第一話 4.旅立ち
教会の入口に子供達が並んでいる。けれどその表情はいつものような元気一杯の笑みではなく、今にも泣きそうな顔をしていた。幼い子の中には我慢できずに泣き出してしまった子もいる。沙樹はその中の一人、自分に抱きついて離れようとしないナズの小さな背中をそっと撫でた。
「ごめんね、ナズ。」
「やだやだぁ〜。シャリハぁ・・・」
昨夜、ビビと話をした後に沙樹はラングへ今日彼らと共に旅立つことを報告していた。けれどその時間既に就寝していた子供達はそれを今朝、朝食が終わった後に聞かされたのだ。突然のことに皆驚き、そして戸惑っていた。何と言ったら良いのか分からず固まる彼らに、ラングは「笑顔で見送りましょうね」と言葉をかけたが、それも彼らの耳に届いていたのかは分からない。
孤児院にいる子供達は成長すればいずれバラバラになっていく。けれど最初から大人としてここにやってきた沙樹を子供達はラングのようにずっと施設にいてくれるものだと思い込んでいたのかもしれない。記憶の無いことになっている沙樹には自分達と同じように帰る場所など無いのだから。
沙樹がここに来てから三ヶ月。当たり前に続いていくのだと思っていた生活が突然覆され、子供達は顔を曇らせている。こんな表情をさせているのだと思うと胸が痛むが、それでも沙樹の『帰りたい』という決意は固い。またあの日常に戻る為ならば、大切な人達に会う為ならば何だってしよう。そう決めているのだから。だって『ここ』は沙樹の世界じゃない。穏やかな町並みも、優しい人々も、子供達の笑顔も、偶然迷い込んでしまっただけの沙樹が享受すべきものではないのだ。
「どうしても行っちゃうの?シャリハ・・」
「シーア。」
沙樹を囲む子供達の輪から一歩前に出たのは自分を姉のように慕ってくれていたシーアだった。彼女の大きな目からは今にも零れそうな涙が浮かんでいる。
「うん。ごめんね。もう、決めたことだから。」
沙樹がそう言うと、耐えるように彼女の眉根が寄せられる。けれども我慢が出来なくて大粒の雫が零れだす。沙樹は空いたもう一方の腕でシーアをそっと抱き寄せた。
「ありがとう、シーア。」
両手で顔を覆ったシーアは何も言えずにただ首を横に振る。ナズよりもずっとお姉さんの彼女は「行かないで」とは口にしない。ただ黙ってその細い肩を震わせている。
「皆も、今までありがとう。」
顔を上げて沙樹が言うと、子供達の目からはポロポロと涙が零れた。その光景に一瞬目頭が熱くなるが、自分が泣いてはダメだと叱咤する。彼らと同じく孤児院で育った沙樹は幼い頃から我侭を通せる環境にいなかった。だから涙を我慢することは、彼女の数少ない特技の一つになっている。
「シャリハ。」
「ラングさん・・・」
それまで子供達の様子を傍で見守っているだけだったラングが前に出る。中には彼に抱きつき泣き出す子もいた。そんな子供達をあやしながら、ラングはいつものように穏やかな笑みを見せた。
「今まで本当にお世話になりました。」
「いいんですよ。シャリハ。あなたは子供達に沢山の笑顔を与えてくれました。私はとても感謝しています。」
「そんなこと・・」
「シャリハ。」
穏やかだが、強い声でラングは沙樹の言葉を遮った。彼が誰かの言葉を途中で遮るなど珍しいことだ。けれどそのおかげで、沙樹は感情のまま零れそうだった自分を卑下する言葉を口に出さずに済んだ。
「いつも祈っています。あなたに太陽と大地のご加護があります様に。」
「・・ありがとうございます、ラングさん。」
ゴトゴトと不恰好な音を立てながら馬車が進んでいく。馬車と言っても荷台に簡易な幌がついただけの物で、旅人や街の人々が利用する安価な乗り合い馬車だ。初めて馬車に乗った沙樹はけれどもそれには興味が沸かず、ただじっと段々小さくなっていくサンドの街を見つめていた。椅子もクッションも無い戸板の上に腰を下ろしているその隣にはビビがいて、向かいにはエドとそして彼の兄でありログラン奏者のダルトがいた。沙樹の前では陽気な振る舞いを見せていた彼らも、今は黙って無理に声を掛けずにいてくれる。
子供達の涙とラングの笑顔を思い出して涙が出そうになる。けれどそれを唇をぎゅっと噛んでやり過ごそうとすると、不意に隣のビビが沙樹の頬に触れた。
「・・ビビさん?」
「やめときな。痕がついたらどうするんだい。」
「あ・・・、はい。」
思わず目線を落とす。そんな沙樹を見てビビは長い息を吐いた。
「アタシのことはビビでいいよ。ねぇ、昨日の夜、あの神父もいたって気付いてたかい?」
「え?」
彼女が言っている昨夜、というのはビビに歌を聴かれた時のことだろう。けれど沙樹の前に現れたのはビビだけで、ラングの姿などどこにもなかった。
沙樹が首を横に振ると、ビビは「そうだろうね」と言って座っていた足を組み替えた。
