコマいくらの非常勤講師に、課外授業で時給が出るのですか?」とたずねた。

「ええ。学校側から頼まれた場合はね。もっともこれに関しては無給でしょう。でも、かまわないわ。これぐらいのことはしてあげる。越智先生には前々からお世話になっていることだし」

 間近で聴いても、やはりきれいな声だった。とはいってもそのなげやりな物言いにはやる気のなさがしっかりとにじみ出ていた。コネで仕方なく引き受けてくれた感じなので、せめてぼくたちは「けっしてご迷惑はおかけしません」と宣誓ぐらいはした。アップル以外の三人は成績優良で先生方の信頼も厚いと自負していたが、それは受験関連科目に関してであって、そんなことは他学年担当の音楽教師の知るよしでもないし、通用するかどうかも分からない。

 初対面になるのだから、そして『High―C』としてお世話になるのだから、ぼくたちはバンド用の挨拶を披露した。つまり「越智ケンイチです」と四人が一斉に声を合わせてお辞儀して、自己紹介をはじめたのである。つまり、「名前負けの『賢さ一番』、アップルです」とか「頭脳派で『健康第一』、オレンジ、レモン、グレープです」とか個別に頭を下げたのだ。ぼくは越智健一=レモンである。だから「健康一番」など自分に関係するところで声を出し、そのため「レモン」だけが独唱になる。

 ひとりだけ漢字が『賢』の字だが、ぼくたち四人は『オチケンイチ』と同姓同名なのだ。そして「ケンイチ」という名から分かるようにみな長男である。ちなみに越智という姓はこの県が発祥らしい。たしかにぼくたちの父方の先祖は皆、出身地が『越智郡』で、そこでは越智という地名姓が固まって存在しているのである。

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