「あの時、教会のドアの向こうであんたの歌を聴いていたのはアタシだけじゃなかった。あの神父も隣にいたんだよ。」
「・・ラングさんが。」
もしかして彼は知っていたのだろうか。沙樹が時折誰もいない教会で『故郷』の歌を唄っていたことを。
「アタシは宗教には興味ないけどさ、あの神父はすごい人だと思ったよ。悩める者に自分の思う正しい道を示すことはしない。ただアンタが出す答えを待って、背中を押してやる。そうやってあの街の人達や子供達を導いて来たんだろうねぇ。」
そして大切な街の人達と同じようにラングは沙樹の背中も押してくれた。詳しい事情など何も訊かずに送り出してくれた。沙樹が出した答えを信じて。
沙樹の目からボロボロと涙が零れる。声を押し殺してあの場所で泣いていたのとは違う、人前で流す初めての涙。それと共に我慢していたものが言葉として溢れ出した。
「私・・・、何も・・・・。ラングさんも子供達も、街の人達も皆優しくしてくれたのに・・何も出来なかった。何も返せなかった・・」
体育座りした沙樹が自分の両膝を抱えて顔を伏せる。すると小さくなったその肩をしなやかな腕が抱いた。それはビビの腕だった。
「いいかい。アタシ達は客を笑顔にする旅芸人だ。そのアタシ達が辛気臭い顔をしてたら客だって逃げちまうさ。」
肩を震わせ泣いている沙樹は黙って彼女の言葉に耳を傾ける。彼女の腕は温かく、そして見た目に反して力強かった。
「だから、泣きたいなら今の内に全部流しなよ。次の街に着いたらすぐに興業するんだからね。」
「はい・・。」
沙樹は泣いた。三人の旅の同伴者に見守られながら。揺れる馬車の乗り心地は決していいものではないけれど、彼らの傍で泣けるこの時間は沙樹にとって何より大切なものだった。
馬車が止まり、終着点であるナタリアルという街に着いたのは夕暮れ時だった。休憩を挟みながらだったが随分と長い間馬車に揺られていたせいで体のあちこちが痛む。途中泣きつかれて眠ってしまった沙樹もそれは同じだった。
「んー。」
腕を伸ばして立ち上がる。泣いた後の顔は随分酷いのではないかと思うが、鏡が無いので確認出来ない。手荷物を持って馬車を降りようとすると、先に下りていたエドが手を貸してくれた。
「ありがとう。」
彼の右手に支えられて荷台から軽く飛び降りる。顔を上げて目の前を見れば、そこには沢山の建物や行きかう人々が見えた。
「大きい街ね。」
「サンドに比べれば随分大きいよ。人口だけでも十倍近いんじゃないかな。」
「そんなに・・。」
呆けている沙樹の横顔を見て苦笑すると、エドはポンッと軽く彼女の背を叩いた。
「さ。陽も暮れてきてるし、疲れただろう?さっさと宿を探して休もう。」
「あ、うん。」
先に歩き出していたビビとダルトの背中を追って慌てて歩き出す。すると振り返ったビビが「そういえば」と口にした。
「アンタのことなんて呼ぼうか。」
「え?」
「流石にお姉さんとは呼べないからね。何が良い?」
それもそうだ。あの小さな街ならいざ知らず、彼らにまで『お姉さん』と呼ばれるのもおかしい。けれど記憶を失くしていることになっているのに、明らかにこの世界の人の名ではない本名を名乗るのもどうだろう。
「えーと・・・」
教会とは違う。此処での役割はフィッツィア。つまり歌手。唄い人――Singer
「じゃあ、シンガーでお願いします。」
思い切って言ってみると、ビビは聞き慣れないであろう単語に首を傾げた。
「シンガー?」
「はい。」
我ながら単純な発想だとは思うけれど。ドキドキしながらその反応を伺っていると、ビビはにこりと笑った。
「ふーん。いいね。覚えやすいし、一回聞いただけじゃあ、男か女か分かんない名前だけどさ。でも神秘的な感じがしてアンタに似合ってると思うよ。」
「あ、ありがとうございます。」
「よし!じゃあ、名前も決まったことだし行くか。」
沙樹は大きく頷くとビビに続いて歩き出す。この瞬間こそが、自分の本当の旅立ちなのかもしれないと思いながら。
【登場人物紹介】
・沙樹(24):幼少を孤児院で過ごした一人暮らしのOL。
《サンドの街の人々》
・ラング(46):街唯一の神父であり、孤児院の子供達を世話する父親代わり。
・シーア(10):孤児院で暮らすキャメル色の髪の少女。
・ククル(5):孤児院の中で最も幼い少年。
・ナズ(6):孤児院で暮らす沙樹に懐いている少年。
・マーサ:花屋を営む女主人
《その他》
・エド(26):亜麻色の髪と目を持つ整った顔立ちの旅芸人。
・ダルト(27):エドの兄。体格の良い旅芸人。
・ビビ(28):エド・ダルトと共に旅をしているダンサー。
・シンイチ=ソラ=マライヌ:ピノーシャ・ノイエの島の一つ。マライヌ島の三十五代目領主。
【地名】
・アンバ:商業主義の大国
・サンド:アンバの田舎街
・ピノーシャ・ノイエ:大陸北東に位置する列島